第90話 失恋と決意と


「それだけは、諦めるとは言えない」


 ユリウスはユーリの手を握りしめる。


「けれどたまに思うんだ。八年前に姿を消して以来、あいつは足跡さえ見せない。このまま長い年月が流れて、僕が年老いて剣を持てないほどになるか、もしくは寿命で死んだ後にあいつがまた出てきたら。僕にはどうしようもないと。

 だから、今のあなたを諦める理由にはならないんだよ。ユーリ」


 ユーリは黙ったままでいる。手を握り返すことはせず、目を伏せて。

 涙はもう出ていないけれど、睫毛が瞳に影を落とし続けている。

 それからしばらく静寂が流れて、彼女は言った。呟くような声だった。


「……ごめんね。やっぱりユリウスの想いに応えられそうにない。それでもあの人が好きなの」


「気が変わるのを気長に待つよ。二人きりが気まずいなら、ロビンとヴィーに付き合ってもらおう。あいつらこそ、この町に何の思い入れもないからね」


「……ごめん」


 ユリウスはもう一度彼女の手をぎゅっと握った。


「どうしても?」


 こくりとうなずいた彼女に、彼は息を詰まらせた。

 そのまますがるように手を握り続けて、それでも応えはなくて、ようやく。

 ユリウスは無理矢理に笑ってみせた。


「あーあ、ふられちゃったよ! 一世一代の告白だったのに。ユーリは頑固者だ。アウレリウスとお似合いさ!」


 そう言って、ユーリの顎に手をかけて――頬にキスをした。


「なっ……」


 不意打ちをされてユーリが真っ赤になる。


「これで諦めておくね、今回は」


 頬を押さえているユーリにウィンク一つ。


「明日、我が従兄殿にどういうつもりか話を聞きに行こうじゃないか。ユーリはしっかり問い詰めるといいよ。彼がそれでもバカを言うようなら、僕がユーリをさらってあげる。無理矢理にでも」


「ちょ、ちょっと待って。話が急すぎるわ」


 ユーリは焦って言うが。


「ユーリを何日も悲しませたままでいられるわけない。こういうのはさっさと決着をつけた方がいいんだ。今夜はここで寝ていいよ。心配しなくても、僕は外に出てるから」


「そんなわけには――」


 ユーリの制止の声を振り切って、ユリウスはさっさと部屋を出た。

 そしてドアを閉めるなり、立ち止まって。

 壁に背をつけたまま、彼はずるずると床にへたり込む。

 立ち上がる力をなくしてしまって、彼は思った。


(失恋、きつすぎるだろ……)


 指先で唇に触れる。彼女の頬に押し付けた場所を。

 その熱も欲も全て押し留めて、もう二度と彼女に見せてはならない。

 それでもなお彼は彼女に恋していた。だから力になろうと思った。

 まだ割り切ることはできない。けれど決めたのだ。決めたからにはやり通すのが、ユリウスの流儀だった。


(でも、今夜くらいは)


 背後にいる彼女を思いながら、手に入らなかった温もりを想いながら。

 ただ、彼女の幸せを願う。

 背に感じる壁の向こうを思いやって、ユリウスはドアの前に夜通し座っていた……。







 翌朝。ユリウスが宿屋の部屋に入ると、ユーリは昨日とほとんど変わらない姿勢でベッドに腰掛けていた。


「おはよう。昨日は少しでも眠れた?」


 彼の問いにユーリは軽く首を振る。


「明け方に少しウトウトしたくらい。でも、おかげでいっぱい考えて決心がついたわ」


「よし。じゃあ、アウレリウスのところに行こうか。一緒に行くよ」


「そこまでユリウスを頼るわけにはいかない。一人で行ける」


 彼女の返答にユリウスは苦笑した。


「ユーリの気持ちは立派だけど、この国の貴族の常識とか、あなたは知らないだろ? そんなつまらないところで行き違いがあったら、嫌だからね。途中までは僕がサポートするよ」


「……そう、ね。何もかも甘えてしまって、ごめんなさい」


 ユーリが目を伏せたので、ユリウスは明るく笑ってみせた。


「僕がやりたくてやっていることだ。さて、行こうか」


 そうして彼らは連れ立って朝の町を歩いていく。

 人々の賑やかな往来の中で、ユーリは心を新たにした。


(カムロドゥヌムの町は、これだけ人が集まって賑やかになった。カレーと石けんの事業は、これからもみんなの役に立つと思う。だから私は、あの人の答えがどうであっても、この町に残って仕事を続けるわ。一度引き受けたのだから、子供たちの面倒をきちんと見なければ。いつか私がいなくなっても、全てがうまく回るようになるまで)


 朝日が照らす道の先に、ドリファ軍団の駐屯地が見える。

 ユーリは足に力を入れて歩き続けた。

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