5.nemophila

青い海のように広がる、ネモフィラの花畑が眼前にあった。

その青は空の青と示し合わせたかのように、太陽の光を浴びて刹那の輝きを放つ。花々は揺れるたび、波が寄せるような美しい動きをしていた。

海を知らない人が、海の情報だけ持ってこの光景を見てしまったら、

海だと勘違いしてしまうかもしれない。

遠くから見れば、集合の青だが、近づくと一つ一つの花が、独自の青を歌っている。

時間がゆっくり流れているように感じる。

時間の概念などないであろうこの世界にも関わらずだ。

青い花びらは柔らかい。空は広く、白い雲がゆったりと流れていく。

まるで春の魔法が作り出した、地上の楽園。

珍しく風景がまともなこの一帯は、まともであるがゆえに、異質だった。

生きていた頃と変わらない空気や光を感じる。

ただ……飛び跳ねたり、踊り狂う生物たちは、相も変わらずそこにいて、

やはりは異質な場所にいるのだな、と嫌でも思い出させてくれる。

「ここだけ天国みたいだね」

僕は言う。

「……そうですね……落ち着いているかもしれません」

絵里は、呆けたように遠くを見ていた。

僕たちはベンチに腰かけている。

疲れを感じているかは分からないが、人間にはしばらく動き続けたら休もうというメカニズムが、組み込まれているようだ。

「ショウさんは、ここで永遠に暇を潰せと言われたらどうします」

呆けたまま、絵里が言った。

「永遠かぁ……でも、その可能性もあるわけだよね。この地獄の責め苦があるとするのならば、暇で僕たちを永遠に苦しめる事じゃないかな」

「でも、地獄に堕とされるって悪い事だけじゃないみたいですよ。早く輪廻転生したいなら地獄が手っ取り早いらしいです」

「そんな、手っ取り早くお金を稼ぐ、みたいなノリで言われても……」

気怠げに言った僕を見て、絵里がはははっと笑っている。

「それに、二人なら案外、暇を潰すのも楽そうじゃないですか?」

「そうだね、絵里ちゃんは頭良さそうだし、話題を無限に出してくれそう」

「ショウさんも少しは協力してくださいね?」

「善処するよ」

背伸びをしながら欠伸をする。

長閑だ。眠気があるなら寝てしまうかもしれない。

だめだ……また記憶がおかしなことになる。

「そういえば、私、高校生の頃に、真剣に一人で永遠に暇を潰す方法を考えてみたことがあるんです」

「なんでまた?」

「私って、進学の為に勉強漬けだったんですよ、そりゃもう、暇な時間には、みっちみちのカリキュラムを組んでいる塾に通うぐらいには、勉強漬けです。誤解無いように言っておきますが、別に親が厳しかったわけではないんです、自発的に、です。私って単純だったので、良い大学行けば、それ相応の幸せが掴めると思っていたんですよ」

絵里は言った。

それって単純なんだろうか。単純とは、僕のように労しなく入れる近場の大学に、適当に入って、なんとなく学生やっています、て奴のことをいうのではなかろうか。

「掴めたの?」

それを聞いた絵里は、また指に髪を絡めながら考え込んでいる。

まったく真面目な子だな。

僕なら適当に答えてしまいそうだ。

「見る人によっては、幸せなのかもしれません。労力のわりに高いお給料を貰えていましたし、将来の為の基盤も着々と整ってきていました」

「絵里ちゃんの主観が入っていないね」

「正直……微妙でした。お金はあるので趣味は増えましたが、熱を注げるものがなくて。人間関係もどうしても仕事中心になってしまうんですよ。勉強漬けだったのも相まって、お友達もあまりいませんでしたからね」

