3.sho
声が聞こえる。
濁った水底にいるようだ。
暗く、不快。僅かながら、光は感じることができた。
なおも、声が聞こえてくるが、何と言っているのか聞き取ることはできない。
辺りを見渡したいのだが、スモークがかかったように、不明瞭で揺らいでいる。
ここは何処だ……?
記憶を辿るが、自分が何者だったかとか、昨日何食べただとか、明日大学行く日だっけとか、ミルクを落とし込んだコーヒーのように、くるくる混ざってしまって、なかなか目的まで、たどり着くことができない。
頭が痛い、血が巡っていない時の頭の痛みだ。
耳鳴りがひどい、自分の手のひらを見てみる。
朱に染まっている?怪我をしたのだろうか。……怪我って何だっけ。
藻掻くうちに、起きるのが面倒になってくる。もういいじゃないか。
おそらく、僕は頑張る必要が無い。
起きても、大学なんて行かなくてもいいし、飯を食う必要もない。
だって僕は……。
声の主の輪郭が、おぼろげに見えてくる。
少女のように見えるが、知らないな。
いや、知っていたけれど、忘れているのだろうか。
誰?水底から浮上しようとするが、なかなか浮き上がれない。
手を振り上げて藻掻くが、黒くて、陰鬱で、
邪悪な霧のようなものが絡みついてくる。
(大丈夫ですか?)
そう、声が聞こえる。大丈夫なのだろうか、この状況は。
言葉を紡ぎたいが、今度は、声の出し方を忘れてしまっていた。やれやれ困ったな。
光が徐々に目に馴染んできた。
少女が呼びかける言葉の中から、返す言葉を選んで声を出す。
「大丈夫……」掠れているが、声を出せた。
「わっ」と声を上げ、少女が、目を見開いて驚いている。そして身構えている。
そちらから話しかけてきたのではないのか。二歩、三歩、後退っている。
言葉を発したと同時に、視界がクリアになる。
少女がいる、いや、少女と形容するには、多少、経年を感じさせる風貌をしている。高校生?高校生って何だっけ?
驚いている少女?に「どうも」と声をかける。
ぼんやりとしている頭、くらくらする。
視線を投げた方向に、そのまま吸い込まれていくかのような感覚を覚える。眩暈。
頭のふらつきに堪えながら、周りを見渡す。
相変わらず悪趣味な世界だ。目に痛い。
目を瞑り、しばらく頭の中で記憶を燻る。
こうしていると、徐々に記憶が解れてくるのだ。
僕はこのような、意識の混濁と覚醒を、何度か繰り返したことがある。
少女?は、まだいてくれているだろうか。
ぎらついた花のような植物が、咲き乱れている。
極彩色の鳥が空を舞い、ペイズリー柄のウサギが飛び跳ねている。
水玉柄の猫が走っていった方向から、モノクロのペンギンが列をなして歩いてくる。建造物は一見普通に見えるが、建築様式がバラバラだ。
近代風のビルもあれば、古城もある。傾き、今にも倒れそうな建物もあった。
激しくカラフルに瞬く信号機の横には、不気味にうねる案山子が立っている。
空はペンキで塗りたくったようなパステルカラーだ。
あらゆるところに貼り付けられた時計は、どれも時を刻むのを止めていた。
勤めを忘れたかのように、まるでそれが当たり前であるかのように、
秒針は動きを止めていた。
一つ、一つ、物の形状と、名前を、混濁した記憶の中から取り出し照合していく。
少女?に視線を戻す。相変わらず、ぽかんと口を薄く開けている。
微笑んでみる。
少女?は、はっと我に返ったように「ごめんなさい」と言った。
「まさか動くとは……、いえ、随分と、整った見た目をしていたもので」
と、少女?は続ける。
頭の中で記憶を整理しながら、紡ぐ言葉を探す。
それは恰好が良いということを遠回しに言っているのだろか。
そういえば、僕は人目を惹くくらいには、恰好が良かった気がする。
少女?を改めて観察する。
落ち着いた紺色のワンピースに、小さめな体付きには合わない、
大きい薄手の上着を羽織っている。
