十二ヵ月

恣意セシル

五月

 薄緑色の風が、頬をくすぐるように吹き抜けて行った。オレンジと青の曖昧な空が、風の通り道だけ、影が落ちたような群青色に染まる。

 昼のうちは太陽が空気をしっかりと温め、花の香りがやんわりと香るうららかさだったというのに、今はもう、黄昏がそれをどこかへさらっていってしまった。もう一枚、服を重ねてくればよかったと思うくらいに肌寒く、冬と春の間で季節はまだ揺れているみたいだ。

 けれどもうそれも終わるのだと、僕は薄緑色の風を見て確信をした。予感に胸を高鳴らせて、僕は散歩を打ちきり家へ帰る事にする。

 急がなくては、今にも走って、すぐにでも、五月の傍へ行きたい。

 家路を急ぐ人たちを一人ずつ追い抜いているうちに、歩く足は早足に、早足は疾走へと変わる。


 緑の風は、僕を呼ぶ合図。

五月がくる。五月が、もうすぐに、やって来る。


 逸る気持ちを必死に宥めながら、家に向かう途中のスーパーで大量のミネラルウォーターと旬の野菜を買い込んだ。五月がやって来るのに必要な栄養。そして、それをつきっきりで見守る僕のために。

 混雑しているレジに足止めされている間に、空はすっかり暗くなっていた。月がぼんやりと眠たげに光り、金星だか木星だか、やたらと明るい星が静かに、震えるように灯っている。

 繁華街を抜け、大通りをふたつ渡った。信号を待っている間にまた、薄緑色の風が吹き抜けていく。暗いから解り難いけれど、柔らかな新芽の匂いをさせているからすぐにわかる。――もっとも、その匂いをかぎ分けられる人はきっと、僕以外にいないのだろうけれど。

 ひっきりなしに行き交う車のライトが、じんわりと滲んでいるように見える。嵐の前触れだ。空気が重く、じっとりと湿り始めていた。

 ぐずぐずと居座り続ける冬の気配が、南からやって来る夏の気配とぶつかって戦争みたいな気候になる。強い雨と風、即ち春の嵐。三月のように忍び寄るのではなく、四月のように弾けるのではなく、五月はいつも、激しさを行進曲にしてやってくる。その美しさと引き換えに、それまでの季節の澱も気配も、何もかも全てを吹き飛ばさなくてはいけないとでも云うようにして。

 通りを渡りきると、そこから先は静かな住宅街だ。細い路地を抜けて入って行くと、そこはもう異界。町が違う、というより、もう次元が違う。くっきりと区切られ、閉ざされた場所。聖域と云い切っても差し支えない程のそこにはまばらにしか街灯がなく、道がひどく暗い。お陰でよく見える星をいくつも数えながら角を何度か曲がり、更に細い道をくねくねと曲がってやっと、僕は家に到着した。

 築三十年のその家は一戸建てで、庭が広い。玄関先の壁には蔦が這い、僅かな土のあるところでは蕨が大きな葉を伸ばして育ちつつある。

 ポケットから鍵を出して鍵穴に差し込みながら、僕はちらりと後ろを振り返った。このあたりの空気が、やや緑がかっているような気がする。それ越しにみた、向かいの家の玄関先の光も淡い緑色。

「なんだ、今年は随分せっかちじゃないか」

 僕はひとり言のように呟いて、鍵をくるりと回した。扉を開けると、待ちきれない様子で緑の空気が滑り込んでいく。

 暗い部屋の中、僕は灯りを点けず静かに靴を脱いで上がり、すぐのところにあるシンクに置いてあったグラスへ、買ってきたミネラルウォーターをなみなみと注いだ。

 シンク前のスペースは廊下も兼ねている。水で満たされたコップと買ってきた野菜を手に、僕は居間と台所を区切る小さな扉を開いて中へ入る。

「五月、ただいま」

 居間は一番奥の壁一面が窓になっていて、とても明るく日当たりがいい。その窓際に設えた寝床の中で、五月はいつも安らかに眠っている。

 枕元にグラスと買ってきた野菜を適当にそのままざるに盛って置き、僕は彼女の傍らに腰をかけた。

 すぅ、すぅ、すぅ、という、規則正しい呼吸音。上下する胸。かたく閉ざされた瞼には、睫毛の影が伸びている。

 満月のような、満月でないような、曖昧な幾望の月が、天井近くの灯りとり窓から覗いていた。月の光で青白いここはまるで水の中の様だ。閉め切られていた室内の空気はいやに冷たく、なおさらに透明な水のイメージを増幅させる。

