龍化

Ristoc

龍化

 俺は傲慢だった。ごく普通の、傲慢な人間だったのだ。いつでも死ねると。いつでも死を選ぶことができるのだと。自らの力をすっかり高く見積りすぎていたのだ。

 縄と一体化した手のひらを愕然と見つめた。一寸前までの俺から見たら、間違いなくこの日本語は怪文であっただろう。だが今目の前にある景色は、まさしく文字の如くである。自らの首を縛ろうと手にした太い麻縄が、俺の手のひらに食い込み、そのまま皮膚を侵食して体内を突き抜けていくのである。ああ、そもそも最初から勘違いしていたのだ。


 この世界はひどく冷淡だ。俺のような人間が生きるようにできていない。上手く生きられないのは努力が足りないからだ、真面目に生きていないからだ、と言われ続けて。只管ひたすらに精神を疲弊させてきたのだ。だから、俺が生きるのをやめたところで誰も文句を言うまい。否、こんな社会に適合しない俺が死ぬことはむしろ、全人類から歓迎されることに違いない。そんな名案を思いついた俺は真夜中、気分を高揚させながら近所のホームセンターで麻縄を買ったのだった。

 しかし結果はどうだ。俺はこの麻縄一つまともに扱うことができない。この命一つまともに潰すことができない。そうだ。元から俺が扱えたものなんて何一つ存在しなかったんだ。俺の命すら、俺の所有物ではなかったんだ。

 腑に落ちた。肩の荷が降りた。ぼうっと眺めていた手のひらをだらんと下げ、自室の天井を見上げる。なんとも低い空だ。この低い空ですら、俺にとっては広すぎる世界なのだ。手のひらに食い込んだままの麻縄が、至極当然のように、床に軽快な音を響かせた。このどうしようもなく俺から遠い世界に、思わず笑みが零れた。つまるところ俺は、今まで一時たりともこの世界で生きていなかったのである。


 冷蔵庫にお茶を取りに行くようにさりげなく、徐に裸足を床上に引き摺らせる。ベランダに続くガラス戸を開ける。戸の隙間から春の温い穏やかな風が俺の身体に注ぎ込まれるが、今はそれすら俺を高揚させる身辺の一つでしかない。

 先程はどうしてか死ねなかったが、そんなことは些細な問題でしかない。ここはアパートの六階である。どんなに強靭な人間だろうと、六階から落ちて重傷を負わないのはあり得ない。至極当たり前の動作のように、錆びてすっかり黒くなったベランダの手すりに手をかける。別に思い残すことは何もなかった。高揚した気分をそのままに、体をひらりと宙へ投げ出した。心無しか、俺の身体は軽かった。


 心臓が、持ち上がる。

 

 ――やはりだ。やはり俺は、確実に死ぬことができない。下のコンクリートはスポンジのように柔らかかったし、落ちる時の空気は、文字通り春風のように穏やかで温かった。俺はまるで魔法使いであるかのように、ゆっくりと余裕そうに着地したのだった。

 俺は今回も、予測通り死ぬことができなかった。がしかし、先程まで死ぬことを望んでいた人間とは思えないほど、俺はこの事実に恍惚としていた。

 人間は世界というものを、より視覚的に言うならば三次元の空間を、外側から眺めることができない。それは何故であるか。

 そもそも世界が、人間の理解し得る法則性で成り立っている保証などどこにも存在しない。それをあえて「人間が理解できる法則性で成り立つ世界である」ことを仮定して、色々と物事を捏ねくり回しているのである。

 そこまではまだ良い。そこでさらに人間は、理性を絶対化し、理性で理解できない世界の可能性を忘れてしまったのである(忘れるくらいでないと、人間は世界を理解し尽くすことはできないのかもしれないが)。人間は限度を超えて理性的に物事を考えるので、理性で構成された世界に閉じ込められ、その法則が成立しない世界はないのだと決めつけている。その結果、人間の自由な思考によって、己の思考が制限されるという逆説が生まれるのである。

 ただ、人間の生きたいという根本的生物学的な欲望から脱し、死ぬことに何度も失敗することによって、俺はどうしてかその世界の外側を見てしまった。今まで当然だと思っていた世界の法則がいとも簡単に崩れ去る、混沌たる世界の外側に邂逅かいこうしてしまったのだ。


 ……などと至って厨二病的な表現をしたが、要は狐につままれている人間が一人いる、というだけのことである。


 視線を下げ、未だ手に食い込んだままの麻縄を滑らかに引き抜く。さっきまでまともに扱えなかったのが嘘かのように、思い通りに縄は地面へと音を立てて落ちていく。なんとなく、縄の動きが、この世界の動きが、分かってきた気がする。