ぶかぶかで、手の長さが合わないのか、
指の先の方しか出ていないのが愛らしかった。
鳶色の髪と瞳、肩の少し下ぐらいで、先の方だけふわっとカールさせてある。
気品のある佇まい、顔貌も整っていて、学校にいたら『高嶺の花』の分類だろう。
背は低めで華奢、守ってあげたいお嬢様、といった風貌をしている。
いいね、じんわりと記憶が馴染んできた。
僕は、この手の女の子が好みであった……気がする。
「君も可愛いと思うよ」
少し気取って言う。
「え?私がですか?どの辺が、ですか?」
少女?が驚いたように言う。
その外見なら、驚く必要もないと思うけれど……。
自分に自信がない子なのだろうか。
「僕の学校にいたら、間違いなくモテると思う」
「そうなのですか……服……とか、髪型……とか、どうですか」
ちょろちょろと前髪を手で触っている。
そうか、ここには鏡が見当たらない。現状の自分の姿が、気になるのかもしれない。
「うん。僕は今、ほんの少し頭がパーなもんで、うまい事言えてないかも知れないけれど、全体的にふわふわで可愛いよ。うんうん、お嬢様ってカンジだ。女性のファッションには疎いから、あまり細かい感想が言えなくてごめんね。ワンピースがちょっと大人っぽいね」
少女?が、少し考えるような素振りをしながら
「頭がパーなんですか……?それは、その災難ですね。でも眼鏡が野暮ったいでしょう、コンタクトにすればってよく言われます」
照れたようにそう言う。
眼鏡?
「君、眼鏡かけてないけど?」見たままの姿を伝える。
少女が慌てたように、目をきょろきょろさせている。
「そうでした!たぶん……掛けるのを忘れていたんです。私、軽めの近眼だから、このくらいの距離なら見えるんですよね。でも眼鏡がないと落ち着かない……」
少し狼狽えている。
おっちょこちょいな子らしい。
まだ、自分の身なりを気にするような素振りをしている。
「そう言えば、先ほど学校と言っていましたけれど、学生さん……なんでしょうか。私の方が年上かもしれませんね」
視線をこちらに戻し、そう聞く。
「学生って言っても、大学生だったはずだよ。たぶん」
「それでも……きっと私の方が年上ですね。あなたがストレートなら、ですけれど」
年上だった彼女が、ふふっと微笑みながら言った。
笑い方も上品で、どことなく育ちの良さを感じさせる。静かで芯のある声。
口の形状を殆ど変えずに言葉を発するその様は、
淑やかで、確かに『大人の女性』を感じさせた。それにしても年上なのか……。
どう見ても十代にしか見えなかった。
整ってはいるもの、顔の作りが幼い。
体のパーツも全体的に小さく、頼りなさげで庇護欲が湧いてくる見た目をしている。年齢については……深追いするのは止めておこうか。
この手の話題は、女性にはタブーだったはずだ。
「もしかして、年下だと思っていましたか?」
「どうだろうね?」
目を逸らしながら、答えを曖昧に濁す。
「いいんですよ。どうやら私は体つきに魅力がないみたいなので、相応の年齢には見られないことの方が多いです」
「そんな事はないよ」僕は言う。
確かに華奢ではあるけれど、痩せぎすというわけではない。
健康的で、それなりに肉感もある。幼く感じる原因は、顔貌ではないだろうか。
ふぅんといったような顔をしている。
そして測るような視線を寄越した。
警戒しているのだろうか、目覚めたときから、しばしば、そのような目で僕の事を見ていた。
「名乗っておきますね。私、小日向絵里って言います。小さい日向で、絵画の里で小日向絵里です」
丁寧に名乗ってくれている。
僕は、まだ名前の記憶が奥底から取り出せずにいた。今回は……酷い。
「ごめん。名前が思い出せないみたい……」
絵里と名乗った女性が、驚きと困惑を一緒くたにしたような顔をしている
「学校に行っていた事は思い出せているのに、名前を忘れちゃったんですか?なかなか謎の多い記憶喪失ですね」
