4.innocent frog
道なりに、というほど、道が道として機能していないので、
歩ける場所を歩いているという方が正しい。
様々な時代の、様々な様式で、様々な記憶を、
重ね合わせたようなこの世界は不規則に規則的だ。
立ち入れない場所は、わかりやすく地がなく奈落なので、まるで誘導されているように、結局、あの教会に向かっていくことになるのではないだろうか。
奇妙なこの世界の住人たちは、モチーフだけは可愛らしい。
相変わらず目に痛いカラーリングで蠢いている。
芝生にしては色鮮やかな草が敷かれ、周りには、不気味な背の高いきのこのようなものが、うねうねと波打ちながら立っている。
キラキラ発光する王子を、探しているという不思議の国のアリスは、
早めの歩調で、まるで招かれているかのように、すいすいと道程を歩いてゆく。
後ろからその様を眺めていると、奇妙な色彩感覚と、乱雑なように見えてなぜか調和がとれている風景がマッチして、まるで一枚の絵画のようだ。
そんな彼女だが、急に歩くのを止めた。
何かをじっと見つめている。見つめている先は、小さな影。他の愉快な動物たちと違う姿。形容するなら、それは正しく人だ。
理由も分からず、地獄に突き落とされた哀れな罪人は、僕と絵里だけではない。
責め苦を受けることもなく、放置されている人は他にもいる。
僕が思い出せるだけでも、結構な人数いたはずなのだが、
見かけなくなってしまった。
知らないところで、やはり何らかの刑罰は執行されているのだろうか。
絵里が、じっと見つめたまま動こうとしないので、僕が様子を見に行く。
警戒するのも無理はない。人は、人を傷つける術を持っている。
それは地獄となっても同じだろう。それに加えてこんな場所だ。
正常な思考で動いている人間が、どれほどいるというのだろう。
近づいてみる。やはり、それが人であるのが確認できた。男だ。
目も虚ろで、頬もこけている。短めに刈られた髪は、艶を失ってぼさぼさだ。
皺だらけのTシャツ、色の抜けきったジーンズ、あまりよい生活を送っていそうにない男は、興味なさそうにこちらを見ると「よお、アンタ、なんか元気そうだな」と声をかけてきた。
首が痛いのか、しきりに揉んだり、押さえたりしている。
その男も気にはなるが、横に付き添うように鎮座している、王冠を被った、『カエル』の方が気になっていた。
白い陶器のようなからだに、金色の王冠がちょこんと乗っている。
たまに目をぎょろぎょろ動かしているが、それ以外の部位を動かす気配はない。
生き物というよりは、精巧にできた玩具のようだ。
そして、でかい。でっぷり肥えているし、男の身丈の倍はある。
珍妙な生物だらけだが、ここまで巨大なのは、あまりいない。
「元気そうに見えるのかい。立場的にはお互い様だと思うけどね」
そのカエルは見なかったことにして答える。
「違いない」
男はへへっと力無く笑った。
「ここはなんなんだろうな、薄気味悪くて仕方がない」
「地獄なんじゃない。天国と呼ぶには救いがなさそうだ」僕は答える。
天国に救いがあるのかどうかは知らないが、もっと心安らぐ場所だろう。
日長、日向ぼっこをしながら、清らかな隣人と当たり障りないことを語り合い、
過ごす場所……。
あれ?あまり楽しそうではないな。
「俺は犬を庇って死んだはずなんだ。犬を庇って死んだのに、なんで地獄なんだろうな」男は言う。
言っちゃ悪いが、犬を庇って死ぬような殊勝な男には見えなかった。
目は座っていて、だらしがなく、覇気もない。
息をするのも面倒くさがりそうな、そんな風貌をしている。
「飼っていた犬なのかい」
当たり障りのない質問を選ぶ。
「俺の犬じゃねえよ。付き合っていた女が飼っていたんだ。なんで、あんなクソ犬を助けようなんて気が起きたんだか……」吐き捨てるように言う。