 五月が眠るベッドの傍らに置いてあるサイドテーブルへ手を伸ばし、僕はラヂオのスイッチを入れた。ざらざらとした音の向こうで、男のアナウンサーがニュースを読みあげている。

「今日午後三時半頃、東名高速道路××坂インター出口でトラックが横転し――…」

「今日最後の相談は、福井県にお住まいの――……」

「それでは、神奈川県K市にお住まいのちひろさんのリクエストで――…」

 天気予報を聞きたくて電源を入れたのに、そんなときほどやっていない。ザッピングをしながら、僕は月が雲に隠れないかどうかをちらちらと確かめた。

 嵐が来るはずだ。深い眠りの底から強引に彼女を引きずりだそうとする、最初の大きな声としての嵐。きっと彼女は目醒めないけれど、眠りの深度は浅くなる。そしてゆっくりと浮上を始める。僕はそれを見守る、ただその為だけに、ここに居る。

 いくらチャンネルを回しても天気予報には辿り着けず、僕は諦めて最初に聞いた交通事故のニュースをやっていた周波数に戻る事にした。

 家にはテレビがない。携帯電話も必要がないから持っていない。情報はラヂオと新聞、街を出歩いているときに耳に入って来る誰かの会話で手に入れていた。

「――埼玉県S市の路上で、突然、歩いていた女子高生が何者かに刃物で刺される事件がありました――…」

 天気予報を待っている間に流れてくるのは、事故とか事件で誰かが命を落とすものばかりだ。この国のどこかで、どこででも、人は面白いくらい簡単に死ぬ。殺す。殺される。それも、大抵が本意ではない形で。

 誰だって死にたくない。それは自分も他人も一緒だ。そしてもちろん、生きていくからには不幸になりたくない。幸せでいたい。ならば何故、彼らは傷つけあったり、殺し合うのだろう。死は不意に、理不尽にやって来るものだということをきちんと理解して、それを回避しようとしないのだろう。

 自分の幸せだけを追求していけばいいのに、彼らはそこへ他者を含めたがる。そしてその迂闊さで、「こんなはずじゃなかった」と嘆いている。僕にはいつも、それが不思議で仕方がない。

 退屈なニュースを聞き流しながら、布団からはみ出して冷えてしまった五月の手を握った。手首の内側に触れる。思いのほかしっかりとした脈を感じられる。

 僕は眼を閉じて、この部屋に充たされた冷たい水がゆっくりと外へ出て行くのを想像した。水が完全に引いたら、入れ替わりにここは春の気配に充たされる。ほら、さっき一緒に入ってきた緑の風が、さっき置いた水と野菜を食んで育っている。大きくなっている。パンクしてしまいそうなほどに、命の気配が濃密に、いる。存在している。

「……五月、起きて。もうすぐだよ」

 耳元に口を寄せ、そう、囁いてみた。こんな言葉で、彼女が起きてくれるはずはないけれど。

「それでは、明日の天気をお知らせします」

 そうこうしているうちに、天気予報が始まった。僕は彼女の耳の傍に顔を置いたまま――そう、顔に覆いかぶさるような恰好でニュースを聞く。待っていたとでもいうように、外で風が大きな音を立てて唸る。

「台風並みに発達した低気圧の影響で、関東地方には強風、豪雨の予報が出ています。深夜から多いところで二百ミリリットルの雨、予想される最大風速は三十から四十メートルです。沿岸部では高波の危険がありますので、注意してください。また、雨の影響で河川の氾濫も懸念されますので、各自治体・市町村の警報などをよく聞くようにしてください」

 深夜から、というのは、やや悠長すぎる予報ではないだろうか。ああ、彼らにはわからないのかもしれない。こんなにいっぱい、空いっぱいに充ち溢れている嵐の息遣いが届かないのだ。見えないのだ。前線、低気圧、高気圧、雲の形。そういうものでしか、空の機嫌を測れないのだろう。