実際は、思い出せないというより、取り出せないといった方が正しい。
頭の中のカテゴライズが済んでおらず、雑多に並べられている感覚だ。
ふむっと呟き、絵里は斜め上に視線を流しながら、自分の指に髪の毛の先をくるくる絡めていた。
「答案用紙の……名前の欄、とか思い出したら芋づる式に出てきませんか?」
「うーん、テスト嫌いだからなぁ」
「嫌いだと、思い出せないものなのですね?困った記憶喪失です」
「ほんとにね」僕は他人事のように言う。
「でしたら、あなたを呼ぶ声はどうです?両親、友人、恋人……とか」
意味深な視線を寄越す。
「恋人ねぇ。ベッドの上で、僕の事を情熱的に呼ぶ声でも、思い出せばいいのかい」
寄越した視線に視線をぶつける。
「お好きにどうぞ」
「なるほど、そうか。頭いいね。ショウって呼ばれていたよ」
「ん?ショウ?下のお名前ですよね?よろしくお願いしますね。ショウさん?」
小首をかしげながら絵里が言った。
「ちなみに、思い浮かべたのは誰でしたか」
「内緒にしておこうかな」
「ふ……ん」
絵里が、つまらなさそうに相槌を打った。
「まぁ、とりあえず、こんなんだけど、よろしく。上のもそのうち出てくるだろうから、その時、教えるよ。えーっと……絵里さん」
絵里が、ふふふと笑っている。
「どうかしたのかい」
「いえ……下の名前で呼ばれるのが、少しむず痒いなと思っただけですよ」
「気に障ったかな」
「いいえ、社会に出てから親族以外には、上の名前でばかり呼ばれているもので、何だか、その、久しぶりだなと思っただけです」
「呼んでもいいかな?」
「はい。それでお願いします」
絵里は、少し気恥ずかしそうに答えた。
「そういえばショウさん。ずっと座ったままで固まっていますが、立てます?よろしければ少し歩きませんか。ずっと、そこにいるご予定なら、無理強いはしませんけれど」
「ここにいる、ご予定ではないです」
わざとらしい笑顔で答えた。そう言えば、座ったまま話していたんだな。
随分と失礼な奴じゃないか、僕は。
立ち上がろうとするが、力の込め方が分からない。今回は重症だな。
「……申し訳ないのだけれど、手を貸してくれないかな。立ち上がり方を忘れたみたい」照れながら言った。
絵里は少し困惑気味に、考える素振りをしている。
また髪の毛をくるくるくるくる、癖なのかもしれない。
「面白いですねぇ。本当に」と言い、開いていた距離を詰めてくれた。
「手を取ってくれませんか。起こしますので」
手を握った。少し触れただけでもわかる、すべすべで、絹みたいな手。
僕の手で、全部包み込める小さな手。
ぐっと手を引いてくれた。少しぐらつくが、立てなくはない。
体を伸ばす。肩を回す。神経が通った気がした。
すこし痺れがあるな。歩くという提案は良いかもしれない。
「大丈夫みたい、ありがとう」
少し照れくさい。ぎくしゃくと歩き出す。馴染むまで、しばらくかかりそうだ。
「さっきから、ちぐはぐでごめんね」
「どんな風に、記憶喪失なんですか」
「そうだね。こう、記憶が圧縮されたみたいになっていて、さっきの自己紹介のくだりなんかは、過去として処理できるけど、起こしてもらう前の記憶が、全部同じ時間軸にあるみたいだ。……意味わかる?」
自分で言っていても、意味が分からないことを、絵里に投げかける。
絵里は、んー、と可愛らしく唸ると
「起きる前の記憶に、時間を紐づけることができない、という事でしょうか。例えば暫定的に、起きる前を昨日としますが、その昨日に複数年分の記憶が重なっている、みたいな?」視線だけこちらに向ける。
「そうそう、絵里さん頭いいね。ちょっとずつ解れてきているけどね」
「ちょっとずつ解れる……なんだか、インスタントラーメンみたいな記憶喪失ですね。お湯をかけてあげましょうか」
どこに?脳みそに?乾麺みたいな脳みそを想像してしまった。