やはり……犬好きではないのだろう。そうなると俄然興味がわいてきた。
「何故、助けたのさ」
「何故……?何故なんだろうな、でも俺は、そのことを後悔している。後悔している……はずだ」
要領を得ない話し方をする。
「なあ、アンタ、聞いていっちゃくれないか。俺の……後悔の話を」
絵里の方を見る。時間が、かかりそうだ。
聞く義務もないけれど、このまま放っておくのも何となく気が咎める。
彼女は僕の視線に気がついたのか、黙ったまま頷いている。
こちらに来ようとはしていない。やはり怖いのだろうか。
こんな世界だ、突然この男が鬼となって襲い掛かって来ても、何ら違和感はない。
「構わないよ、僕でよければ。告解を聞こうじゃないか」
「でかい犬だった。ゴールデンレトリバーって犬種だったかな。名前は何だったかな、そう言えば、名前で呼んだことがないな。あんた、犬を飼ったことはあるか」
男が聞く。何となくだが、声が緊張しているように感じた。
焦り、不安、僕と話しているのに、別の誰かを見ているような、そんな違和感。
「いや、生憎、動物は飼ったことが無いよ」
「それがいい。手間がかかって仕方がない。飯はアホみたいに食うし、まめに散歩にも連れて行かなきゃいけない。そして五月蠅い」
「参考にさせてもらうよ」
ますます、この男が、何故疎ましく思っている犬を庇って死んだのか、
わからなくなった。
「頭も悪いみたいでよ、「おい」とか「お前」とか呼んでも、健気に尻尾を振っている。とにかく彼女のお気に入りでさ、俺よりそいつを構うもんで、よく妬いていたな。俺は別に犬は好きじゃなくてさ、犬というか、生き物全般興味ねえ」
「話が見えないな。愛着がないものを庇うまでの話の筋が見えないよ」
「まぁ、とりあえず聞いてくれ、この話はまだ序章なんだ」
「わかったよ」と僕は答える。
そもそも、この男は、何故話を聞いてもらいたいのだろう。
あまり愉快そうな話でもない。何らかの罪を背負っている?
他人に話をする場合、大体の理由が発散だ。
相談事を持ち掛けられても、話すことを目的としていて、
答えを貰うことを目的としていない場合が殆どだ。
その他に理由があるとするなら、……寂しいからだ。
こんな世界だ、人恋しくなっても仕方がない。
ずっと一人で、何ができるわけでもなく、
無味乾燥な、記憶を積み上げていくだけの作業。正しく地獄じゃないか。
退屈で人を殺し続ける地獄。
「鬱陶しくて、手で追い払ったり、蹴り飛ばしたりもした。それでも健気にへらっとした顔で近寄って来るんだ。『ぼくの事好きなんですよね』って顔をしてやがる。いや、メスだったか?まあどっちでもいいや」
急いた調子で男は話を続ける。
「彼女が可愛がるもんだから、それなりに相手をしてやっていたよ。決まった量の飯をやったり、散歩に連れて行ったり。ブラシで毛を梳いてやったりもした」
「結構、可愛がっているじゃない」
「そんなんじゃねえよ、へ、変なことを言うなよ。……そ、そんでよ、そいつが足を怪我して帰ってきたんだ。元々すっとろい犬だったのに、余計にすっとろくなっちまった。それでも彼女が可愛がるもんだから、お、俺も世話をしてやっていたよ」
男の様子がおかしい、急に慌てだしたように感じる。
言葉もたどたどしく、手が震えている。何かを手で払う素振りも見せている。
「俺が犬の世話をすると彼女が喜ぶんだ。そう、喜ぶんだ……。だ、だから一生懸命世話したさ。彼女の笑顔を見たいから。見た……。見たいい。ひこっひこっと弾むようにしか歩けなくなったその犬を、毎日散歩に連れて行った。い、家に帰ると、彼女が飯を作って待っていてくれるんだ。ま、待っていてくれるよな?」
「どうしたの」
