クロノスガーディアン

LapisFrog

1.eri

特にやることがない、日曜日の朝。黒ぶちで少しぶかぶかの眼鏡をかける。


声を出して話しかけるのが恥ずかしいAIに、『朝、静かな曲、気分が上がる』と、テキストでキーワードを入力して曲を選んでもらう。

曲名も知らないし、作者も知らない曲。

今日の曲は、とてもイイカンジ。私の好みをわかってきたようだ。

殆どミルクのカフェオレを飲みながら、パセリが迷子になった、玉子コッペパンをかじる。

椅子の下を軽く見渡す。迷子の迷子のパセリさん、かぴかぴになる前に出てきてね。


携帯を見る。

暇を持て余した伯母からメッセージが送られてきていた。

『絵里チャンへ、急に寒くなってきたからボク風邪ひいちゃったみたい、トホホー、絵里チャンに温めて欲しいナ。ナンチャテ!今日はお休みカナ?今度、食事でも行こうネ!チュッチュ!またネ!』

嘘ばっかり、風邪をひいたところなんて見たことがない。

『今日のは、少し恥じらいが見えるので微妙です。もっと心のおじさんを育んでください』と、返信しておく。

何故、今日暇か聞いておいて、今日誘ってこないんだろう。まあ、いいか。

伯母の気まぐれは、今に始まったことではない。


時刻は八時半、そういえば出かける予定にしていた。立ち上がる。

二年前に買った、寄せ植えの多肉植物が、手間をかけたわけでもないのに、無限に増え続けていた。

うねうねうねうねと、先鋭的な生け花なような風体なので、そろそろ植え替えてあげたい。一株だけ掘りおこして、根っこの長さを確認する。強靭な生命力に対して、根っこの長さはそうでもないようだ。

小気味のいい曲調に合わせながら、指で机をタップしてしまう。

天気は快晴。きっといい日。


ベランダに出て空を見上げる。最近、空が気になっていた。

不穏、不気味、視線を感じ見知らぬ人の好奇心によって、無遠慮にぶつけられた視線。それに近い不快な視線を空から感じてしまう。

見た目だけなら、セレストブルーのなんてことない空。

色もなく繰り返される日常に、少し疲れてきたのかもしれない。まだ老け込むような歳でもないんだけどな。


携帯を見る。

SNSでは、毎日のように魔女狩りが執行されていた。

少し目を離した隙に、狩る側が狩られる側になっている。

よく飽きないな。愚痴という名のプロパガンダが次から次に流れてくる。

自分が疲れるだろうに、不安を煽りあっている。目まぐるしい。

そうだネコチャンを見よう。私のオアシス、ネコチャン。


十一月初頭、まだ外は暖かい。着込むような気温でもないけれど、日が落ちると寒い。微妙な季節だ。

印象に残らないような、地味で薄いメイク。

秋に馴染むワンピースに、体に合わないぶかぶかのアウターを羽織る。

キャスケットを目深に被る。

微かに揺れるビタミンカラーのピアスを付けて、指ではじく。

そしてワイヤレスイヤホンを装着したら『私はあなたに興味ありませんよ』コーデの完成。今日も完璧。


携帯を見る。

一時間おきに予言された未来、今日は一日天気みたい。


最寄りの駅に到着した。絶え間なく人が動き続けている。

これだけ人がいるのに、今日、私と関わる人は一人もいない。

動き続ける……私に興味がない他人、私が興味のない他人。

立ち止まることを許さないかのような、人の流れに乗る。

金貸しの広告、露出の多い女の子が並んでいるアプリゲームの広告、大きな声で騒ぐカップル、心に響かない啓蒙文付きの広告、駅員と揉めている壮年の男性、年中発光している喋る自動販売機、イケメンを集めたアイドルの広告、壁際に張り付いているカップル。