ため息をついている。

「僕、受験ぎりぎりまで遊び惚けていたから、もうしわけなく感じてしまうよ。それに、美味しいご飯が食べられれば、それで幸せだったしね」

それを聞いた絵里が、可笑しそうにくくくと笑っている。

「そんな青春時代を送っていたので、暇な時間が、既に学習済みの事を教えている、学校の授業中だけだったんです。可笑しいですよね、本来なら学ぶべき時間に暇をしていて、余暇を謳歌する時間に、勉強をしていたんです」

その暇な授業中にも、別の勉強をすればよかったのでは?という鬼畜な考えが浮かんでしまったが振り払う。

「その希少な暇な時間が、絵里ちゃんが無駄なことを考えていられる、唯一の時間だったわけだ」

「そうです。その無駄シリーズの中に『一人で永遠に暇を潰す方法』がありました。まさか生かせそうな状態に陥るとは、思ってもみませんでしたけれど」

まさかのシリーズもの。

「どんなのを思いついたのさ」

「まず、前提条件として、何も所持していない事。紙と鉛筆を持っているだけでも、できること増えちゃいますからね。そして五感を刺激しない空間にいる事。お腹も減らないことにします。眠るのは、……まぁいいんじゃないですかね」

「随分と条件が厳しいね」

「光は奪っていないです。暗闇にすると、本当に精神が持たないらしいので。短時間で狂ってしまうらしいですよ。人は、光の下でしか生きられないように、なっているのでしょうね」

「怖いよ!」

「それで、ですね。私が、苦痛を感じることなく、続けられることを考えてみたんです」

「ふぅん?」

「それで……思いついたのが、世界を創造する事です」

「おぅ、絵里ちゃんは神だったのか」

わざとらしく驚く。

「ショウさん。相槌が、適当になっているのがバレていますからね」

「そんなことはないけどな?」

目を逸らす。

「……まぁ、いいです。続けます。まずこう、頭の中にマップを作るんですよ。大地や木々、湖、川を配置して、動物も置きます。そこに人が住める集落を配置していくと、次は人を配置して、名前とか、所属とか、決めてあげます。次は最初に配置した人に関わる人、その関わった人が住んでいる家、とか次々に配置していきます」

「僕、最初に配置した人、すぐに忘れそう」

「最初に造ったんだから、もっと愛着を持ってあげてください。アダムとイブもすぐ忘れられたら泣いちゃいますよ」

それを聞いて、思わず笑ってしまった。

神に忘れられて、禁断の果実を、咎められることなく永遠に食べ続けるアダムとイブ。善悪で腹を満たし続ける彼らは、一体どうなってしまうのだろう。

「つまりは、ストーリーを紡ぐってことかな」

「少し違うんですけどね。結局、役割を与えていく過程で、物語は生まれていくので、そちらの方が、分かりやすいかもしれません」

ちょっとつまらなそうに言う。

「どうします?私たちも、暇を持て余した神の産物かも知れませんよ」

「造ったんなら、最後まで面倒見て欲しいところだ」

「そうですね、神様がショウさんみたいな人ではないことを、祈るばかりです」

「言うね」

僕は、手を叩いて笑う。

「でも、悪い案じゃないね。頭だけあればできそうだ。でも折角二人いるんだし、二人で暇を潰せることを考えようよ。運がいいことに、性別が違う一対だよ?そりゃあ、もうやれることたくさんあるよね」

僕はにぃ、と笑みを浮かべる。

「また、やらしい事を考えていませんか?」

少し頬を赤らめ、そして膨らませている。可愛いなぁ、反応が初心すぎる。

よほどいい環境で育ったのか、それとも本当に、

勉強漬けで青春時代をふいにしたのだろうか。

男を知らずに死んでしまった?