様子のおかしくなっていく男にたじろぐ。
男の目はもう、僕の事など見てはいないかった。
ひたすら何もない空間に話している。
「そ、そうなんだ、犬なんてどうでもよくてさ、笑う彼女をずっと見ていたかった……笑って……儚くて消え入りそうな笑顔を湛えて、向かいの席に座っているんだ。俺が言うことを黙って聞いてくれている。そう、一言も話さないまま……な、なんで話さないんだ?聞こえていないのか?聞いてくれよ。俺の話を」
「聞いているじゃないか」
そうは言ったが、きっと男が話しかけているのは僕ではない。
白く巨大なカエルの目が、男の方を見ている。
いままで特にどこを見るでもなく、ぎょろぎょろと目を動かしていたのに。
じっと、目玉だけを男に向けている。
よく見るとヤギのような眼球をしている、横に平たい。
そんなカエルを観察していると、一瞬だけ僕の方に視線を寄越した。
ぐげげげげと喉を鳴らす。……怖い、逃げたい。
「犬はよぉ、相変わらず『ぼくのこと可愛いから好きなんですよね』て、顔でこっちを見てくるんだ。ち、違う、お前の事なんて好きじゃない。だからあっちに行けよ。鬱陶しいんだよ。お前のことを見ていると、何故か胸が痛むんだ。頼むからあっちに行ってくれ……。投げたボールを追いかけて行って、そのまま帰ってこないでくれ。無垢な笑顔を向けないでくれ……。無垢な情をぶつけないでくれ……。苦しいよ。汚れ切った俺が、露呈してしまう。違うんだ、許してくれ。少し魔が差しだけだろう。犬ばかり構っていたお前が悪いんだ。そんな憎々し気に俺を見るな…………。その手をこっちに伸ばすな」
言っていることが、支離滅裂だった。
怯えているのは、一体……何だ。
カエルだと仮定しても、向いている方向がおかしい。
「ば、馬鹿犬が、ろくに歩けもしないのに、うろちょろするんじゃあない。投げたボールの方に行けよ。何処に行くんだ。何処に行くんだよぉお。そっちは危ない。なんで道路のど真ん中に行くんだ。目が付いていないのか。そんなとこでへたり込むんじゃあないよ。ああ、ああ……もう間に合わない。首輪をつかんでそのまま放り投げたんだ。重くてよ、反動で俺は倒れたんだ。減速が間に合わなかった車に、跳ね飛ばされて俺も宙を舞った。霞む視界のはじっこに、なぜか彼女がいたんだ。人間、そんなに顔をゆがめられるんだなってぐらい笑顔でな……」
そう言って男は、糸が切れたように、また項垂れてしまった。
きっと話したいことは、話し終えたのだろう。
「話を聞いている限り、君は、その犬の事を大切にしているように感じたよ。ただ……その、重荷にはなっていたんじゃないかな」
「好きじゃないよ。死ぬと彼女が悲しむから助けたんだ」
男はぽつりと言った。
「名前は?あったんじゃないのかい?さっきの話で名前が無いは不自然だよ」
「あるさ。キャサリンって名前だ。最期まで呼ぶのが恥ずかしかった」
消え入るように呟いた。
「女の子だったんだね」
「そうさ。俺の話すことを、黙って聞いてくれるやつだった。何を話しているかもわからないだろうにな」
平静を取り戻したようだ。つきものが落ちたような顔をしている。
「その犬の事が、やっぱり好きだったんだよ」
「そうかもな」
男は、膝を抱えて顔を伏せってしまった。もう語ることもなくなったらしい。
「そろそろ、僕は行くよ」と、立ち去ろうとする。
「ああ……、俺はもうお終いだからさ、最後にまともな奴と話せてよかった」と、男は返した。
しばし、言葉の意味が分からず立ち止まる。
「お終いって……?」と、問おうとした瞬間、白いカエルが、あんぐりと口を開けて、男を咥えた。そして、するすると飲み込んでいく。
男は、抵抗することなく飲まれている。
足まで飲み込んだら、満足したように、ぐげげげげげっと喉を鳴らす。