要らない情報が、無理やり頭に入り込んで来ようとする。

もう長い事住んでいるけれど、この煩雑にして、無尽蔵な情報の濁流には、いつまで経っても慣れない。

聴覚はイヤホンで防げるけれど、視覚はどうしようもなくて、くらくらする。

一日中ぐるぐる、右に、左に、周っている列車は、人を吸い込んでは、吐き出している。乗らなければ。


携帯を見る。

SNSでは、自分には優しくして欲しい癖に、他人に刃を突き立てることしか知らない人達が言い争っている。

少数の対立が、まるで世論の対立かのように見えるから怖い。

老若が対立している。男女が対立している。

知りたくもない現実を突き付けてくる。

他人が傷ついたら、何故か私まで傷ついてしまう。人と関わる事が怖くなる。人と関わってマイナスになるぐらいなら、いっそプラマイゼロを貫いてしまいたい。

世はまさに、恋愛氷河期。


親ガチャ大成功した実家と、悪くはない顔貌と、高い学歴とが災いして、どこに行っても孤高だった。

無感情な敬語しか話さないので、余計に浮いていた。

親が厳しいわけでもなく、新人教育で躾けられたわけでもない。

ただ、話し方を使い分けるのが面倒なだけだ。

『あの人は特別だから仕事ができる。私たちが及ばないのは当然。だってあの人は特別だから』

努力をする気もない、誰かの傀儡でしかいられない人形が、一線引いて私を見る。

ならば精々微笑みを湛えて、何でもできるお嬢様を演じきってあげよう。


ホームセンターに着く。

小ぶりでいい、可愛いのを選ぼう。カエルの音楽隊が乗った鉢がある。

これにしようか。少し土も買わないと。

必要なものを揃えたら、結構な荷物になってしまった。

通販でもよかったのだけれど、いよいよ歩く必要がなくなって、足が要らなくなりそう。仕事も、月の大半がリモートワークになっていた。

歩く必要がなくなったら翼をください。疲れない翼を。

また、空から視線を感じた。

少し日の高いアザーブルーの空の色。

何かしら、何か言いたいのなら言って欲しい。

まぁ……イヤホンを付けているから何も聞こえないのだけど。ごめんなさいね?


携帯を見る。

無意識に画面を操作する。何もなくても見てしまう。

体を、まるで誰かに乗っ取られたかのような一連の動作に気が付いて、さっと携帯をしまう。まるで呪いのよう。


お気に入りの曲がかかる。知らない言語で、何を歌っているのかもわからない曲。

音楽は、リズムのみでも心を揺さぶる。

早く家に帰ろう、溢れかえった情報で酔う前に。


クラゲがぷかぷかぶら下がったキーホルダー、

何処で買ったのかも忘れた干支の根付。

家の鍵が年々にぎやかになっていく。

古い造りのマンションなので、オートロックではあるものの、家の守護者は、昔ながらの古臭い捻る鍵だった。

キャスケットを脱いで投げる。眼鏡も外した。近眼だから近くは見える。

買ってきた小ぶりの植木鉢に、増えた分の多肉植物を移す。

雑に植え替えても、どうせ根っこが生えてくる。

落ちた欠片みたいな葉からも、うねうねうねうね根っこが生えてくるのだ。

冷静に考えると怖い、不死身。切り落とした指から根っこが生えて、走り去っていく様を想像してしまった。……案外可愛いかもしれない。


ピンクのウサギを模したルームウェアを着て、王冠を被ったカエルのぬいぐるみを抱く。

何となく、ノートパソコンを立ち上げてしまう。

一年365日、携帯とパソコンを見ない日はないかもしれない。

電脳に支配された私の人生。ピコピコ小うるさい私の人生。


観る気のないテレビをつける。殆どミルクのミルクティを淹れて、紅ショウガが迷子になった栄養バランス度外視の焼きそばを食べる。

そもそも紅ショウガは入れていなかった。台所に忘れ去られた紅ショウガ、可愛そうな、紅ショウガ。

パソコンを立ち上げたけど、何をしよう?


