4:国境の戦端
ユーニが暮らすワンス王国とは軍事的な対立関係にある隣国、ツベル帝国。
有史以来、両者が友好的関係であったことは一度もなく、それは『勇者による少数での魔王討伐』が低コストで軍事力を誇示する伝統的な手段として定着している口実の一つとなっていた。
事件が起こったのはそんなツベル帝国との国境だ。
「おい、なんだあれ……」
二千人ほどの規模を持つ砦で国境隊長を任されているドライセンは、そんな声に反応して部下の指が示す方向を見た。
時間帯は昼過ぎ。
一日で最も日差しが強い頃合いである。
「……なんだ?」
中年から壮年へと差し掛かった彼は、これまでの人生の大半を戦場で過ごしてきた。
もちろん常に殺し合いがあったわけではないが、それでもこの世界で最も現場レベルの軍事に明るい部類の一人である。
しかしそんな彼ですら、何が起こっているのかをすぐに理解することができなかった。
「……人? にしては形がおかしいな」
まるで世界にぽっかりと穴が開いたような漆黒。
よほど強烈に光を吸い込んでいるのか、まるで地面の影が平面のまま起き上がって来たかのように立体感がないそれは、かろうじて人型だった。
しかしその骨格は明らかに人間ではなく、やや前傾姿勢で腕を地面について四足歩行に近い動きをするそれは、まるでゴリラのようにも見えた。
この世界のゴリラは魔族の住む領域にしか生息しておらず、それに類する動物すら知らなかったドライセン達は余計に困惑した。
間違いなく確かなのは、それが砦に向かってきていることぐらいか。
しかし――。
「おい、なんか……、でかくないか?」
大地を揺らす断続的な振動と共に、その<巨人>は近づいてきた。
その足取りはゆっくりに見えるが、巨大であるが故に人間基準ではかなりの速度となっている。
自分達の知る常識からかけ離れた光景を前に、国境隊の誰もが唖然としていた。
最初に我に返ったのは隊長だ。
「何をしている! 戦闘準備だ! 鐘を鳴らせ!」
ドライセンは砦の中央にある監視塔を登りながら、上にいる部下に向かって叫んだ。
ここは国境であり、彼らは軍人だ。
政治家でも役人でもない。
あの<巨人>の正体が何であれ、取るべき行動に大きな違いはない。
彼らに迷う理由はなかった。
隊長の檄を受けて我に返った兵が非常事態を知らせる鐘を叩き始めると、ヒステリックな金属音に呼び起こされて、砦の中が一気に騒乱へと突入した。
待機していた兵も休憩していた兵も、それに夜勤を終えて寝ていた兵も、それぞれの装備を身につけて持ち場へと走っていく。
監視塔を登り終えたドライセンは眼下を走る部下達を見ながら、自分自身がまだ冷静さを取り戻せていないことを感じていた。
……当たり前だ。
人間同士の殺し合いならば何度も経験しているが、こんな事態に遭遇するのは彼だって初めてなのだから。
こちらに真っ直ぐ向かってくるあの<巨人>が敵である確証はまだないわけだが、同時に味方である保証もない以上は戦うしかない。
攻城戦に準拠する戦い方であの大物を止められるどうか、そこまでドライセンが考えた時、副官のナビューも状況を確認しようと監視塔に上がってきた。
ドライセンに比べればまだ若いが、叩き上げの隊長を補佐する目的で配属されただけあって、なかなかしっかりした青年である。
しかしそんな彼も今回は動揺の色を露わにしていた。
「隊長! なんですかあれは?! 魔獣ですか?!」
「わからん! だがこのままだと、この砦にぶつかる!」
二人の視線の先では<巨人>の姿がまた一段と大きくなっていた。
感情はあの巨体が砦の横を素通りしてくれることを期待しているが、理性はその可能性を完全否定していた。
進路はこの砦を直撃するコースだ。
「とにかく攻撃だ! ありったけの砲弾を準備しろ! 打撃力が勝負だぞ!」
この世界における戦争の花形といえば、魔法と魔獣だ。
しかしそれはどちらも上級国民のものであって、こんな辺境の地で冷や飯を食わされているような一般国民には縁がない。
彼らにとって一番威力のある攻撃といえば、城壁を壊すための槌や鉄製の砲弾なのである。
(土の魔法が使えれば足場を崩して止めることも……。いや、考えるだけ無駄か)
ドライセンはいつもの癖を封印した。
自分達にも魔法が使えたら、あるいは魔獣があれば……。
それは一般国民出身の指揮官なら誰もが一度は考えることだ。
しかし、ないものねだりをしても仕方がない。
「ナビュー、中央に伝令を出せ」
「……今ですか?」
「ああ」
ナビューは無意識のうちに腰の剣に手を添えた。
上級国民というのは基本的に一般国民との接触を嫌がる。
一般国民の側から干渉する時には特にそうだ。
そのため、報告回数は必要最小限、タイミングも事後が基本となっていた。
ドライセンの命令はつまり、これが緊急の報告を要する案件で、”事後報告では間に合わない”と言っているに等しい。
「わかりました、行ってきます。……ちなみに内容はなんと?」
「あー……。任せる」
ドライセンはこの状況をどう説明したものかと迷って、結局は部下に押し付けることにした。
むしろこういう小難しいことをこなすために用意された副官だから、部下の使い方としては間違っていないはずだ。
「わかりました」
ナビューが苦笑いをしながら下に降りていくのを、ドライセンは視線で見送った。