ヤギのような瞳を細め遠くを見やると、跳ねて、跳ねて、何処かに向かう。
これは自分のものだとでも言うように。
ぴょんぴょんぴょんぴょん遠くに去っていく。
あまりの事に僕はその様を、ただ、見送ることしかできなかった。
遠くに、遠くに、去っていく。
風景に馴染んでいくカエルの姿を見て、また、絵画のようだと感じた。
絵里の方を見る、貼り付けたような無表情な顔で、カエルが行く先を見ていた。
無感で冷たいその眼差しは、美しかったが、少し怖かった。
「犬……ですか?」と、いつもの表情に戻った絵里が言った。
所々、話自体は聞いていたのだろうか、返しに困る、端折ったような問いかけだ。
「結局、犬が好きなのか嫌いなのか、はっきりしない人だった」
「そう……なんですね?」要領を得ない、といった風に答える。
「食べられちゃったなぁ、あのでかいカエルに」
「食べたんでしょうか。私には、大事に仕舞いこんでいるように見えました」
「そう?」
確かにそう言われると、腹の中に入れて、運んでいったように見えなくもない。
しかし、食べていないように見えるのは、
カエルが咀嚼をしないからではないだろうか。
カエルは獲物を丸のみにして、そのまま胃液で溶かしていくはず。
その様を想像して、少し気分が悪くなる。
「私、犬を飼っていたんですよ。ショコラって名前です。とっても可愛い子」
絵里は歩き出しながらそう言った。
飼っていた……ということは、もう亡くしているのだろうか。
「とっても……可愛いんですけど、無垢で無尽蔵な愛情が、少し怖くもありました」
「怖い?」
「そうです。こちらを慕ってくれる情の、原動力が分からないんですよ」
「ご飯がもらえるからじゃないの」
「ご飯をあげていたのは、母だったんですよね。それならば、その情は母のみに向けられるはずじゃありませんか?」
絵里は言った。確かに、理屈で考えるとそうなる。
「私、小学生の頃に家出したことがあるんです。きっかけは本当に些細で、何故、家出したのか未だに分かりません」照れたように言う。
「それで、ですね。その家出の間、ずっと、ショコラは側にいてくれたんですよ。私が家出したのをわかっていたんですかね。私も滅多に一人にならないもので、怖くてショコラをぎゅっと抱いていました。ショコラは『お家に帰らなくていいの?』て、顔をしているんです。日も落ちて、お腹も空いているだろうに、ずっと横にいてくれる。優しい瞳で『お家帰ろうよ』って言ってくれているみたいで、いじらしくなって、切なくなって、胸がきゅっとなって、家に帰ったんです」
「なんだか可愛い話だね」
「家に帰ってからも、私が、お父様とお母様に怒られないように、側にいてくれたんです。『お散歩に行っていただけだよ?』て、顔をしながら」と話す絵里は、少し涙を浮かべているように見えた。
よほど可愛かったのだろう。
僕も少し、犬が飼いたくなってしまった。
無垢で無償の愛……きっと人間には難しい種類の愛。無償の愛。アガペー、本来なら神から与えられる愛。
人間の愛には、基本的に原動力がいるからだ。
打算的で混じりけの多い原動力が。官能的で貪るような原動力が。
「どんな種類の犬だったの」
「シベリアンハスキーです。狼みたいで可愛いんですよ。無邪気で、どこにでもついてきて、弟みたいでした」
思いの外、ごつい犬だった。
「ちなみにまだ存命です。十九歳だったはずです。長生きですよね」
そう言って歩みを止めた。どうしたの?と僕が問いかけようとしたら、
「…………あっ、ああ……私、ショコラより先に死んでしまったんですね」
と言い、絵里がぶわっと泣き出してしまった。
「……あの子、きっと悲しみます。どうしましょう」
絵里が、ほろほろと泣いている。
突然、決壊してしまった絵里の肩を抱く。