 ふと思い浮かんだ「俺は今までこの世界で生きていなかったのだ」という考えは、妙に俺の中ですっぽり収まっていた。元々この考えを求めていたかのように、疑問や不満が全てすっきりと解決したのだ。

 そもそも、俺が誕生した、生きているなどという保証はどこにもない。ただ母親の腹の中から生まれたと、俺は生きているのだと、教わって育ってきたのだ。別に疑ったこともなく、完全に鵜呑みにしていた。元来生きているかどうかの定義だって、生体反応を示しているだけの外見のみである。心臓が微弱な電気信号で振動するだけの物体が「生きている」と呼ばれているだけである。いや、ここまで生命に対して冷めた考えをしている俺がおかしいのか?俺はとうとう狂ってしまったのか?はは。

 そうだ、きっと今まで死んでいたのだ。これは生きているものが生きなくなったという意味での死ではなく、最初から存在していなかった、生きていなかったという意味のものである。ははは!そうだ、今まで生活が、生きていることが苦しかったのは、俺が死人だったからだ。生命というものを、この世界の本質を、全くと言って良いほど理解していない死人だったからなのだ。自殺に失敗して、俺はようやく死んでいる事実に気付いたのだ!


 自殺に失敗した後、自分は歩いてどこかの森の中へ入り、世界というものをじっくり観察してみることにした。今まで過ごしていたガッコウだかカイシャだかはもう覚えていないが、全く後悔はない。今では、自分の知らない化学反応を起こすこの世界が楽しくて仕様がなかった。

 これまで嗅いだことのない匂いや味わったことのない味。酸性雨で溶けた木の幹からは想像以上に香ばしい、美味しそうな匂いがするんだ。とある虫と植物をくっつけると、とても可愛い茶褐色縞柄の猫ができるんだ。バニラアイスのような味がする案外固い綿雲、地面を掘ると湧いて出てくる花々。今まで知らなかったことだらけだ。もう自分が前と同じ世界に生きているのか、もしかしたら本当に今までの世界の外側に辿り着いてしまったのか、もう頓と検討がつかないのである。ただ、自分はもう世界と今までの俺との区別もつかずに、只管に赤子のように、世界を駆けて遊び回っていた。


 そんな日々からどれくらい経っただろうか。どうやら今まで生きてきたこの星から人間が居なくなるらしい。先程、とある青い虫がトランシーバーに食べられるのを、助けられずにただ見ていただけだったので、人間が周りの星の逆鱗に触れてしまったらしい。これから沢山周りの星の植物がこの星に降ってくるので、少し飛んで見守ってみることにする。

 ジャンプして、地球を思いっきり遠くへ蹴飛ばす。今までやったことがなかったが、これで空を飛べることはなんとなく分かっていた。予想していた通り、自分は周りの大木くらいの高さまであっという間に浮遊する。いや、別にこんなこといちいち意識している訳じゃないのだが、だってこの文章は死体が読むためのものだからさ、ちゃんと書かないと分からないじゃあないか。

 近くの街を一通り眺められるくらいの高さまで飛べたので、一度立ち止まってみる。早速大きめの植物が勢いよく降ってきていて、今まで住んでいたアパート辺りにどかんどかん穴を開けていく。あちらこちらから火が、音が、とてつもない量の波がのぼっている。植物たちはそれらなんかものともせずに、沢山の車を、ビルを、ついでに人々を、容易く飲み込んで成長していく。やはり世界って広いんだなあ。

 ふと一つの飲まれかけの家に目をやると、小さな人間の子供がこちらを指差していた。「化け物だ!」ほう。化け物ねえ。「きっとわたしの家をこんなにしたのもあいつだ!ゆるさない!」根も葉もないこと言ってくれるじゃあないか。

 まあそこまでは良かったんだが、その後の言葉が、今でも妙に記憶に残っている。

 「あの龍め!」

 龍、なんだろうか。自分は。


 死人というものは、生きているものを避ける。生きているものを、彼等の運命を左右するものだと恐れるのだ。そして自分は今、彼等に恐れられている。そこから導かれる結論は一つ。自分は、人間でいう運命を左右する、世界の一部に成り下がったのである。

 この世界と、この世界のものではない人間、その二者による衝突、軋轢あつれき、不和、紛紜ふんうん。そこからしか生まれ得ない高揚感に、どのような表情をするのが良いか考えかねる。表面的な表現でしか物事を表せないのが言葉というものである。ただ、言葉は至極単純に、一番近しいものを表現できる。この世界のものではない言葉を用いて、この世界のものではない死人に対して説明をするとしたなら、それはつまり。自分はこの心情に対して、至極残酷な、どす黒い笑みというものを浮かべたのである。

 つまるところ自分は世界に、龍になったのである。己の死を理解して初めて、一頭の龍は誕生したのである。

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