だめだ、本当に良からぬことが、頭を巡りそうだ。

死んでもなお、煩悩にまみれるとか、とても背徳的じゃないか。

まったく罪深い生き物だ。人間というやつは。

「だからさ、そういう事、先に想像しちゃった方が負けなんだよねぇ。僕、具体的なこと何も言ってないし」

「はいはい」

絵里が、そっぽを向く。

穏やかな雰囲気を、そのまま纏ったかのような、風が吹いた気がした。

会話が途切れてしまったので、何かないかと思案する。

できれば、このまましばらく絵里と過ごしていたかった。

彼女は何も言わないと、容赦なく歩を進めて行ってしまう。

その先にいるのは、恐らく懇意にしている男だろう。

面白くない。その光景を思い浮かべると、心臓の根っこのあたりが鈍く軋むのだ。


「そういえば、前に僕がここに来た時は年配の女性がいたんだよね。ここが思い出の場所だって言っていたよ」

暑くも寒くもないが、なんとなく上着を脱いだ。

「……え?その方は思い出の場所を、この世界に持ち込めたということなんでしょうか。そんなシステムがあるんですか?ちょっと羨ましいです。私は身一つだったと思います」摘んだ花をくるくる回している。

「それを言うなら僕も……」と、言いかけた。

……あれ、僕は『僕の思い出』をこの世界で見た気がするな。

どこだったっけ、思い出せない。

重要な情報だったはずだ。『赤くて痛い記憶』を心のどこかに刻み込んだはずだ。

絶対に取り出せるように。黒い獣、僕から大事なものを奪い去った黒い獣……。

こちらを見て薄ら笑う、悍ましき獣。

「どうかしました」

絵里が、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

「ううん、何でもない。いつもの記憶ぐるぐる状態」

繕うように微笑む。

今はとりあえず、取り出さずにおこうか。きっと愉快な記憶ではない。

「そのご老人の話してくれた話が、少し妙でね。よく憶えている。うん憶えている。ご老人は大きな商家を営んでいてね。そりゃあもう、お金持ちだったらしいよ。欲しいものは何でも手に入るし、商売も楽しいと言っていた。それで、先に亡くなった旦那さんがいたんだけど、とても無口な人だったらしい。ご老人は旦那さんの事が、とても好きだったんだけどね。何を話しかけても、うん、とか、そうか、とか、そんな感じの反応だったらしいんだ。仏頂面で一切笑うこともしない」

「それはちょっと切ないですね」

「そんな旦那さんが亡くなったときに、日記を遺していたのを見つけてね、そりゃもう何十冊とかだよ。一日一日、大したことは書いていなかったんだけど、最後に一言『君を思う』とか『いつまでも愛している』とかラブレターが添えられていてね。押し花が一輪ずつページごとに差し込まれていたらしい」

「いい話じゃないですか」

絵里が微笑む。

「そこだけ聞くとそうなんだよね。確かにいい話だ。でもね、そのご老人は少し妙だと感じたそうだよ」

「何故です?」

「ご老人には、花を愛でる趣味がなかったそうだ。生前、花を贈られたこともないし、自身も花を飾ったことがない。見合い結婚だったから、結婚当初から冷めた関係だったらしいよ。政略結婚に近かったらしい、家の為の結婚ってやつだね。子供もいないって言っていたし。そんな関係性でそんな殊勝な事するかな」

なんとなく、絵里の目を見つめてしまう。

「でも……ずっと一緒にいたんですよね。二人で苦楽を共に享受してきたわけです。言えなかった思いぐらいはありそうじゃないですか」

「でもさ、一緒にいるだけなら片方が、もしくは両方が我慢すれば、いれそうじゃない。結婚って、何も愛し合った二人だけがするもんじゃないだろう?見合い結婚ならなおさら、打算的な、当人たち以外の思惑もあったんじゃないかな。僕の時代は多かったよ、体裁と経済面で取り交わす婚姻が」