結局、携帯を見る。

母からメッセージが来ていた。嫌な予感がする。ここ最近の話題がソレしかない。

可愛らしい猫のスタンプが、泣いていた。

やっぱり……祖父の危篤を知らせるものだった。

『すぐ戻ります』と一言返す。

可愛らしい猫のスタンプが、困惑していた。

――仕事が忙しいなら無理はしないでね。

『大丈夫です。今、ちょうど閑散期なので』と返した。

可愛らしい猫のスタンプが、笑っている。

――気を付けて帰って来てね。


祖父には、自力で動かせる臓器が殆どなかった。

維持装置を切ればすぐにでも死ねる人だった。

昔負った怪我の影響らしいけれど、深くは聞いたことがなかった。

私の知る限りの祖父は、逞しく、そして力強い。

覚悟はしていたけれど、辛い。

私が死ぬまでは生きていて欲しいなどと、無茶なことを考えてしまう。

シュレーディンガーの箱に詰め込んでしまいたい。

開けるまで生死が観測できない箱に。


帰郷の列車の中から外を見る。

記憶の中で燻らせていた景色が、徐々に現在のものに更新されていく。

そういえば、久しぶりだったな。

実家が嫌いなわけではないのだけれど、目まぐるしく変化していく都会に慣れると、『ど』が付く田舎に帰るのが億劫になってしまう。

住めば都というが、利便性の高い生活で最適化されてしまうと、不便な生活が煩わしくなるのだ。お守りがわりに持ち歩いている、現金の使いどころも、実家周辺ぐらいしかない。