「お手柔らかに……」
「そもそも……何故、眠っていたのですか?こんなところで。
……『死んでいる』のに眠くなるものなのでしょうか?」
絵里にさらりと言われて気がついたが、そう、
僕は……『死んでいた』。
なんの感傷も湧いてこないのは、色々と大事なものを忘れているせいか、そもそも思い出したくないのか。
「僕にも、よくわかっていないな。眠ろうとして、寝ているわけじゃないと思うよ。ただ僕は、こういうことを繰り返している。こうやって目を覚ました時には、頭がぐちゃぐちゃになっている。それが繰り返される度に、ぐちゃぐちゃ度合いが、酷くなっていっているみたいでね」
「ショウさんには、そういう責め苦が科せられているのでしょうか。大変そうですね。こんな地獄みたいな世界に、どのくらい、いたのですか」
地獄?言い得て妙かもしれない。
ここは地獄なのだろうか。それにしては少しメルヘンな世界だ。
連想したのはアリスが迷い込んだ、不思議の国。気の狂った絵本の世界。
「分かんないなぁ。僕、地獄に来るほど、悪行積んでないんだけどな」
「私もですよ。特に目立った善行も悪行もしていません。日々、社会の歯車として頑張っていたのに、ひどい仕打ちです」少し口を尖らせながら言う。
というか、善行もしていないのか。
「僕達って死んでいるのかな、やっぱり」
「たぶん?」あっけらかんと言った。
僕には、やはり実感がなかった。
閻魔様が出てきて、罪の裁量でもしてくれたら、まだ実感も湧こうというものだが、生憎何もない、思い出せる限り、何もない。
「絵里さん……明るいよね。地獄じゃないの、ここ」
僕が見る限り、絵里からも、そういった感傷のような感じられない。
この事実を受け止め、淡々と、この世界を見つめている。
「確かに、気が滅入る光景ではあるんですけれど、人の目が気にならないのが、少し心地良くって。スマホなんて普及したせいで、あちこちに目があるみたいで落ち着かないんですよ。そして無尽蔵に情報も供与されますし」
「スマホってなんだっけ」
突然出てきた謎の単語に、僕は困惑する。
至る所に目が付いた、不気味なモノを想像してしまった。
「スマホも忘れちゃったんですか?」
「う……ん?」
「今や、一人に一台の必需品ですよ?全世界の人々を虜にする魔法の箱です。一度覗けば情報の濁流に、飲まれて帰ってこられません。愛憎も呪いも祝福も一緒くたにしたような悪魔の箱でもありますね。財布も握られています」
熱弁している。何それ怖い。
「いや、忘れているとかじゃなくて、ソレ知らないよ。……たぶん」
「データ化されている事なら、何でもできるアレをですか。電話もできます。略さずに言うのならスマートフォンです」
「知らない」
また絵里が、髪の毛をくるくるしている。
くるくるが終わったら僕の事を、じ……と観察し始めた。なんだろう照れてしまう。
「少し、着ている服が今時ではない感じがしていたんですよね。……ショウさん。生まれ年を聞いてもいいですか。西暦でお願いします」
「……1968年だったかな、年は憶えているよ」
「なるほど……ショウさんが私の時代に生きていたとしたら、もう50代のはずですね」と、衝撃の事実をさらりと告げた。
「うそでしょ」
「本当ですよ。私、2001年生まれなので」
僕が生きていた時代に、まだ絵里は生まれてすらいないことになる。
どういう事だろう。そんなに長い事、ここにいたのだろうか。
時間の感覚などないに等しいこの世界で、どれだけ彷徨っていたというのだ。
「てっきり同じ頃合いに、死んだ人が集まる場所だと思っていたのですが、どうやらそういうわけでもなさそうです。興味深いですね?」
先ほどから気にはなっていたけれど、絵里は、随分と理屈っぽい話し方をする。
「絵里さん、未来人なんだ?」
「そうなりますねぇ。未来がどうなっているか、気になりますか」