嗚咽で震える体が少しでも落ち着くように。
与える主を失った、無垢の愛の行先の事考えたら、
堪えることができなくなったのだろう。
徐々に『死』が絵里を蝕んでいる。
もしかしたら、与えられた愛が澄んでいるほど、
失ったときの反動が大きいのかもしれない。
僕は、ショコラの代わりになれるだろうか。今は、じっと黙って添う。
しばらくの間、そうしていた。
遠くで微かに鳴る、鐘の音だけが聞こえる。
絵里の心情を考えると不謹慎だけれど、この瞬間も悪くないなと思えてしまう。
思い出せる限り、僕は、この世界に漂着してから、殆どの間孤独だったはずだ。
伴う相手がいるだけでも、こんなにも安らぐ。
やがて絵里は落ち着いたのか、薄く微笑んで「ありがとうございます。もう大丈夫です」と言った。
「良かった」と僕は返す。
「思ったよりダメージが大きかったです」照れたように言う。
「言葉が通じない分、その悲しみに底がないような気がして、悲しくて、怖かった」
再び絵里は歩き出す。先程よりは、ゆっくりした歩み。他愛のないことを話しながら歩く。本当に、独りきりでなくて良かったと、心から思える。
「ショウさん」
絵里が声をかけてきた。
「どうしたの」
「カエルの王様って童話を知っていますか」
あのカエルが気になっていたのか、またカエルの話題に戻った。
「キスしたら王子に戻るやつだっけ、あれ、王様だっけ?」
「やはりそういう認識ですよね。元のお話を見ても、お姫様がキスして戻るって記述はないんですよ。叩きつけられて、元の王子様に戻るんです」
「叩きつけられて?」
聞き返した。随分とマゾヒズムな王子だな。
「カエルの王様が、お姫様の落とした金の毬を探してあげる代わりに、一緒に食事したり、寝て欲しいって要求するんです。お姫様はどうしても金の毬を取り戻したかったので、要求を呑むんですけれど……相手はカエルじゃないですか。拾ってもらっても嫌で逃げちゃうんですよ」
「可哀想に」
僕は、感情を込めずに言う。女性とは、時に対価を払ってくれないものだ。
それを皮肉った教訓の話なら、それはそれで為になる。
「でもカエルの王様も負けてはいないんです。お姫様の元へ無理やり押しかけるんです」
「ガッツあるね」愉快そうに相槌を打つ。
「それでもやはり、お姫様は受け付けることができなくて拒みます。いよいよ同衾させてくれ、と要求するカエルの王様を不快感のあまり壁に叩きつけたら、なんと美しい王子様の姿に戻るんです。呪いが解けたらしいですよ?叩きつけられて。王様が王子様に戻るのもややこしいですね。……何故、キスで戻るって思い込んでいたんでしょうか。マンデラエフェクトですかね」
「マンデラエフェクトってなにかな」
聞きなれない単語だ。
「わかりやすく言うと、集団で勘違いしている現象ですね。南アフリカ共和国に、マンデラさんという大統領がいたんですが、何故か一定の人々が、1980年に獄中で亡くなったと勘違いしています。実は1980年時点では存命で、もっと後の時代でなくなっているんですよ。近いところで言うと、何故か亡くなったと思われている芸能人です。実は落ち目でメディアからいなくなっていただけなのですが、実は死んでいるという、過激な虚言が真として流布された、とか。まあ……とりあえずマンデラエフェクトの話は、置いておきますか」
結構気になっていたのに、置いておかれた。
「二次作品で、お姫様のキスで呪いが解けて、ピカピカの王子様に戻るお話があったんでしょう。そちらの方が印象に残っていたのですかね。若しくは願望かもしれませんね。お姫様のキスで呪いが解ける方が、お話として綺麗ですからね」
絵里は、振り向いてこちらに同意を求めるような視線を投げた。
「その叩きつけられて、呪いが解けたドMの王子様は、その後どうしたの」