編成数がずいぶん減ってしまった列車に乗り継ぐと、いよいよ海と山と畑しか見えなくなった。

辛うじて有人の駅の改札をくぐると、母が迎えに来ていた。

相変わらず、こじんまりしていて可愛い。和装がよく似合っている。

小さく手を振る母。

微笑みながらも愁いを帯びた顔、遅かったのかな。

「おかえりなさい」力無くそう言った。


私の祖父で、母の父、急逝したわけでもない。誰もが予期していたし、大往生したといっても差し支えない死だったように思う。

何度も死を想像して泣いてしまっていたが、いざ目の前に迫るとそうでもなかった……いや、悲しいな。

たった今、この世界には祖父はいない。

朝まではいたのに……変な気持ち。


『死んだ姿なんて、大勢に見せるもんじゃあない』との祖父の遺志を酌み、葬式は近親のみとなった。

棺桶の中の祖父の顔を見る。ずいぶんやつれてしまっていた。

あの逞しかった祖父が、こんなにも小さくなった。

家族の言葉が右から左へ流れていく。

消沈しているときの言葉は意味を成さずに、耳に届く前に掻き消えていく。

現実の中で、そこだけ非現実の空間になってしまったかのよう。

粛々と淡々と、式は進行していった。

渡された花を祖父の周りに置いていく。

一羽だけ、綺麗な和紙で折られた鶴が置いてあった。

祖父が、鶴に乗って天国に渡る様を想像する。

いよいよ、さようならなのね。


火葬場へ行く車の中で空を見た。朱鷺色の空、また視線を感じた。

こちらを見て嘲笑っているように感じる。趣味の悪い神様。

遠くで夕刻を告げるメロディが流れる、なんという曲だったかな。


祖父は骨になった。

もっときれいに残るものだと思っていたけれど、骨だと言われないと、わからない程の、灰と小さな塊になっていた。

……あんまりじゃない。人の行く末が『コレ』だなんて。

思わず咽び、泣く。

ぽろぽろぽろぽろと、涙が次々と溢れては零れていく。


キラキラ光る小川の側を、祖父と手を繋いで歩く。

小学校で覚えたばかりの物語を祖父に話している。

祖父はそれを、微笑みながら静かに聞いてくれている。

綺麗な小石を集めて作った囲いに、祖父が捕まえたカニを入れる。

出来上がった小さな箱庭を祖父に見せようとしたら、

祖父が骨になって崩れて消えた。

思い出を反芻しながら空を見上げる。青金色の空、空は見つめてこなかった。


明くる日。式後の手伝いをした後、母にもう帰ると告げた。

少しゆっくりしていけばいいのに、と言ってくれる母には悪いけれど、日常に戻りたかった。

まだ遠いはずの死に、追いつかれそうな気がして、居心地が悪かった。

どんな記憶も日を重ねると薄れていく。

今日、この日も、きっと記憶の底に沈んでいく。

祖父を忘れてしまうようで忍びないけれど、つら過ぎる。帰ろう。

もう夕方。この時間から帰ると、着くのは夜中になってしまうかもしれない。


ゆっくり歩を進めながら、

しばらく帰ってこないであろう風景を目に焼き付けておく。

夕刻を告げるメロディが聞こえる。思い出せないなぁ、曲名。


駅に着いた。田舎のこじんまりした駅なので、この時間になると私一人しかいない。夕刻なのも相まって少し怖くて寂しい。

冬の冷たさを孕んだ風が吹き抜けていく。上着が薄いので寒い。


携帯を見る。

……見ると同時に伯母から電話がかかってきた。

取り落としそうになる、びっくりした。

そういえば、伯母はお葬式に来ていなかった。

まぁ……お葬式に粛々と来る人ではないし。

「どうしたんですか、伯母様」尋ねる。

「絵里、今どこにいる?まだ本家か?」

少し焦った様子だった。

「いえ、もう帰ります。……今、駅に着いたところです。どうかしたんですか」

「今すぐ、そこから離れてくれないか。理由なんざわからなくてもいいから早く。俺から、お前が見えないんだ」

見えない?伯母も来ていたのだろうか。辺りを見渡す。いない。

「また変な遊びでもしているんですか。もう電車が来るんで嫌でも離れますよ」

「そうか……」

ふっと息を吐きながら続ける。

「電車に乗るまで周りを見るな。大好きな携帯でも見ていてくれ。できれば音も聞かないでくれ、いつも着けているアレで、音楽でも聴いておけ」

そういう伯母の声から、緊張が窺えた。

「はい、わかりました……」そう言い電話を切った。

どうせ、いつもの伯母の冗談だ。

伯母は美しかった、伯母以上に美しい人を見たことがない。

父より年上のはずなのだが、二十代でも通じそうな見た目をしている。

中性的な顔貌と、モデルも顔負けのプロポーション。

すれ違う人は皆振り返る、彫刻のように整った姿。

……だけれど残念なことに、頭の中身が中学生男子だった。

楽しい事しかやらない自由人。破天荒と言えば聞こえはいいが、周りを振り回す人。

進学の為に田舎である実家を離れ、伯母のもとでしばらく暮らしていたので、とても仲は良い。

日常的にいたずらを仕掛けられていたので、この程度では動じない。

周りを見るなと言われたら、余計に気になるじゃない。

こういう時に限って、駅に纏わる怖い話を思い出してしまう。

無いはずの駅、死者が葬列している駅、ホーム向かいにいる、死んだはずのアレコレ。

馬鹿らしい、伯母のせいだ。これが狙いだったのかしら。

案の定、周りを見渡しても何もない。

いや、ホーム下に猫がいた。三毛猫だ、可愛い。

そんなところで危なくないのだろうか。後ろから小さいのも出てきた。

親子のようだ。ホームの端部へ行き、他にも仲間がいないかホーム下を見渡す。

他に二匹、顔を出した。とても可愛い。


……その時……私を呼ぶ声がした。ガジャガジャガジャガジャと、耳障りな音が、何故か耳の奥からしている。

何を言っているの?頭の裏で紡がれる気味の悪い言語。

耳の奥の、もっと奥が気持ち悪い。

何処から?キィンと耳鳴りがした。耳を塞いでも意味がないのに塞いでしまう。

背中に、冷えた汗がすっと落ちる。


空だ……また空から何者かが、私を見つめている。茜に藍が交じりだした空。

視界に違和感を覚える。距離感が掴めない。

空が落ちてくる……?

本来なら手の届かない場所にある空が、

手で触れてしまう位置に近づいたように感じる。

空が、どんどん私に近づいてくる。まるで手を差し伸べるかのように。

藍の中の茜の部分が、私に溶けてくる。


携帯が震えた。

煌々と、ライトを光らせた特急の通過列車が近づいてくる。

頭がぐらぐらしていた、携帯を見る。

母からのメッセージだ。視界が揺らぐ……助けを……。

上から迫った茜の空が、私を線路へと押し出す。

足元がなくなる。手から離れた携帯が見える。

可愛らしい猫のスタンプが、手を振っていた。

まるで、さようなら、とでも言うように。

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