視線だけ寄越して絵里が聞く。
突然の未来人の登場に驚いたものの、正直、生きていたとしても、あまり先のことに興味がなかった。
別に未来を知ったらつまらないとか、格好付けるつもりもない。
一時期流行ったタイムトラベル物の映画のように、一攫千金狙ってやろうとかそんな気概もなく、単純に興味がなかった。なるようになる。なるようになれ。
「まぁ知ったところでね。僕、もうこんな状態だし」
「そうでしたね。何故かショウさんと話していると、死んでいることを忘れてしまいそうです。やはり暇を消化するなら、一人より二人ですね」
絵里が、ここ一番の笑顔で言った。その笑顔がまぶしくて、思いの外、死ぬのも悪くないな、と思ってしまった。
二人でしばらく歩いていた。絵里の歩みは思ったより早くて、まだ体が馴染んでいないせいもあるが、ついて行くのが結構大変だ。
闇雲に歩いているのかと思っていたが、歩く方向が統一されている。
周りの景色が、一層奇怪になっている。
経年を感じさせる複数の折れ曲がった鉄骨が、蛇みたいに絡みついて上に伸びていた。
それを彩るように色とりどりのケーブルが絡みつき垂れ下がっている。
道の真ん中は開けていて、錆び着いた鉄塊で出来た並木道のよう。
極彩色の鳥が堕ちる。
七色の縞模様の象が、キラキラの尾をしたリスを追いかけていた。
ウサギは飛び跳ね、猫は踊る、光の宿らぬ不気味な瞳で。
僕の歩みに合わせて、色の薄い、たくさんのモルフォ蝶が舞い上がるが、すぐに力尽きて地に堕ちる。
全体を見渡すと、機械的で造り物のような風景。
この世界の設計者はよほど適当なのか、それとも哲学じみた酔狂に囚われているのか。凡人の僕には理解が及ばない。
そんな光景も意に介さず、絵里はどんどん進んでいく。
「僕が想像していた地獄って、なんだかこう……おどろおどろしくて、鬼がいて、人間が永遠に拷問されている場所だったんだけど。ここ、妙にメルヘンだよね」
「……メルヘン、ですかね」
振り返って聞く。
「おとぎ話の世界みたいだ。うさぎや猫もいるし、不思議の国のアリスみたいでしょ。まぁ……少し造形が不気味だけど。女の子は、こういうの好きそうじゃない」
「女性が皆、小動物が好きなわけではないと思います」
絵里がツンっと言う。
「嫌いなの」
「好きですよ。生きとし生けるもの、分け隔てなく好きです。愛を唄い、詩を紡ぐのは人間だけではないと思っていますから」
「何故、急に古今和歌集」
「知っていましたか。よくお勉強していますね、偉いです。いい子、いい子、してあげますね」
「ありがとう……いい子いい子してください」
女の子と言われたのが、気に障ったのだろうか。
急に、お姉さんになってしまった。
絵里が、目を細めて悪戯っぽく笑いながら「ちなみにショウさんは、ここにいる動物の中でどれが一番お好きですか」と聞く。
「そうだね、強いて挙げるなら象かな」
「象……理由をお聞きしても?」
「まぁ、頭もいいし、でかいし強いし。それに、何処で聞いたかは、忘れてしまったんだけど、象って死ぬときに、墓に行くんだろう?それがなんだか印象的でさ。どんな光景なんだろう、象が重なるように、積み上がっているんだろうか。仲間の上に次々と身体を重ねてゆくのだろうか、見てみたい」
象が積み上がって出来た墓標に、光が差す光景を思い浮かべていた。
「それって……」と言いかけて絵里が口を噤む。
「いいえ、なんでもないです」
「何さ、気になるじゃない」
「私……ですね、一言多いんです。人の気に障ること、知りたくなかったことを、無自覚に言ってしまうみたいで、その……人を知らないうちに傷つけてしまうみたい……」
絵里がしゅんっと気落ちしながら言っている。
その姿が、なんだかいじらしかった。きっとそれで、痛い目に合ってきたんだろう。
「ふぅん?何て言おうとしていたの?気にしないから、お兄さんに言ってみて」