 絡めていた手を解き、窓を開けた。さっきとはまるで違う、冴え冴えと白く光る月が天頂に差し掛かっている。雲の姿はまだ見えないけれど、強い風が吹き荒れ、どこからか桜の花びらを連れてきている。芽吹いたばかりの新芽、ビニール袋、何かのチラシ、そんなものもびゅんびゅんと空を飛んでいく。

 外を暴れ回る風に引きずり出されるようにして、室内の冷たい空気が開け放たれた窓から飛び出していった。それはぎゅうぎゅうに圧縮された冬の気配。凍えるほどに冷たい水を真似たそれは、まだいやだ、と駄々をこねるように旋風を巻いて空へ拡散していく。その途端に室内が渇き、かと思えばもう緑の、新緑の気配に充たされようとしている。ここは空っぽになることがない。いつも、いつでも、季節の気配に充たされている。

 玄関でばん! という音が立て続けに鳴った。慌てて見に行くと、ミネラルウォーターのボトルが粉々に弾け飛び、玄関と、隣接している台所が水浸しになっている。いつもなら僕が開けるまで待っているのに、今年の緑の風――新緑の気配は随分と荒っぽい。これだけの嵐を連れてくるのだから仕方がないか、と諦めながらも呆れてしまう。

「頼むから、一滴残らず飲み干してくれよ。片付けるのは大変なんだ」

 シンクの上にある窓も全開にすると、空から溢れるほどの月明かりが床の水たまりに映り込み、ぼうっと明るくなる。月までもがはしゃいでいるのだろうか。

 五月のもとへ戻ると、吹き込む風にカーテンが大きく膨らみ、本棚の本ががたがたと揺れ出していた。テーブルの下に敷いていたラグも大きくまくられてぐしゃぐしゃに丸まっている。家そのものまでみしみしと揺れて五月蠅いくらいだ。

 風がびゅんびゅん、轟々と吹き荒れている。近所の家はどこも雨戸を閉ざし、僅かな街灯の光も頼りない。ここには月の光しか頼れるものがない。近くにあるはずの大通りから、今日は車の音も聞こえてこなかった。聴こえてくるのは風が騒ぐ音ばかりで、それ以外はすべてかき消されてしまっているのかもしれない。

 心細いほど暗く、嵐の音しかしない。そしてそれこそが五月の訪れる夜に相応しいと、僕は満足さで胸がいっぱいになる。

 なんだかいてもたってもいられなくて、僕は水浸しの玄関へ向かった。そういえば五月に飲ませるための水がない。出来れば彼女を残して外出するのは避けたいので、一本だけでも残っているといいのだけれど。

 洪水の後みたいに無残な様相を呈しているそこへ、ズボンの裾が濡れるのも構わず、僕はずかずかと踏み込んで行く。今はとても気分がいいから、些細なことには構わない。構いたくない。

 新緑の気配は乱暴だが、僕と五月にも水がいることくらいはわかっていたのだろう。二本のペットボトルが無傷の状態だった。それなりの気遣いまでは忘れていないらしい。

 右手と左手に一本ずつそれを持ち、上機嫌で踵を返す。そして一歩を踏み出すと、

「いって」

 ペットボトルの破片を踏んでしまった。そうだ、破裂させられたのだから、破片があちこちに散らばっているのは当然のことだ。すっかり失念していた。

 ずん、ずん、と、怪我をしたところで痛みが脈動している。血と水が混ざって、錆びた臭いがじわじわと立ち昇って来る。

「面倒だな」

 夜の冷気で冷えた水の中、足の裏の一部が温かい。それは心地よかったが、ぬるつくのは具合が悪く煩わしい。

 それでも我慢して止血は後回しにすることとし、僕は五月の元へ向かった。

 歩くたびにぴしゃぴしゃという音がして、床に貼りつく感じがする。月はまだ隠れず、この部屋へ存分に光を注いでいるが、薄く引き延ばした綿のような雲が向こう側から迫って来るのが見える。

 五月の傍に座り、ティッシュペーパーを何枚か引き出して、足の裏にあてがった。たちまち、それは白から赤へと色を変える。これは、止血にいくらか骨を折る羽目になりそうだ。

