第110話 二通の手紙


 冬の冷たいアスファルトの上に、愛梨は座り込んでいた。

 少し先にはバッグが放り出されている。たった今、愛梨を助けてくれた『お姉さん』のバッグが。


「一体何が起きたの……」


 愛梨は呆然と呟いた。

 彼女はただ、いつも通り塾から帰宅する途中だった。

 それなのに突然、わけの分からない光が巻き起こって彼女を飲み込もうとした。

 怖くてたまらなくて必死に伸ばした手を取ってくれたのは、通りすがりの見知らぬ人。

 その人は愛梨の身代わりになって、地面の下に消えてしまった。


「わたしのせいで」


 混乱する思考がぐるぐると回る。

 あの光はきっと、愛梨を狙っていた。あの人は――お姉さんは、巻き込まれただけだ。

 恐怖と混乱と罪悪感と。助かったのだという安堵は、それらの暗い感情に吹き飛ばされた。


 どれほどそうして座り込んでいただろう。

 冬のアスファルトは冷たくて、制服のスカートのむき出しの足は冷え切ってしまった。


「そうだ、警察……。110番、しなきゃ」


 でも、何と説明しようか?

 急に地面が光って人が飲み込まれた。

 そんなことを言って信じてもらえるだろうか?

 そう考えたら、愛梨の心は怯んでしまった。


 ――ふと。


 夜空が柔らかく光った気がして、彼女は星空を振り仰いだ。

 天にかかる月は細くて、その光は頼りない。

 けれども確かに光を感じた。月明かりでも星明かりでもない、ましてや街灯の光などではない温かな灯火を。


 淡い光の中に何かが見える。小さい二つの影。

 愛梨は自然と立ち上がって、影に向かって手を伸ばした。呼ばれているような気がしたのだ。

 影はひらり、ひらりと落ちてくる。どうやら紙のようだ。


 二つの紙片は愛梨の手に収まった。

 和紙のような、あるいはテレビで見たエジプトのパピルスのような不思議な紙だった。軽く巻かれて紐で結ばれている。

 その片方を見て、愛梨はぎくりとした。


『氷藤愛梨さんへ』


 紙の表面には確かにそう書かれている。

 もう片方を確かめれば、『お父さん、お母さんへ』とあった。


 愛梨は自分の名が書かれた紙の紐を解いて、中身を読んでみた。







『氷藤愛梨さんへ。


 急にこんな手紙を受け取って、驚いたと思います。

 私は山岡悠理。あの冬の日に――あなたにとってはつい先程、地面の光に飲まれてしまった者です。


 きっとびっくりしたよね。だって、人が一人消えたんだもの。

 もっとびっくりなことに、私は地球ではない場所にたどり着きました。

 まるでファンタジーのアニメや小説みたいで、私も最初は信じられませんでした。


 でも本当だったの。そこは日本とまるで違う文化の国だったけど、ちゃんと人が暮らしていて、社会になっていました。

 私は日本でOLをやっていました。だからこの国でも働いて、お金を稼いで、きちんと暮らしています。


 それになんと! 今までろくに彼氏がいなくて婚活をやろうとしていた私に、婚約者までできたのです!

 アウレリウスという人で、すごいイケメンです。かっこよくて、頼りになって、私を大事にしてくれる人です。一緒にいると心が安らぐ人です。

 あ、ごめん。のろけちゃった。でも本当なの。


 そんなわけで、私は大丈夫。むしろあなたが心配です。

 目の前で人が消えて、ショックを受けたと思います。

 けれどあれは事故でした。

 誰のせいでもない――あえて言うなら召喚を仕組んだ人のせいだけど、その人も悪気があったわけではないし。


 だからどうか、あまり気に病まないで。

 私にとってあなたを助けられたのは、誇らしいこと。子供が困っていたら、大人は助けるものですからね。

 すぐに気持ちを切り替えるのは、大変かもしれません。

 でも私は、あなたの幸せを心から祈っています。


 またいつか、再会する日を願いながら。


 山岡悠理


 ――追伸。もう一通の手紙は、私の両親に渡してください』







 愛梨は何度も手紙を読み返した。

 知らない人のはずなのに、悠理の言葉はどうしてか心に沁み込んでいった。

 恐れも戸惑いも、罪悪感も。暖かく包まれて、少しずつ薄れていくようだった。


 そうして何度目か、手紙を読み終えたとき。体が冷えてしまっていた愛梨は、小さくくしゃみをした。

 耳元で白い小犬のマスコットが揺れる。赤い首輪の白い小犬は、彼女のお気に入りだった。


「ええと、警察に通報……。一応、しておいたほうがいいよね」


 たぶん信じてもらえないだろうが、それでも行方不明事件だ。

 それに悠理の両親と連絡を取らなければならない。警察に聞くのが一番早いだろう。


 スマホを取り出して、流れっぱなしになっていた英語のアプリを切る。

 これを聞きながら歩いていたのが、ずいぶん昔のように感じた。

 愛梨は悠理のバッグの横まで行って、110番をかけた。







 それから一年と少しの時間が流れた。

 愛梨は猛勉強をして、本来の志望よりもランクの高い大学に合格していた。

 どうしても学びたい分野ができたのだ。


「愛梨、すごいよね。本当に合格しちゃうんだもん。勉強したい分野って、どんなの?」


 友人の言葉に、彼女は笑って答える。


「並行世界、多元宇宙について。分野としては、量子物理学になるね」


「えーっ。それってSFの話じゃない?」


「そうとも言い切れないよ。わたし、この分野を絶対に突き詰めて研究してやるの」


 友人は本気にしなかったが、愛梨は大真面目である。

 新しい学び舎を前に、彼女は決意を新たにした。

 決意と未来への希望とを胸に抱いて、新しい一歩を踏み出していく。

 そうして数年後、愛梨は新進気鋭の物理学者として名を馳せることになるのだった。


 あの冬の日の手紙に記された、再会の日を信じて。

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