第92話 秋から冬へ
「ユーリ。きみは今や、この町になくてはならない人。ヤヌスの英雄である出自はもちろん、たった一人の女性がこれだけのことをやり遂げたと知られれば、みなが競ってきみを求めるだろう」
アウレリウスが言って、少し目を伏せた。
「私は以前、きみを守ると言ったな。けれどあれは、手放したくないがための方便でもあった。告白する勇気もないくせに、独占欲ばかりが暴走していたんだ。
私は卑劣な男だ。それでも好きだと言ってくれるだろうか?」
不安に揺れる紫の目を見上げながら、ユーリは言う。きっぱりと。
「もちろんです。私はあなたのそばにいたい。独占してくれるなら、私も嬉しいです」
「……っ、ユーリ、愛している」
アウレリウスは思わず彼女を抱きしめた。細い体の輪郭を感じ取って、愛おしさがあふれてくる。
ユーリの腕がおずおずと彼の背に回される。その感触は、彼の心にこれ以上ないほどの幸福感をもたらした。
「アウレリウス様」
愛しい彼女が名を呼んでいる。でも彼は、少しだけ不満だった。
「どうか呼び捨てにしてくれ。きみとの間に何も壁は作りたくない」
「うん……アウレリウス」
ささやくように呼ばれた名前。愛情のこもった響き。
唇からこぼれた言葉をすくい上げるように、口づけが交わされる。ごく軽く、ついばむように。互いを確かめ合うように。
ここはアウレリウスの仕事場で、もうすぐ始業の時間がやって来る。それは二人とも分かっている。
だからせめて短い間、恋人たちはぬくもりを求めて抱き合っていた。
秋はどんどん深まって、やがて冬の始まりがやって来た。
十一月も下旬となれば、北国のブリタニカでは初雪の季節となる。やがて本格的な雪が降って、春になるまでこの地は雪に閉ざされるだろう。
マンドラゴラとスパイス類の畑は今年の役目を終えた。
スパイス類は種まきが遅かった割には、悪くない量が収穫できた。
周辺の農村でもカレー用スパイスは栽培されて、それなりの量を確保できている。当面の間は問題ないだろう。
畑の各種マンドラゴラは初雪の少し前に休眠状態に入って、引き抜いても反応がなくなってしまった。
とはいえこれらは魔物である。万が一を考えて、収穫できなかったものは全て処分をした。
例外はじゃがいものマンドラゴラで、これは種芋として箱に入れて、兵士詰め所でしっかりと監視をしている。来年春になったら、再び畑に植える予定だ。
雪が積もり始めると、冒険者たちが魔の森へ狩りに出る時間が減る。
そのためユーリのカレー食堂は規模を縮小して営業している。魔物肉の調達元が減少するのと、客足そのものが控えめになるためだ。
浮いた時間を利用して、ユーリは子供たちに読み書きと計算を教えていた。
ファルトを始め、頭の良い子が何人かいる。彼らには将来帳簿付けや、引いてはカレー食堂や石けん事業の経営を任せてもいいかもしれないとユーリは考えていた。
属州総督の娘との縁談を断ったアウレリウスだが、悪影響はさほど出ていない。
丁重に断るのと同時に、謝罪代わりと称して石けんの製法と販路を一つ総督側に任せたのである。
北のカムロドゥヌムの町を拠点とするアウレリウスと違い、属州総督は大陸との玄関口であるロンディニウムを治めている。
種々の植物油などの材料調達が容易で、しかも大陸本土へ輸出もたやすい。
大きな利権を得た総督は喜んで、アウレリウスとドリファ軍団への干渉の手を緩めた。――その裏にあるユーリの存在には気づかないまま。
「属州総督の件は、ほっとしました」
アウレリウスの生家、グラシアス家の屋敷でくつろぎながら、ユーリが言う。
彼女は内々ながらアウレリウスの婚約者として認められて、今では屋敷に出入りしている。
アウレリウスの母ルチアと一悶着はあったが、ユーリがヤヌスの英雄と知るとルチアは引き下がった。
グラシアス家はやはりヤヌスの英雄、大魔道アイリを始祖に戴く家系。彼らにとってヤヌスの英雄とは特別の存在なのだ。
アウレリウスは恋人の肩を抱いて苦笑した。
「ユーリ。また丁寧語で喋っているぞ」
「あっ。ごめん、ついクセで」
アウレリウスに注意されて、ユーリは慌てて口を押さえた。様付けで呼ぶのも丁寧語で喋るのも、なかなかクセが抜けなくて苦労している。
もっともプレイベートな場以外では、口調は今まで通りだ。公私の区別はつけるべきだとユーリは考えている。
テーブルの上にはお茶のポットがある。ポットは保温プレートに載せられて、温かさを保っていた。
プレートは琥珀に赤の縞が入った美しい素材。アウレリウスが腕によりをかけて作った魔道具だった。
「あとは、日本刀の完成がいつ頃になるかしら?」
気になっていたことを聞けば、アウレリウスはうなずいた。
「そろそろ玉鋼を使った製作に着手できそうだ。三万層におよぶ鋼の重なりも、魔力を全て行き渡らせる目処は立っている。ヤヌスの英雄、オサフネの名にふさわしい名刀になるだろう。全てユーリのおかげだ」
「いいえ、私は知識を伝えただけだもの。鍛冶師のみなさんと、ユリウスと、アウレリウスのおかげよ。特にユリウスは鍛冶場に通い詰めだったよね」
「……ユーリ」
アウレリウスが少し低い声で言う。
「私と二人でいるときは、従弟の名を呼ばないでくれ。情けない話だが、未だに
「えぇ、そう言われても。彼にはたくさん助けてもらったもの」
「それを含めて……、まあ、いい。ユーリは危なっかしいからな。よく気をつけていないと」
アウレリウスは言いかけてため息をついた。金の髪をかき上げて、反対の手でユーリを抱き寄せる。
「ふふ。じゃあ、私の手をしっかり取って離さないでね」
ユーリは笑いながら、こんな冗談を言い合える幸せを噛みしめていた。
なにかを間違えば、こんな未来はなかったかもしれなかった。
そもそも異世界転移に巻き込まれなければ、彼と出会うことすらなかったのだから。
この幸せができるだけ長く続くようにと、ユーリは心から願っている。
初冬の風は冷たくとも、二人の間を流れる空気は暖かく幸福に包まれていた。
+++
これにて第四章は終了です。次章は最終章。
あれこれに決着をつけて伏線を回収した上で終わらせる予定です。
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