第107話 謝罪と感謝と


「お姉さん。悠理さん。こっちに来て」


 アイリが呼んでいる。あの夜と同じ少女が手を差し伸べている。

 彼女の心を思えば、願いに応えるべきだった。全てはユーリの行動が発端だったのだから。

 ユーリはふらりと足を踏み出しかけて――アウレリウスに肩を抱きとめられた。


「邪魔をしないで」


 アイリが言う。その声はもはや少女のものではない。長い年月を経た願いが、妄執と言っていいほどの意志が込められている。


「お姉さんは、日本で幸せに生きる権利があるの。この国の勝手で奪うのは、絶対に許さない」


 彼女の黒曜の瞳に冷たい炎が灯る。その表情は確かにアウレリウスとユリウスに似ていた。

 冷たさと激情が同居するのは、彼らの血筋に共通するのかもしれない。


「一つ聞くが」


 アウレリウスが言う。古い魔女の気迫に押されず、冷静に。


「貴女の話を聞くに、二人の召喚時期は過去と未来が逆転しているようだ。では、仮にユーリを日本に戻したとして、どの時点に戻る?」


 ユーリははっとして彼を見た。思い詰めていた彼女は、そのことを失念していた。

 アイリが答える。


「お姉さんが日本から消えた直後に。時間のロスはできるだけ少なくなるよう、術式を組んだ。そのほうがご両親も、職場の人も心配せずに済む」


「おかしいだろう。そうなれば貴女はどうなる。ユーリを追ってこちらに来た貴女の存在が、なくなってしまうのでは?」


 そうだ、とユーリは思った。それにアイリはアウレリウスたちの祖先。彼女が最初からいなかったことになれば、彼らも消えてしまうのでは。

 けれどアイリは首を横に振った。


「そうはならない。未来は枝分かれするの。そちらの未来においては、お姉さんはすぐに戻ってきて元通り。『わたし』は何もなかったことになって、以前と同じ生活を送る。でも、こちらの過去にも現在にも影響は出ない。全く別の並行世界として存在するだけ」


「そんな……」


 ユーリは言う。胸が潰れる思いで。


「それじゃあ今のアイリは、何も救われないじゃない! 私が余計なことをしたばかりに、辛い思いをして。日本で幸せに暮す権利があるのは、あなただって同じなのに!」


「余計なことだなんて、言わないで」


 アイリは今度こそ穏やかに微笑んだ。


「わたしね、助けてもらって本当に嬉しかったの。何の関わりもない人だったのに。それなのに、命がけで助けてくれて。

 だからこそ探し出して謝りたかった。わたしのせいでごめんなさい。幸せを奪ってしまって、ごめんなさい。何も力になれなくて、ごめんなさい……ごめんなさい――」


 繰り返し謝罪を口にする彼女は、悲しげに微笑んだまま。それがかえって痛ましかった。


「違う!」


 ユーリは叫ぶ。アウレリウスの手を振り切って、アイリに駆け寄る。


「違うよ、アイリ! 私は今でも幸せなの。そりゃあ最初は大変だったけど、その分やりがいがあったわ。日本の家族や友達には申し訳ないけど、それでもよ。……アイリ、あなたはどうなの? こちらにやって来て、どうだった?」


「それは……」


 ユーリに手を握られて、アイリは困ったように笑った。


「いろいろ、かな。大変だったり辛かったことも多かったけど、それだけじゃなかった。大事な人と結ばれて、子供も産まれて、幸せだった。でも、お姉さんに謝れないのが心残りだった。わたしだけ幸せだなんて、絶対にだめだもの。だからどうしても会って謝りたかった。日本に戻ってほしかった……」


「謝るのはもうじゅうぶん。子供だったあなたを助けるのは、大人として当たり前なの。あれは不幸な事故だったわ。でも私はしぶとく楽しくやってる。それでいいじゃない」


「そう、なの、かな……?」


「そうなの! 本人が言うんだから、間違いないわ。アイリだって幸せだったなら、私は気に病むのをやめる。ごめんなさいは言わないでおく。でも……」


 ユーリはアイリを抱きしめた。今は年若い少女の姿の彼女を。


「でも、ありがとう。こんなに私を気にかけてくれて。五百年も待っていてくれて。ありがとう」


「…………」


 アイリはしばらく黙ったままでいた。ユーリに抱きしめられるまま、力をなくしていた。

 やがて彼女の瞳に涙が盛り上がり、ぱたりと落ちた。涙は後から後からあふれて、ユーリの肩を濡らす。


「許してくれるの?」


「もちろんよ! 最初から許すも許さないもないんだから」


「わたしのせいなのに?」


「違うでしょ。事故だったの」


「探してあげられなかったのに……」


「こうして見つけてくれたじゃない!」


 アイリはそれ以上言葉を見つけられず、ただ涙をこぼす。涙と一緒に、これまでの長い時間を溶かしていくように。

 そんな彼女をユーリはただ抱きしめていた。

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