彼ならきっとそれらしい文章をすぐに用意してくれるだろう。
「さて……」
監視塔に伝わる振動がかなり大きくなってきている。
ドライセンは再び<巨人>に視線を戻すと、砦との距離を目算した。
(まだ大砲の距離には遠い……、倍以上あるな。それでこの揺れか……)
その事実は、まるで影が起き上がってきたかのような外見に反して、<巨人>がとんでもない重量物であることを示唆していた。
文字通り山に立ち向かう戦いというわけだ。
「砲兵隊、配置完了です!」
伝令役の兵士が息を切らせながらはしごを登ってきた。
「おう、早いな」
「ちょうど訓練の時間でしたので」
「後詰が来るかもわからん! 弓と盾も急がせろ!」
……と、そこまで反射的に叫んで、ドライセンは戦闘準備がこれで事実上完了していることに気がついた。
この砦の周囲には大きな障害物はなく、遠く地平線付近まで見渡すことができる。
今の所、まだ<巨人>以外の敵影はなく、弓兵や歩兵は全く出番がなさそうである。
そして同時にそれは、この砦の戦力が八割ほど意味を持たないことも意味していた。
まさかあの巨人に対人用の剣や矢が効くということもないだろう。
……今回の敵に対して打撃力が足りない。
その事実を突きつけられたドライセンは愕然とした。
各部隊から次々と準備完了の報告が入ってくる。
伝令を出し終えたナビューも戻ってきた。
「隊長、最悪はここを放棄することも……」
副官は周囲に聞こえないよう、そっと司令官に耳打ちした。
この砦はあくまでも対人戦を前提として準備されているのであって、このような状況は一切想定していない。
いや、むしろこんな巨大な敵との戦いを想定してる拠点も部隊も、この世界のどこにも存在しないだろう。
目の前に迫ってきている驚異はそれだけ非常識な存在だった。
だが……。
「ナビュー、俺達は兵士だ。戦わない兵士に価値はない。覚えておくんだな」
「……すみません。出過ぎた発言でした」
ドライセンはあくまでもあの<巨人>と戦うつもりだった。
相手の思惑はわからないが、彼の勘はあれが間違いなく敵だと告げている。
そしてこの戦いが極めて重要な意味を持っていることも。
「とにかく奴の足を止めるぞ。ここで少しでも時間を稼ぐんだ。砲兵以外は砦の外に移動させておけ。大砲は射程に入り次第攻撃。足の関節を狙えと伝えろ」
「わかりました」
その指示が密かに自分の意見を認めた内容だと理解したナビューは、すぐに各部隊へと伝令を走らせた。
(結局あれは新種の魔獣……、なのか?)
指示を出し終えたドライセンは改めて目標の<巨人>を観察した。
その体躯はこの砦で一番高い監視塔の五倍以上もあり、遠近感を見失うほどに黒い。
見れば見るほど、本当に空間に黒い穴が開いたかのようだ。
魔獣といえばその名の通り魔力を持った獣のことだから、こんな生物が本当に存在したって別に不思議はないのだが……。
ただ、ドライセンの勘はその可能性を否定したがっていた。
実際、この世界の魔獣学者にとっても<巨人>は非常識な存在だった。
「目標、尚も接近! 大砲、そろそろ射程です!」
望遠鏡を覗いていた兵が叫んだ。
この砦にある大砲は全部で二百台強。
メンテナンスのために解体中だった個体を除き、壁の隙間や上からその全ての砲門が姿を見せている。
砲兵隊長はこの砦でも一番正確な距離感の持ち主だから、もうそろそろ攻撃の合図を出すはずだ。
<巨人>が起こす振動はまた一段と大きくなり、今度はそれに対抗するかのように砲兵隊が攻撃を開始した。
聞き慣れた爆音で砦の空気が揺れる。
放たれた無数の砲弾は、ドライセンの期待通りに<巨人>の脚へと命中した。
外れた砲弾が地面の土を巻き上げ、爆風が<巨人>の姿を覆い隠していく。
「どうだ?!」
これで効果がなければ早々に手詰まりだ。
発生した土煙が晴れるまでの数秒を、ドライセンは今か今かと待った。
こういう時に限って時間の流れがやたらと遅く感じるものだ。
そして前進を続ける無傷の<巨人>が見えた時、ドライセンの期待は鮮やかな降下曲線を描いて失望へと変わった。
「駄目か……」
「隊長! <巨人>の動きが!」
煙から出てきた対象はゆっくりと歩くスピードを落とし、やがて動きを止めた。
「……止まった?」
「効いたのか?」
人間だって、指先を少し切った程度の傷でも痛みを無視して動くのは難しいのだ。
この<巨人>だって致命傷にはならなくても痛みで止まった可能性は十分にある。
が、しかし敵が傷ついた様子がないのも事実だ。
そして<巨人>の胸が光り始めるのと同時に、ドライセンの僅かな希望は潰えた。
青白い魔力光が徐々に収束していく。
それはまるで断末魔を彷彿とさせる光景だった。
「……なんだ?」
一瞬の後、ドライセンの脳裏に『自爆』の言葉が駆け抜けた。
「逃げろ! 全軍退避だ! 鐘を鳴らせ!」
監視塔の上にいたのは隊長のドライセンと副隊長のナビューの他、望遠鏡持ちと鐘打ちが一人ずつだ。
ドライセンはぶら下がっていた鐘をもぎ取ると、それを部下に押し付けてはしごへと促した。
部下達が大急ぎではしごを滑り降りていく。
轟音と共に青白い光が砦全体包み込んだのは、地面に着いた部下が撤退の鐘を叩き始めるのと同時だった。
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