2.beast in love
暗い水底に、体が沈んでく……バラバラになって、泡になって、溶けるような感覚。伸ばす手もなく、助けを呼ぶ声ももたない。
底はなく、どんどん沈んでいく。やがて一片の光も見えなくなった。
冷たく、暗い安寧。このまま身を委ねようか。
いけない、起きなくてはいけない。
気がついたら、無機質で色のない世界にいた。
定期的に響いてくる鐘の音、寒くはないのに背筋が冷えて緊張している。
建物が幾重にも重なったような、奇妙な世界。
安定しない床、歩き難い。方向感覚も狂ってくる。
辺りには醜悪な異形が徘徊していた。
魂までも喰らいそうな異形。幸い異形たちは、私を見ることはしない。
規則的に、機械的に、隊列を乱すことなく歩いている。
それは兵隊のようにも、狂信的な巡礼者のようにも見える。
一定の足取りで、鐘の鳴る丘に向かって進んでいく。
不意に背後に気配を感じた。それは私の事を認識している。
ねっとりとこちらを睨め付けているように感じ、反射的にそれから逃げだしていた。
すぐ息が切れる。
細く、ひ弱な体、そんなに早く走れない。
ずっと鳥かごの中で暮らしていたから、自身の体力なんて気にしたことがなかった。こんなことなら、少しでもいいから体を鍛えておくべきだった。
誰もが、白く美しい華奢な体を誉めてくれたから、
私はこのままでいいと思っていた。
まるで人形、穢れのない人形。飾られているだけの人形。
私を縛りつけることが好きな大人に、囲まれて生きてきた。
たくさんの目がこちらを見ている。
甘い鎖で縛りつけて、手を差し出せば、何でも欲しいものを乗せてくれる。
狭い世界で、私が満足するように。
長い事、小さく冷たい箱の中にいたから、
世界には自由があふれているなんて、知らなかった。
私に自由を教えてくれた、あの人は、誰。
追跡者は一定の間隔を保ちながら、私を追い続けている。喉の奥から鉄の味がする。肺が焼けてひりつく。呼吸のテンポを忘れそうになる。
私はここに、目的があって来たはずなのに思い出せずにいた。
バサバサバサバサと、羽ばたく音が聞こえる。
牙をかち鳴らす音が聞こえる。爪で地面を掻きながら、歩く音が聞こえる。
追ってこないで、私は美味しくない。
私が愛した、色に溢れた世界はどこに行ってしまったの。
空に触れ、絵を聞き、音を味わう。
私が味わったことのない歌を、口ずさむあの人は、誰。
平衡感覚がなくなってくる。まるで空を走っているよう。地面がない……。
知らないうちに、翼が生えていた。
これなら逃げることができる。今まで体験したことがない高揚感。
右へ、左へ、旋回した。楽しい……空を飛ぶ鳥は、こんな気持ちだったのかしら。
ひとしきり飛んで、私は翼を休めた。
生まれてから今まで、夢というものを見たことがなかった。
だからきっと夢ではない。
相変わらず世界は、グレーアウトしている。
ほっと、一息ついた。
体を屈めようとしたら、ポケットに入れていた懐中時計が、零れ落ちる。
シルバーに緻密な花の意匠が彫られた、私のお気に入り。
拾い上げて手に取ると、しゃらしゃらと細い鎖が揺れる音が聞こえる。
冷たい金属の触感。
しかし……本来そこにあるべき色がなかった。すべてが灰色。
世界から色が失われたのではない、私の瞳から色が失われている。
色が失われたことを知り、私は涙を流す。
懐中時計を開くと針が止まっていた。
手巻き式だから、巻けば動くはずなのだけど、何故かつまみを回すことができなかった。
背後に影が落ちる、追跡者に追いつかれた。
もう疲れきっていて飛ぶことができない。
祈るように空を見る。灰に濡れたどこまでも続く空。
沈黙が保たれたまま長い時が過ぎた。追跡者はそれ以上、何をするでもなかった。
じっと私を見ている。
視線が背中に刺さる、振り向くのが怖かった。
気配だけで動きを探る、背中に息がかかった気がした。
深く、長い、獣のような呼吸音が聞こえる。いつまでこうしていたらいいのだろう。いっそ振り向いてしまおうか。
心音が聞こえる、浅く、早い。
まるで自分の体の内から聞こえているような気がして、心地が悪かった。
ふと浮かぶ顔があった。
目が合うと、優しく微笑んでくれるあの人は、一体誰だったかしら。
この状態で、どれくらい時を過ごしたのだろう。
だんだんと、背後にいる追跡者に、抱く恐れが薄れてきた。
妙な安心感すらある。振り向いてしまおうか。
でも、私は振り向いた結果を知っている。
知っていたから振り向けない。空を仰いで呼吸を整える。浅く、早い。
定期的に響いてくる鐘の音、もう寒くはない、力強く地を踏みしめる。
自分の手を見る。
黒い毛に覆われている、目に入るもの全てを、
切り裂けてしまえそうな鋭い爪が生えていた。
翼をはばたかせた、風が巻き起こる。短く咆哮した。
きっとこの体なら、世界の果てまでも翔けていける。きっとあの人の事も救える。
あの美しい世界だって救うことができる。
いずれ私の意識は消えてしまうけれど、私と交わした約束を忘れないでね。
私の愛しい人の瞳を曇らせないで、美しい世界だけ見ていて欲しいから。
あの人と私が過ごした美しい世界を、わがままな神から守って。
この翼は、時さえ翔けてしまえるのでしょう?
あなたも、一人ぼっちになってしまったのだもの、
ならば、私と一緒に歌を歌いましょう。
恋の歌を、愛の歌を、悲哀の歌を、鎮魂の歌を、世界を救う英雄の歌を。
どう?楽しくなってきたでしょう。
私は振り返る。そこには何もいなかった、ただ自分の影があるだけ。
私は獣。世界を愛するあの人に恋した獣。
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