「私の方が年上です」
「生まれ年的には、僕の方が上なんだよねぇ」
僕は満面の笑みで言う。
「もう……。でしたら言いますけど。あの、ですね?象のお墓の話、私も知っているのですけれど、諸説ありまして、密猟者の言い訳説が有力なんですよね」
「それは、つまり……象の墓を積み上げているのは密猟者だと?」
「そう……です。象の墓があったから、そこから牙を拝借してきただけだ、自分たちは悪くないぞーってお話です」
象だけに?と突っ込みそうになったけれど、やめておこう。
意図していなかったら可哀想だ。
確かに、ロマンも何もない話になってしまった。こういう知識のひけらかしを嫌う人間はいるだろう。夢見がちな人間は、ずっと夢を見続けていたいものだ。
だが、生憎僕は、ロマンチシストで、夢見がちな人間ではない。
「少なくとも、僕に対しては気にしなくてもいいよ。知らなかった事を、知らないままでいるほうが心地悪いしね」
「そうですか?それならいいのですけれど……。それに、お墓はないかもしれないですが、象は、死を悼む動物らしいですよ。仲間の死を認識しているんです。賢いですよね」
そう言った絵里が、少し表情を曇らせる。じっと空を見ている。
「どうしたの?」
口を噤んだまま、空を見上げている絵里に問う。
「私、自分が死んだとき、こちら側でよかったと思ったんです」
「こちら側って?」
「『死』と『生』で世界が分かたれているのだとしたら、『死』の側だということです。『死』から『生』を見上げると『生』はずっと未来まで続いて行きます。だから、何て言ったらいいんでしょう。そう、悲しくはなかったんですよ。時間が止まるのは自分だけですから」
悲しくないと言った彼女の顔は、憂いを帯びていた。
儚げで、さらさらと溶けてしまいそうな光景が浮かんで、胸がきゅっと締まる。
「悼まれることに、気付いてしまった?」
「そうですね、きっと母は取り乱すほど悲しんでいるでしょう。父だって、あまり感情を表に出す人ではないのですけれど、悲しんでいるでしょう。それでも、娘の私が妬くぐらい、二人はとても仲良しですもの。いずれ私の事を忘れて、未来に進んでくれる。そう考えると逆じゃなくてよかった、と思ってしまうんです。時間を止めてしまった人を見送る側なら、きっと私は、耐えることができない」
娘を忘れるなんてそんな事はない、と言おうとしたが、そう言ってしまうと絵里の感傷的な心を、さらに揺さぶってしまう気がした。
「なら『死』側は『死』側で楽しくやろうじゃない。まさか絵里さんのご両親も、死後の世界を謳歌しているなんて思わないさ、精々楽しもう?今を、僕と」そう言い、なんだかそこで止まってしまいそうな、絵里を先に進ませるために手を取った。
絵里は驚いた顔を浮かべて「そうですね。ショウさん、なかなか素敵なことを言います」と、はにかみながら言った。
「そりゃそうだよ。僕はステキだから」
気障っぽく言う。
「そう言えば、絵里さんの好きな動物は何かな。生きとし生けるものの中でも、特に好きな動物」
「うーん、本当に多いんですよ。決めきれないですけど、強いて挙げるならカラスですかね」
カラス?あまり良い印象が無い。鳥類の中でも真っ黒で、地味で、あまり目立つ方ではない。その上雑食だから、ゴミをよく食い荒らす。
正直、ネガティブな印象しかなかった。害鳥の類だろう。
「なんでまた、カラス?」
「そういう反応になりますよね。でもカラスって、とても賢く、愛情深い動物なんですよ。
パートナーを決めると、一生添い遂げるそうです。子育ても夫婦共同ですし、生育期は親子睦まじく暮らすそうです。一説によると、パートナーが死んだら、もう一生、その片割れは独り身で過ごすそうですよ。悲しみのあまり、餓死するカラスもいるんだとか。後追いと考えると、どれだけ愛情が深いんだろうって、ちょっと感じ入りません?」
