ユーリア・ヘッケン伍長の述懐 2
その日は軍参謀本部からお偉いさんが視察に来るとかで、朝からピリピリしていた。視察の目的は最新式の医療設備がどうとか。まあ、私には関係のない話だ。医師と看護婦長はああでもないこうでもないと走り回っているが、看護婦は看護婦の仕事をすればいい。いつも通り朝の体調を確認し、汚れた衣類を着替えさせ、食事が摂れる者には食事を配る。日の出まで命を繋ぐことができなかった兵士の体を洗い、遺体袋に収める。包帯の交換が落ち着き始めた頃になって、参謀本部の大佐が到着した。
一目見た時の感覚を、どう表現したら良いだろうか。噂では色々聞いていた。今の前線医療体制を整備した人。帝国の名門出身で政界や経済界にも顔が利き、軍組織の中での医療の地位向上に尽くした人。一方で手段を選ばず犠牲を顧みない冷酷な男。一族の利益のために戦争を利用する死神。邪神崇拝がどうとかいう中世のような話まで回ってきていたが、車から降りてきた大佐の印象は…人間の目ではなかった。
戦争では平時では絶対に出会わないような目に遭遇する。死んで腐った子を抱え続ける母親の目。失った手足の痒みで狂気に落ちていく兵士の目。砲撃で人間性を吹き飛ばされ全身を痙攣させる兵士の、不思議なほど凪いだ目。恐らく私も、戦争前の目ではないだろう。だが大佐の目は、そうしたものを超越した何かだった。この世界の理から外れたところから向けられる目。関わってはいけないと本能が告げていた。どうせ一介の伍長が参謀閣下に関わる機会など無い。今日の視察が終わるまで、私は私の職務を遂行していればいい。
まあこういう予想ほど外れるもので、程なく私は大隊司令部に呼び出された。私の班のスザナも一緒だ。極東出身の妙に陽気な彼女と司令部として使われている民家に入ると、中には大隊長と病院長、それと件の大佐がいた。
「貴方には、本計画の専属となってもらいます」
軍隊ではまず聞かないような丁寧な言葉遣い。糊のきいたシャツ。優雅な紳士然とした佇まいなのに、やはり底知れない何かを感じる。とにかく、命令されたらそれに従う以外の選択肢はない。得体の知れない医療設備とやらのために働けばいい。
野戦病院の勤務から外された私達がまず取り掛かったのは、今まで士官宿舎として使われていた民家の清掃だった。今回の計画のために派遣されてくる軍医中尉の宿舎兼医療設備の保管場所になるらしい。私とスザナもここの一室を与えられたので、テント泊とはおさらばだ。聞けば中尉は女性らしい。女医はまだ珍しく、私も実際に出会ったことはない。想像を膨らませながら、私は新しい上官のために宿舎を整えていった。
午後になって実際に現れたのは…失礼な言い方にはなるが、子供、だった。初等学校の生徒のような体格に合わせた軍服が全く似合わない。癖のないブルネットの髪にバター色の肌、黒玉の瞳。スザナとは違うが、東方人種の特徴だ。植民地出身の少女が軍医中尉?冗談にしても出来が悪すぎる。何かの宣伝か偽装工作かとも思ったが、何にせよもう少しやりようはあるはずだ。釈然としないまま一応は階級に則った対応をするが、彼女はどうにも挙動不審だ。兵卒にへつらいながらお茶を勧める士官など見たことがない。思わず表情が険しくなってしまう。上官が舐められたら、割を食うのは部下である我々だ。
「えーと、ごめんなさい。ぶっちゃけてしまうと私は軍隊について全然分かりません。たぶんユーリアさ…伍長、の言ってることが正しいんだと思うんですが、できればその、仲間?としてというか、色々教えてもらえると嬉しい、です?」
どうやら彼女自身も色々戸惑っているらしいのは伝わってきた。同じ植民地出身者同士気が合うのか、スザナは早速親しげに接している。対応を決めかねているうちに、野戦病院への出頭命令があった。とにかく、謎の医療設備とやらの正体はこれではっきりする。彼女がそれにどう関わっているのかも。今は何も考えないと決め、私は滅多に口にできないクッキーを堪能することにした。
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