 これでもか、というくらいに大量の紙をまるめて床に置き、患部にあてがうようにして踏みつけた。押さえておけばどうにかなる。きっと。

 血浸しの足を放置して僕はミネラルウォーターのキャップを開け、一口飲んだ。冷たい液体が染み込むように内臓へ降り、すうっとする。外からは相変わらず風が吹き込み、隣の家の庭で咲き始めていたミズキの花びらが舞い込み始めていた。淡い紅色の花弁も、今は月明かりの下で蒼褪めて見える。

 血の匂い、水の匂いに紛れて、青草の匂いがちらほらと顔を出すようになった。強くなったり、弱くなったり、随分と不安定だ。

「あまり急ぎ過ぎると、冬にやり返されるぞ」

 どんどんと膨張する新緑の気配もまた、吹き込む風に負けじと、鉄砲水の勢いで溢れ流れていく。青暗い夜と新緑の風が混ざり合い、空気の色がエメラルドグリーンに変わる。かと思えばピーコックグリーンだ。なんとも忙しない。

 部屋の中も外も大騒ぎなのに、五月の周りだけが無風地帯だった。髪一本さえ吹きあがらない。荒々しい春の嵐も、新緑の気配も、彼女を労わり見守っている。そして早く眼を覚ませと、起き上がって夏直前の、最も美しい季節を呼べと訴えている。


 彼女が目覚めなければ五月は始まらない。芽生えた芽は育たず、枝を伸ばさない。葉を広げない。美しく済んだ青空を、太陽を呼ぶことが出来ない。穏やかで落ち着いた長雨も来ず、梅雨を育てることもできない。


 ぴしりと音がして、壁に掛けていた時計の盤面にひびが入った。目醒めない五月に業を煮やしたのだろう。だが、いつだって五月はなかなか目醒めない。訪れてから暫くは寒さと暑さの繰り返しの中、静かに準備を整えている。

 時計は既に夜中の十二時を回っていた。いつのまにそんな時間が経ったのだろう。ふと足を上げると血もとうに止まっており、かさかさとした赤いペンキみたく渇いた血が剥がれ落ちた。

 五月の傍にいるとどうしたって、時が経つのを忘れてしまう。いつも、いつも。

 彼女が恋しくて、彼女に早く逢いたくて、僕は一心に桜を咲かせ、南風を呼び、出来るだけ丈夫で健やかな新芽を出させるのだ。三月から引き受けた未熟な春の気配を育て、新緑の気配と綺麗に混ざり合い、去年よりも、来年よりも素晴らしい初夏を彼女に手渡せるように。

「急がなくていいよ、五月。君のペースで浮かび上がっておいで」

 水をもう一口、口に含み、五月に口づける。地下水が染み出してくる速度で彼女の中へ注ぎ込む。

 不完全なものは要らない。五月は常に熟しきった、完全な姿でいてほしい。新緑が焦れる気持ちもわかるが、弱々しく曇りがちな、肌寒い五月なんて悲しいばかりだ。きっぱりと照り付ける太陽の健やかな眩しさ、その下で噎せ返るほどに生い茂る緑こそが彼女に相応しい。そのためにこそ、彼女がゆっくりと支度を整え、目覚めるべき時に目覚めるのを待たなくてはいけないのだ。

 がたんがたんと風は相変わらず強く吹き、食器棚の扉をがたつかせる。本の表紙をちぎり取るような勢いで暴れ回る。それが連れてきた分厚い雲が月を徐々に隠し始め、ちらちらと明るくなったり、暗くなったりと落ち着かない気持ちにさせる。

 去年、南米の方の異常気象が原因で五月はぎりぎりまで起きなかった。その苛立ちがまだ残っているのだろうか。乱暴さが目に余る。

 僕もつられて苛々しそうになりながら、静かに心を落ちつけようと、五月の額にそっと手を置いた。それは青白く発光しているように見えるほど白く、つるりとした小さな額だ。冷やかな陶器を思わせるそれは、しかし触れると柔らかな産毛に触れる。おかしな話だけれど、僕はその感触でいつも、五月が死んだようでもきちんと生きていることを実感し、安心するのだ。

 明日の昼にはこの嵐も止み、もつれるように北の方へ流れ去っていくだろう。新緑は待ち草臥れて少しへたれてしまうかもしれないが、きちんとあちこちに気配を行き渡らせ、春雨への備えを万端にするに違いない。こんな執拗に五月を目覚めさせようと荒れ狂うのは、裏返せば一途で真面目ということだ。

