第106話 底の底
「だいたい、あの魔物――魔王竜って呼ぶ? あれさ、大して強くなかったでしょ。あれは魔力集めが目的だから、戦闘用に作ってないんだって。抑制用に白竜を用意しておいたから、どうとでもなったはずなのに」
「あれが『強くない』だって……?」
アイリの投げやりな言葉にユリウスが呻いている。
彼女はちょっと振り返って、子孫たちを眺めやった。
「なんかさ、五百年前と比べて弱体化してるよね。人間も魔物も」
「そうなの?」
思わずユーリは口を挟んだ。アイリの言い方にどこか含みを感じたからだ。
アイリは困ったようにユーリを見て、また視線を前の方に戻した。
「まあ……魔の森の魔力を集め続けていたから、強い魔物が生まれなくなって、人間も影響を受けたんだと思う」
「それってつまり、アイリのおかげで魔物が弱くなっていたってこと?」
「まあそうなるかな?」
「じゃあアイリのおかげで、今まで魔物の被害が減っていたのよね?」
「うん、まぁ。でも被害を減らすのが第一目標じゃなかったから。あくまで大魔法の魔力集め」
アイリはモゴモゴと答えた。
ユーリの背後でアウレリウスが深い息を吐いた。
「第一目標ではなかった、ということは、相応に見込んではいたのだな。貴女は魔王竜の被害の責任を、ただかぶるつもりだったのか」
「……いくら戦闘用じゃなくても、莫大な魔力量だもの。たとえ白竜がいても、犠牲が出るのは分かってた。他の魔物を弱体化させたところで、チャラにはできないでしょ。特に八年前は、誤作動で目覚めてしまったから」
アイリは下を向いている。そうしていると長い年月を生きた大魔道ではなく、見た目通りの少女のような印象を受けた。
五百年間の被害抑制と、その代わりの一度、二度の大災害。
たとえるならば、ダムの建築である。ダムに関わる治水、防水の恩恵全てと、決壊したときの非常に大きな犠牲。
その是非の判断は誰にもできないだろう。
誰もが無言で階段を下りていく。
穴の壁は魔王竜の血肉がゆっくりと流れ落ちていて、どこか非現実的な雰囲気を漂わせていた。
黒い魔力は下に流れるに従って色を失い、徐々に透明になっていく。
やがて壁に点々と明かりが灯り始めた。目を凝らせば、明かりは文字の形をしている。
「これ……日本語?」
すぐ横の光を目にしてユーリが言った。アイリは答える。
「そう。この世界の魔法はいい加減でね、意志の力に魔力さえ込められていれば、形式は割とどうでもいいの。だから魔法陣に日本語を使っても構わないわけ」
「遺物……」
後ろの方でヴィーが呟いた。アイリが振り返る。
「あぁ、わたしが作った魔道具、そんな呼び方されてるんだね。お姉さんとか、他の地球人に向けてのメッセージを兼ねて、いろいろ日本語を書いたんだ。今考えると、英語のほうがよかったかな」
「わふん」
アイリの腕の中でシロが鳴いた。彼の首輪も遺物の一種。小犬の姿でも白竜の姿でも、首にぴったりとフィットしている。当然だ、シロはアイリの使い魔なのだから。
さらに階段を下る。やがて流れる魔力がほとんど完全な透明になった頃、アイリは言った。
「もうちょっとで底に着くよ」
穴の底は透明な魔力が湖のように溜まっていて、中央に小さな島ができていた。
アイリが島の真ん中に立つと、魔法陣が起動した。日本語とユピテル語で描かれた非常に複雑なものだった。
ユーリには内容が分からないが、それでもシロが使った魔法陣と似た印象を受けた。
アウレリウスも思うところがあったようだ。膝をついて発光する魔法陣を観察している。
シロがアイリの腕から飛び降りた。
アイリは魔法陣を何箇所かチェックして、中央に戻ってきた。
「魔力量はギリギリだけど、何とか起動できる。お姉さん、こっちに来て」
ユーリは一歩を踏み出そうとして、ためらった。
「これは何の魔法なの?」
ユーリの問いかけにアイリは笑顔を浮かべた。得意げでもあり、悲しそうでもある笑みだった。
「転移魔法陣。この世界と地球を繋ぐ、わたしの最後の魔法だよ。これを使えば、お姉さんを日本に帰してあげられる」
日本に帰れる。
その言葉に、ユーリは目の前が白くなっていくのを感じた。
かつてこの国にやって来たばかりの頃は、故郷が恋しくて泣いていた。毎日のように、声を殺して。
年を取った両親に心配をかけて、申し訳無さでいっぱいだった。
友人や職場に迷惑をかけたと思えば、ふさぎ込むことも多かった。帰りたくて仕方がなかった。
でも、今は。
やるべき仕事があり、取るべき責任が生まれた。カレーと石けんの事業はまだまだ途上で、雇っている子供たちの暮らしの面倒を見なくてはならない。
大事な人も増えた。友人たちと、そしてアウレリウス。一生を共にすると誓った人。
今はもう帰りたくない。帰ってしまえば今度こそ、二度と戻れなくなる。
けれどユーリは言えなかった。アイリの境遇を知ってしまったから。
善意のつもりで助けたアイリは、過剰なほどの責任を感じてユーリを探し続けた。
十代の女の子が、進学を捨てて実家を飛び出して。そうしてとうとうこの世界にやって来て、五百年もの年月を待っていてくれた。
(余計なお世話だったのかな)
ユーリは思う。あのときアイリを助けなければ、こんなことにはならなかった。
結局アイリはこの世界に来て、ユーリのために魔王竜を生み出して、その結果アウレリウスとユリウスの父が死んでしまったのだから。
どこから因果がねじれたのか、彼女にはもう分からなかった。
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