第108話 エピローグ・最後の願い


 そうしてしばらく泣いていたアイリが、ふと顔を上げた。


「しまった……。もう時間がない」


 そっとユーリを押しやって、彼女は再び魔法陣の中心に立った。


「魔物の体を介して集めた魔力は、あまり長持ちしないんだ。早くしないと流れてなくなってしまう」


 アイリは島の周囲の湖を指さした。確かに先ほどよりも水位が下がってきている。


「悠理さん。あなたの気持ちは、どう? 日本に帰る? それとも……」


「この国に残るわ」


 ユーリはきっぱりと言った。もう迷いはなかった。

 アウレリウスが歩み寄って、彼女の肩を抱く。労りと愛情のこもった動作だった。

 そんな彼らの様子にアイリは泣き笑いの表情を作る。


「そっか。悠理さんにも大事な人ができたんだね。それなら日本に帰らなくても、幸せになれるかな」


「うん、必ず幸せになるわ。私は欲張りだから、しっかり良いところをもらっておくの」


 背後でユリウスがクスクスと笑っている。アウレリウスを諦めかけたときのことを思い出しているのだろう。

 その声は聞こえなかったことにして、ユーリは続けた。


「でも、アイリにお願いがあるの」


「何? わたしにできることなら、何でもするよ」


「日本に手紙を送るのは、できるかしら。元気でやっていると手紙を書いて、両親を安心させてあげたい。それから……たとえ今のあなたは変わらなくても、違う未来の愛梨にも伝えたい」