 遠くからさまざまな物が吹き飛ばされる音がする。分厚い雲はいつ、雨を落とし始めるだろう。

 少し疲れを感じ始めてきた。高揚しすぎてはいけないと抑えていたつもりだけれど、あまり上手く出来なかったのかもしれない。

 五月の身体の下に手を差し入れて、奥の方へと移動させる。今日はもう、僕もこのまま眠ってしまおう。優しい夢を見て、彼女の目覚めるのを待つ栄養に出来たらいい。

 開いたスペースに身体を滑り込ませ、目を閉じた。

 人が関与していないノイズ、血の匂い、水の匂い、草の匂い、新緑の気配、嵐の予感。

 混沌として賑やかな夜の中、雨を待たずに僕は、奈落へ落ちていくように眠りへ引きずり込まれていった。


 幾望は満月に。満月は十六夜月に。十六夜月は立待月に――気付けばあっという間に下弦の月に変わってしまった。

 嵐は一晩で去り、新緑は未練の尾を引きずりながらどこかへ消えて行った。花を幾つかむしられたことも忘れたように隣家のミズキは満開を迎え、。盛りを過ぎた八重桜は芝生をピンク色で染め上げる。

 水と生の野菜を齧りながら僕は毎晩五月に付き添い、その寝顔を見つめ続けた。飽きることはけしてない。ただ、徐々に膨らんでいく期待がそろそろ重苦しく、持ちきれない程になっていた。

 予感はいつもある。野草の種がじんわりと水を吸って発芽するように、それは着実に育ちやってくる。


 静かな夜だった。明け方になるまで月が昇らない。新月を目前にした空は星が瞬くばかりで、真上の北斗七星が弱々しく光っていた。いつもはこんなに暗くない。薄く雲が掛かっているのかもしれない。

 僕は爪を切りながら、ラヂオから流れてくる音楽に耳を澄ませていた。水の入ったグラスは窓から差し込む淡い街明かりを孕み、まるで光そのもののように透明で綺麗で、僕は心からの充足を得る。

 美しいものが好きだ。そして、それに囲まれて五月が安らかでいることが幸福だ。

 五月は眠っているけれど、全てを知り、わかっているとも思う。今年の嵐と新緑が今までになく荒っぽかったことも、僕が待ち侘びすぎておかしくなりそうなことも、少しバランスが悪かったけれど、去年は夏がうんと暑くて冬がものすごく寒くて、春がこれ以上なく素晴らしかったこと。僕が知っていて彼女が知らない事は殆どないのだ。

 流れてくるのはピアノとヴァイオリン、チェロの三重奏。ピアノの音が物悲しいけれど、チェロの低音がそれを肯定し、ヴァイオリンの響きがそれを包み込むように絡みつく。穏やかで切なさを誘うメヌエット。

 音に溺れるようにそれを聴いているうちに、突然眩暈を感じた。懐かしい感覚だ。僕はこれを良く知っている。繰り返し、繰り返し、何度も味わっている。時が来たということ。五月の目醒める兆し。

 グラスの水を飲み干し、五月の傍へ寄った。額と額をくっつける。

「五月、とうとう、来たね」

 目を閉じたらきっと、もう開くことは出来ないだろう。既に立ち上がれない。自分が揺れているのか、世界が揺れているのかも定かじゃない。

「今年も、君のために出来る限りの事をしておいたよ。だからどうか安心して。そして美しい五月を見せてくれ」

 眠り続ける五月の瞼が、僅かに震えたように見えた。これは僕の意識レベルが下がりつつある故の幻だろうか?

 そこから先、僕は彼女の身体の上に倒れ込まないようにするのが精いっぱいだった。もっと気の利いたことができたらいいのにと毎年、季節が巡って来る度に思う。彼女はいつだって激しく、突然だ。雨の上がる瞬間が、目をそらした後の雲の形が予想できないのと同じようにして。


 五月が目覚め、四月(僕)は眠る。自分自身を苗床に、春の終わりを初夏に託す。

 僕は永遠に五月と出逢えない。閉じた瞼に注ぐだろう美しい季節を期待しながら、彼女の瞳が開かれる音を聴く。

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