絵里の言葉は、熱を帯びている。カラスの生き様に、本気で焦がれている。
彼女が欲しがっているものを考えると、
少しむずむずとした感情が沸き起こってしまう。
「鳥なら、オシドリとかはどうなのさ。アレも夫婦仲がいいんだろう。例えに使われるぐらいだし」
それを聞いた絵里は、頬を少し膨らませて「オシドリはだめですよ。オシドリはワンシーズンで相手を替えます。しかも浮気もします」と言った。
オシドリ夫婦とは。
返す言葉を見つけられずにいると、そっと絵里が、僕の耳に顔を寄せて「ショウさんは、どちらなんですか?カラスですか?オシドリですか?」
と悪戯っぽく笑みを浮かべて囁いた。
「これでオシドリですって、言える男はなかなか度胸があるね」
目を合わせずにいう。
横目に映る絵里が、ニヤニヤしている。
僕達は、相変わらず歩調早目の散歩をしていた。
僕も、調子を取り戻せてきている。
絵里のサクサクと進む足を見る限り、やはりどこかに向かっているようだ。
「ねえ、絵里さん。どこか目的地があるのかい」
「目的地が、あって欲しいですか」
くるりと振り向きながら、質問を質問で返してきた。
「別にそういうわけではないけど、散歩するって足取りじゃないからさ」
「ごめんなさい。私、歩くの早いですよね。よく言われるんです」
「いや、そんなことはないよ。僕が少し、どんくさいだけ……」
「やはり、早かったんですね。言ってくれたらよかったのに」と言う絵里に、えへへと笑みで返す。
僕は、生きていようが、死んでいようが、そもそもマイペースに生きてきたのだ。
道端に咲く花が綺麗だなと思えば、
そのまま小一時間ほど見つめていられるほどマイペース。
絵里は何故、急いでいるのだろう。死んでいるのに。
「一応、目的地があるんですよ。その……暇だったらでいいんですが、付き合ってくれませんか。道連れが欲しくて」
「こんな世界で用事なんてなんてないよ。閻魔様からも、お呼びがかからないしね。予約制なのかな、しまったな、予約するのを忘れていたよ」
それを聞いた絵里が、口を押えて笑っている。
「ショウさん、なかなか面白いですね。私の伯母に似ているかもしれません。皮肉のきいた冗談を言うのが得意な人なんです。……そうそう、目的ですね。実は探しているものがあるんです」
両手の先の方だけ合わせながら、じっと意味深な視線を投げてくる。
測るような瞳、あなたはどうなんですかね?と、問いかけるような瞳。
「なにかな、面白そうなものだね?」
「面白いもの……、そうですね、面白いかもしれません。探しているのは……王子様です。どうやら迷子になってしまったみたいで、探してあげないと、延々迷い続けてしまうかも知れません」
また髪をくるくるいじりながら、恥ずかしそうに言う。
突然、メルヘンな話が始まってしまった。
理知的な雰囲気な彼女なので、そういう子供じみた冗談は言わないと思っていた。
「王子様を探しているということは、君はお姫様なのかな?」
意図はどうであれ、僕は乗っかる。面白そうだからだ。
「早計ですね。王子様の連れがお姫様とは限りませんよ。王様かも知れないですし、あるいは護衛の騎士かも知れないです」
「と、いうことは騎士なのかな」
「王様です。冗談ですよ、私の所属は特に気にしなくていいです『王子様を探している人』です」
「王子というからには、どこかの国の王子?イギリス?スウェーデン?」
「国籍は……うーん。分からないですね、聞いたことがないです」
「え?本当に王子なのかい?」
「どうでしょうね……」
「曖昧だね?」
「曖昧です。それでも、迷子だから助けてあげないといけないんです」
「ふぅん。この方向にいるのかい」
僕は、絵里の歩んでいる先に顔を向けた。縦横無尽に道は開け、世界の果てが見えないこの世界ではあるけれど、一応、進めそうな『道』はある。