「その叩きつけてきたお姫様と結婚して、幸せに暮らしましたよ」
「えええ、どういう心境なの」
「そうなんですよ、キスをして呪いが解けるのは、お姫様が醜いものに対峙して、その献身と、美しい心で困難を乗り越えるという物語があるのですが、叩きつけて元に戻ったから、めでたしめでたしは、意味がわかりませんよね。どちらかというと、そのカエルの王様を気にかけていたのは、お姫様のお父さんの王様の方ですね。受けた恩はきちんと返しなさいと、お姫様を諭します」
「お父さんと結婚するべきだね」僕は言った。
絵里が、はははと口元を押さえて笑っている。
「……カエルの王様は、とてもとてもお姫様が好きだったのかもしれませんね。罵詈雑言を浴びせられても、無体な態度を取られても、それでもお姫様を愛していた。好きで、好きで仕方がなくて、やっと見合う姿に成れた王子様は、幸せだったのかもしれません。見姿と地位しか見てくれないお姫様を愛したのだとすると、王子様の愛は、とても深いです。妬けちゃいますね。私の王子様もそうだといいんですけど」
そう言い、切なげな顔で、遠くを見る絵里の顔がとても綺麗で、
胸の根っこ辺りがざわつく。
「王子にフラれたら、僕で妥協しときなよ。慰めてあげる」
絵里が、とても驚いた顔をしている。
少し紅潮した顔半分を手で覆いながら、
「そんなこと言わないで下さいよ。好きになっちゃいます」
「なっちゃっても構わないけど?」
僕は回り込んで、絵里の前に立ちながらそう言った。
彼女は、そんな僕の横をするっとすり抜けようとする。
「そうですね、まずはカエルになる呪いを受けてきてください。そこから始めましょう」
絵里は、手で仰いで顔の熱を冷ましていた。
目を合わせようとすると逸らしてくる。
年上らしいけれど、あまり男性と向きあったことはないのではないだろうか。
あまりにも、その、反応が初心だ。
それこそ、中学生ぐらいの頃を思い出してしまう。
心の先を触れ合わせるだけでも、どぎまぎしていたあの時代。懐かしい。
「カエルかぁ、彼らのんびり暮らしているから、僕、そっちの生活で馴染んじゃいそうだな。カエルのままでもいいかい?」
「私は構いませんよ、カエルは好きなんですよね。何故、醜いものの代名詞のように扱われるのか理解できないです。とても愛嬌があって可愛いのに……」
「じゃあ、同衾しに行こう」
「……いやらしいですね」
「何故、いやらしいんだい?一緒に寝ることだろう?僕は初心だから、よく分からないな。一緒に寝る以外に、何かすることでもあるのかい。ご教示いただけると助かるね」と、言い少年のような無邪気な笑みを浮かべる。
邪気のある、無邪気な笑顔を。
絵里は、じっとこちらを見て、返す言葉を探しているようだ。
ひとしきり考えた後に、深いため息をついて
「もういいです。やはり王子様にします。王子様の方がきっと優しい。王子様と同衾します。一緒に寝るだけですし?たっぷり一緒に添い寝してもらいます」
そうきたか。
「……仲直りしようか、絵里さん」
「しておきましょうか、ショウさん」
絵里が、にまにま笑っている。
正体不明の王子のせいでなにやら分が悪いな。
「そう言えば、話を戻してもいいですか?」と絵里が聞く。
「どこまでかな?同衾」
「何故、そこなんですか。違います。マンデラエフェクト迄、です」
「ああ、集団でしている勘違い、だっけ」
「私ですね、一つ、それに近しい現象にあったことがあるんです。ショウさんならもしかしてご存じではないか、と思いまして」
「なんだろう」
「子供の頃に見た……古い映画の話です。白黒だったので、たぶん……古いです。日本の映画じゃないです。おそらくアメリカでもないと思います。西洋文学が元のような、所謂雰囲気を楽しむ映画でしょうか。セリフも少なく、BGMも抑揚のないものがずっと流れています。人の動きが流れていって……シーンで語るとでも表現しましょうか」