 アイリはぱっと笑顔になった。明るい花が咲いたような笑顔だった。これが本来の彼女の表情なのだとユーリは思う。


「もちろんできるよ! 生き物を送るよりよっぽど簡単。紙とペン、用意するね」


 彼女は空中から紙とペンを取り出した。何とも不思議だが、大魔道であるアイリにとっては朝飯前であるようだ。

 そうしてユーリは二通の手紙を書いた。

 一通目は両親宛。急にいなくなって心配をかけたことを謝って、元気でやっていること、もう帰れないこと、それでも心配はいらないことを綴る。


 二通目はまだ少女の愛梨に。あまり気に病まないでほしい、あなたの未来を生きてほしいと、先ほど話して聞かせた内容を書いた。

 くるくると巻いて封をする。


 二通の手紙を受け取ったアイリは、魔法陣の中心で手をかざした。

 宙に浮いた手紙が、島の周囲の湖が淡い光を発した。

 光はゆらゆらと揺れて、歌声のような音を紡ぐ。歌声のような音の波を。



 ――開け、開け、ヤヌスの扉。


 ――閉じた扉を開き、彼の地へ繋げ。


 ――どうか心が届きますように。想いが還りますように。


 ――ヤヌスの扉をくぐり、彼の地に届け。



 声ならぬ声が聞こえる。ユーリが最初にこの国に来たとき、聞こえた声。

 深い穴底がまばゆい光に包まれた。上昇とも下降ともつかぬ感覚をみなが感じた。


 そして光が収まったとき、手紙は消え、周囲の水は枯れ果てていて。

 アイリはまっすぐに上を見ていた。地に開いた穴から見える空、さらにその上の遠い星空を。

 その姿は揺らいで、半透明になっている。


「アイリ?」


 ユーリが呼びかけると、彼女は振り向いた。


「そろそろお別れみたい。今はもう、心残りがぜんぶ消えたの」


 言いながら、彼女はさらさらと溶けるように消えていく。


「ありがとう、ユーリさん。わたしはわたしで変わらないけど、向こうの愛梨はきっと変わるよ。手紙を読んで、変わるはずだよ」


 ユーリは手を伸ばしかけて、止めた。今の彼女を引き止めてはいけないと思ったのだ。

 だからその代わりに、ユーリは彼女に問いかけた。


「ねえアイリ、私たち、またいつか会えるかな?」


「そうだね、いつかまた。会えると良いね……」


 さようならは言わない。五百年を待っていたアイリと、手紙を読んで日本で生きる愛梨。過去と未来が交差する以上、どこかでまた会えるかもしれないと思ったからだ。


 ユーリの想いが伝わったのだろう。アイリはふわりと微笑んだ。

 その笑みは柔らかくて、少女の純粋さと長い人生を歩んだ彼女の両方の心がこもっていた。


「また会いましょう、アイリ!」


 やがて微笑みの残滓を残して、彼女は消え去る。

 それが、いっときの別れになった。





+++





 その後はいろんなことがあって、みなが慌ただしく過ごした。

 アウレリウスはドリファ軍団の被害状況をまとめて、死亡者の遺族に慰労金を、生き残った者たちには祝いの賞与を贈る。

 あれだけの魔物の群れを相手取った割に被害は軽く、少ない死者を悼んだ後、兵士たちは勝利の美酒に酔いしれた。

 魔王竜の脅威を取り除いた上に、魔の森の魔物たちさえ一掃したのだ。当分危険はないだろう。

 さらには戦利品となる魔物素材も莫大な量で、金銭的にも大いに潤う。

 カムロドゥヌム全体が祝勝ムードに包まれて、お祭り騒ぎは連日続いた。


 しばらく後、ユリウスとアウレリウスは連れ立って、魔の森の穴を再調査した。

 結果、魔力を集める術式は未だ有効であるものの、アイリという核を失ったために魔王竜の再出現はないとの結論に達した。

 集められた魔力は穴の底からどこかへと流れていく。その先がどこに繋がっているか不明だが、魔の森の魔物が急に強くなるようなものではないと確認が取れた。







 春の訪れとともに、ユーリとアウレリウスは正式に結婚式を挙げた。

 冬の戦いにおいてユーリとシロの貢献は明らかで、彼女は勝利の女神として兵士たちに崇められている。

 カレーと石けん、食事と衛生の功績も誰もが知るところである。

 貴族の身分でないなどと、不満を言うものは誰もいなかった。


 ユリウスは彼らの結婚を見届けた後、ロビンとヴィーを連れて旅立っていった。

 魔王竜を仕留めた彼の名声はますます高まり、愛刀の無銘――否、魔竜殺しを手に各地を駆け回っている。

 ユピテル帝国全土で魔物の脅威が高まりつつあるが、手に負えない大物は彼が討つだろう。どの地方の魔物も魔王竜ほど強大ではない。

 ドリファ軍団の勝利は貴重な成功例として、グラシアス家の従兄弟たちの名声とともに全国に広がっていった。







 ユーリは変わらず冒険者ギルドで働きながら、住居をグラシアス家の屋敷に移した。シロも一緒だ。

 仕事は充実していて、アウレリウスの母との仲も良好。

 何よりも愛する人がそばにいる。毎日が弾むように過ぎていった。


「ねえ、アウレリウス」


 屋敷の中庭。春の青空を見上げながら、ユーリは傍らの夫に話しかける。


「今、私、とっても幸せよ」


 アウレリウスは微笑んで、妻の腰を抱き寄せた。


「ああ、私もだ」


 ここに来るまで、たったの一年。されど一年。長いようで短い歳月だった。

 いろいろなことがあって、いくつもの選択があった。何人もの人との出会いと別れがあった。

 その積み重ねの末に今がある。それはこれからも変わらないだろう。


 春風が中庭を吹き抜ける。

 香り高い花の匂いを感じながら、これからの未来に思いを馳せながら、二人は長いこと寄り添っていた。




 ――終。







+++


これにてこのお話は完結となります。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

もしよければ、完結記念にフォローや★★★をつけてやってくださいね。とても嬉しいのです。


後ほど番外編と、本編で書きそびれた裏設定的なものを書いて本当に終わりになります。

それではまた!

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