「この方向というより、……微かに鐘の音が聞こえませんか」と、絵里が所作の一切を制止するように、人差し指を口に当てる。
そういえばしている。というよりBGM化していて、気にしていなかっただけだ。
この鐘を鳴らしている主も知っている。
一定の間隔で、何かの報せのように鐘を鳴らす者……。
そう、形容するなら『黒くて怖い巨大な化け物』だ。
古めかしい教会のような場所に、鎮座している『黒い化け物』。
……その存在だけはしっかり記憶に刻まれていた。
「鐘の鳴る場所にいると思うんですよ、王子様」
……もしかして絵里が探しているのは、『アレ』なのだろうか。
王子というより、魔王というような風体だったような気がする。
遠目に観たことがあるが、でっぷりと肥えて、口は耳元まで裂けていた。
巨躯に合わない小さな翼が生えており、口から乱雑に生えた尖った牙を覗かせていた。お前の事を頭から食ってやるぞ、と言わんばかりの風貌。
「あそこに行きたいの?なんだか……怖いのがいた気がするけれど……大丈夫かい。鬼か、悪魔か、見た目じゃ判断できないのがいたけれど……実は優しかったりするのかな。食べられない?」
「行ったことがあるんですか」
絵里が驚いたように聞く。
「記憶が確かなら……多分ね、こんな世界だし、やる事がなかったんじゃないかな。地獄の観光なんてなかなかできるもんじゃないし」
「観光?」
「観光」僕はにっと笑って答える。
「暢気すぎませんか」
ため息交じりに言う。
「絵里さんも覚悟をしておいた方がいいよ。記憶がぐちゃぐちゃになるぐらいには、やる事が何もない」
何とも言えない表情で、小首をかしげている。可愛い。
「……それはともかく、人と合流するなら、目立つランドマークを目指していくと思うんです。鐘が鳴っているとか、分かりやすいじゃないですか。それに……地獄なら、鬼ぐらい、いますよ」
絵里は言う。そうかな、そうかも。
「その鬼が王子様ってわけじゃないですから、安心してください。王子様は、一目見たらわかると思います。きっと一人だけキラキラしています」
キラキラ?発光しているのだろうか。
白馬に跨り、キラキラの装飾が付いた服を身に纏う、眉目秀麗な男を想像してしまった。
「王子も、絵里さんの事を探しているんだね?」
ふっ、と絵里の表情が曇る。
「それはどうでしょう。王子様は、私の事なんて気にしていないかも知れません」
目を伏せて、少し寂しそうに言う。
何か、訳ありなのかもしれない、同じく地獄に降り立ったが、逸れてしまった。
恋人か、……でもあの言い様だと未満、と言ったところだろうか。
キラキラ発光している王子とやらを探しに、行くだけ行ってみるしかない。
どの道、途方もなく暇なのだ。
その結果、鬼に食われるようなことになっても、別にいいじゃないか。
だってここは地獄だもの。
「とりあえず行きましょうか、キング。プリンスを探しに」
僕は恭しく頭を垂れながら言う。
「ショウさんに冗談を言うと、延々擦られそうですね」口を可愛く尖らせている。
擦るとは。
「そういえば、記憶の方はどうです?解れましたか?」
「ああ、いい感じだよ。これからは、あまり迷惑かけなくて済みそうだ」
「そうなんですね……でしたら、アメリカ歴代大統領を言ってみてください。ショウさんの時代ですと、四十一か、四十二代目ぐらいまで、でしょうか」
「……言えないけど」
「大変です。まだ記憶戻ってないですよ」
わざとらしく手を口に当てて、絵里は、にやにやしている。
「絵里ちゃん?わざと言っているよね」
「不勉強ですねぇ、ショウくんは。ちなみに私は、在任期間を合わせて、すべて言えます」
「お勉強熱心ですねぇ。絵里ちゃんは」と言い二人で笑う。
これから始まる王子探しは、どうやら楽しくなるらしい。
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