「古い……フランス映画みたいな?」
知る限りの知識で答える。
芸術に重きを置いたその作りは、映画を娯楽と捉えている層にはとっつきにくい。
セリフが殆どない作品もある。
淡々と物語が流れていく様を退屈だと思う人もいるだろう。
作品にもよるが、感傷的で、官能的な、男女の情景が流れていく様を力を込めずに観ることができるので、結構好きだ。
「そうなのですかね?ごめんなさい。私、映画に関しては分かりやすいものしか見ないもので、フランス映画はあまりなじみが無いんですよね」
「どんな映画だった?」
「え、と、ですね。恐らく添い遂げることが、できない男女のお話です。観たのがずいぶん昔なもので、細かいことを憶えていないんですよ。たぶん若い男性と、既婚の女性?です。今思うと、あまり子供が観る内容ではないですね。最後のシーンが印象的で、舟に乗って、湖で心中しようとするんですよ。共に入水しようとするのですが、女性の方は思いとどまったのかしないんです。ただ、男性が沈んでいく様をじっと見ているんです。無表情で……そのシーンでエンドロールが流れてお終いです」
「へえ、思い当たるのはないけれど、女性は既婚だったから、残す者の事を考えてしまったのかな」
「ご存じではないですか」
「多分ね、似たような作品はあるけれど、ぴたっとはまるのはないかな」
「父母と一緒に観た記憶があるので、母に聞いたら『そんなの子供に見せるわけないでしょ』と言われてしまいました。そうですよね。でも、なんだか無性に観たくなってしまって、調べたんです」
「その口ぶりでは、見つからなかったんだよね」
「いいえ、とも言いきれないんですよね。そこでマンデラエフェクトが発生しました。ショウさんの時代にはまだないかもしれませんが、世界中の不特定多数の人が、情報を交換し合える場所が、電子上にあるんですよ」
いずれ来る未来ではできるだろうな、とは思っていたけれど、案外早いんだな。
「そこで、その映画の事について、質問をしたんです。そうしたら思ったより反響があったんですよね。観たことある。深夜にやっていた。100分ほどの作品だった。有益そうな情報が上がって来るのに、タイトルは誰も思い出せません。それどころか、どんどん一人歩きしてしまい始めたんです」
「と、いうと?」
「エンディングが色々と、分岐し始めたんです。自分が観たのは二人とも死んだ、とか、自分が観たのは男が這い上がってきて、恨めしそうに女を道ずれにした、とかです。女が家に帰って家族と平和そうに暮らし始めたシーンがラストだ、って言う人もいましたね。怖いのが、そのパターンのある結末に、各々一定数の支持者がいるんです。複数人同じもの観ているはずなのに、観ているものが違うんです。概要もふわふわしたままです。私、怖くなってしまって」
「それから、どうしたの?」
「どんどんお話が膨らんでいってしまったので、怖くて逃げてしまいました。だって怖いじゃないですか?……そもそも、そんな映画、本当にあったんでしょうか」
「そこから疑うのかい」
「集合精神ってあるじゃないですか」
「SFの話じゃなかったっけ、ハチとかアリのだよね。信号で全体に伝令するとかなんとか」
「そうです。人にも実は、そんな機能があったらどうします?突然湧き上がってきたものを記憶し、複数人と共感して、ずれて共有していたんだとしたら、それってとても怖い事じゃないです?この記憶は、本当に、私だけのものなんでしょうか」
絵里はそう言いながら、歩み寄り、僕の目をじっと見ている。