そもそも僕は、恋愛の終着点が結婚だとも思っていなかった。

何となく納まりがいいからするものだという考えだった。

好き同士で一緒にいたいなら、文字通り一緒にいればいい。

そこに特別な約束や契約など、本来なら必要が無いはずだ。

「本当に嫌なら、そんなに長いこと一緒にいないですよ。本当に無口で、恥ずかしがり屋だったんじゃないです?子供を作るような関係性じゃないと、愛は育めないんですか」

僅かだが、絵里の口調から苛立ちを感じる。思わず目を逸らしてしまった。

そこまで踏み込んだ話題にするつもりはなかったな。この辺で撤退したい……。


「こう言いたいわけですよね。旦那さんには、実は思い人がいて、親から薦められた結婚の為に、諦めなければいけなかった。愛のない結婚をしたけれど、忘れられず、日々、その思い人への愛の言葉を紡ぐんです。思い人は花が好きだった。本来なら枯れるはずの花を、枯れないように押し花にして、愛の言葉と共に挟み込む。もしかしたら思い人はとっくに亡くなっているのかも知れませんね。美しい行為だと思いますよ。でも、でもね?その悲恋の裏にあるのは裏切りです」

淡々とした口調だが熱い。絵里は纏う空気に反して、情熱的なのかも知れない。

そして感受性が高く、共感しやすい。

実に疲れやすそうな生き方をしている。

「ネモフィラの花言葉を知っていますか」

絵里が問う。

「ごめん、知らないよ」僕は気圧されていた。

「『あなたを許します』です。答えは出ていたのかも知れませんね」

そう言う絵里の言葉は先ほどとは打って変わって、熱を失っていった。

「二人とも一人の人を愛し続けたのに、相互ではなくて一方通行だったなんてなんて悲しい物語」

絵里の目に、涙が浮かんでいるように見えた。

「ごめんね?僕からしたら、話のタネぐらいにしか思っていなかったよ。絵里ちゃんがそんなに、他人に共感しやすい人だなんて考えていなかった。謝るよ。それにしても君は情熱的だね」

しゅんとなっている頭を撫でてあげたかったけれど、流石に嫌がるだろうか。

手を宙に彷徨わせたまま、少し焦っていた。

「ショウさんは淡泊なんですね。釣った魚には餌をあげないタイプですか」

悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「なんでそうなるの」

僕は、たじたじになっていた。

「ごめんなさい。少し熱くなってしまいました。……でも、ショウさんの目に映るネモフィラの花は美しいのでしょう。ならば……きっとあなたは、日記に蓄積された思いは、そのご老人に向けられたものだと……。いじらしい不器用な愛を信じていたかったんです」

花畑を見渡しながら、呟くように言った。

「そうなのかな」僕も呟く。

そうなのかもしれない。

あのご老人は、花を愛でる趣味はなかったのだ。

きっとネモフィラの『花言葉』など、知らない。

それに、ここが思い出の地だというのなら、

きっとこの美しい景色を二人で見たに違いない。

「きっと、そうです。でも残念ですね、ショウさんは淡泊で冷淡なんですか、私は美味しい餌をたくさんくれる人がいいです」

「だから、なんでそうなるのかな。君の王子は美味しい餌をたくさんくれるのかい」

僕がそう言うと、絵里が顔を耳元に寄せてきて、

「可愛くおねだりしたら、くれるかもしれません。甘いのをたぁくさんと、それとちょっぴり苦いのを少し」と囁いた。満足そうな笑顔を浮かべている。

「苦いのも?」

「甘いばかりでは、飽きてしまいますからね、たまにはビターなのも欲しいです」

そう言う絵里の、艶めかしい唇の動きを追ってしまう。

むずむずと、湧き上がる感情を抑え込む。

なおも蠱惑的な眼差しで、僕を見つめ続ける。

先ほど見せた初心な反応は、もしかしたらフリなのかもしれない。

僕は、いいように翻弄されている?

それはそれでいいかと思える自分が、少し憎い。

本当に……未だ出会えない王子のせいで分が悪い。


青が波打っていた。風がないはずのこの世界で風を感じる。今この瞬間を永遠として留め置けるなら、それでも良かった。


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