「いろんな人の記憶が溶け合って、混ざりあったら、私達から自我と個性は失われるのでしょうか。ショウさんの記憶は本当に、ショウさんだけのものですか」
囁くように言う。
怖いと言う絵里は、その言葉に反して冷静な顔をしている。
その眼差しはまるで僕を試しているかのようで、少し、ゾクリとしてしまった。
「僕は、悪ふざけ説を推すけどな、話を膨らませようと、知ったふりして、絵里さんの話に乗っかったんじゃない。若しくは本当に勘違いだね。似たような作品で、結末を上書きしてしまったんだ」
「やはり、そんなところですかね。それよりショウさんって、怖がりなところありません?私の話を聞いているときのショウさんの顔が、その……少し可愛くって。過剰目に話してしまいました」
絵里は、視線を外さない。
「隠すつもりはないけれど、僕は怖がりだよ。とってもね。そのことを、優しい女の子たちに囲まれていたから、今まで忘れていたなぁ。思い出させてくれてありがとう」
皮肉たっぷりに言う。
絵里は満面の笑顔で「どういたしまして」と、言いさっさと歩き出してしまった。
慌てて追いかける。
絵里は、ちらりとこちらに振り返り、速度を緩めて横に並ぶ。
「そういえば、怖がりだったのでした。優しいお姉さんが、怖くないように横にいてあげますね」
絵里が言った。
勝敗の付かない会話が、とても小気味がいい。
来た道を振り返る、あれ、あんな風景だったっけ。少し歪な、絵画みたいな風景。
ぼくはカエル、いぬだったけどぼくはカエル。
ごしゅじんのともだちをずっと見ている。
ひどい人だけど、ぼくはずっと一緒だからね。
ごしゅじんのともだちは乱暴な人だった。
ぼくを蹴ったり、押しのけたりするけど、ぼくはそんなにいたくなかったよ。
ぼくはとても頑丈だからね。でも、ごしゅじんにひどいことをしてはだめだよ。
ごしゅじんとは別の女の人となかよくしているから、
ごしゅじんが悲しい顔をしているよ。
ばれていないと思っているけど、ごしゅじんには、ばれているよ。
あまりお家に来なくなってきたね。
ごしゅじんが、もっとくらい顔になってしまったよ。
ごしゅじんがぼくをだきしめて、ごめんね、と言っている。
ごしゅじんは何も悪いことはしていないよ。
ごしゅじんが、おおきな走る箱の前にとびだしてしまったよ。
ぼくはたすけようとしたけど、あしがへんな方向にまがってしまった。
うまくあるけないな。
ごしゅじんのともだちが、かえってきた。
ずっと泣いている。泣いて、泣いて、そのまましんじゃうかとおもったから、
ずっとよこにいてあげるよ。
泣き止んだかと思ったら、ごしゅじんのともだちは、
いないはずのごしゅじんに話しかけている。
ぼくには見えないよ?そこにいるなら、なんでぼくには見えないのかな。
ずるいな、ぼくもごしゅじんに会いたいよ。
ごしゅじんのともだちが、やさしくなった。
はねとばされても、あしで蹴られてもぼくはいっしょにいてあげるのに。
でもあいかわらず、みえないごしゅじんに話しかけている。
ずるいな、ぼくも会いたいよ。
あれ?ごしゅじんが呼んでいるよ。
ごしゅじん、まだいたんだね。ごしゅじんのともだちにはわるいけど、
ぼくはいくよ。
なんで追ってくるのかな。ああ……おおきな走る箱が来ているんだね。
もうぼくは動けないよ。たすけてくれるのかな。
ごしゅじんのともだちが、投げてくれたけど、
そんなとこを持つから首の骨が折れちゃったよ。
ごしゅじんのともだちもお揃いだね。ああ、ごしゅじん!
やっぱりそこにいたんだね。
これからは3人でいっしょにいよう。ずっと、ずっとね。
無垢の愛をあげよう。無償の尽きることのない愛をあげよう。
ぼくはカエル。カエルのおうさま。
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