第89話 何もかも諦める
ユーリはふらふらと、夕暮れの町を歩いていく。
こんなときに限ってシロはお出かけ中で、彼女はたった一人で歩いている。
「アウレリウス様が、婚約。結婚……」
小さく声に出して呟いて、胸が締め付けられるのを感じた。
結局、片思いだった。
気持ちが通じ合っていると感じたのは、錯覚だった。
異世界人だから。貴族ではないから。立場が違いすぎた。
恋人同士ですらないのに。恋人であっても別れることは多いのに。
当たり前なのに、受け入れられない。
自分で自分の子供っぽさが嫌になる。
(立場上の好意に甘えて、夢を見てしまって。本当に情けない)
いろいろな想いがぐるぐると渦を巻くように、浮かんでは消える。
ユーリの目は開いていたけれど、ほとんど何も映してはいない。
人々で賑わう街路を歩いて、そして――
「ユーリ? こんなところで何をやっているんだい? そっちはもう、町の外になっちゃうよ」
ユリウスが声を掛けてきた。彼女はぼんやりと目を上げる。
「……ユリウス。どうしてここに」
「どうしてと言われても。魔力精錬の試作で魔力を使い果たしたから、今日はもう宿に帰ろうと思っただけだよ」
ユリウスの言葉も、ユーリはふわふわとして聞き取れないでいた。
「ユーリ、大丈夫かい? 冒険者ギルドまで送るよ」
「冒険者ギルド……」
ユーリの胸にずきりと痛みが走った。食堂ではまだ婚約の話題が出ているだろうか。そんな中に帰って、平静を保てるだろうか。
「……ごめん。今は帰りたくない」
うつむいた瞳から涙が一粒、ぽろりとこぼれてしまった。ずっと我慢していたのに。
「分かった。じゃあ、ちょっと付き合って」
ユリウスはうなずいて、彼女の手を取って歩き始めた。
ユリウスはユーリを連れて、彼が寝泊まりしている宿屋にやって来た。
その間、ユーリはずっと下を向いて無言だった。
ユリウスは最初、一階の酒場に席を取ろうとしたが、あいにく満席。
「やれやれ、最近は本当に人が増えたね」
そう言って、彼はユーリを自分の部屋に連れてきた。ベッドと小さなテーブルセットがあるだけの質素な部屋である。
「ベッドにでも座って。別におかしなことをするつもりはないから、安心していいよ」
ユリウスの言葉にも、ユーリは微かに笑ってみせただけ。
いつもなら「そういうのはやめて」と言うのに、これは重症だなと彼は思った。
「話を聞かせてくれるかい。無理にとは言わないけれど」
ユーリはそれでも口を閉ざしていたが、やがてやっと言った。
「アウレリウス様が、婚約すると聞いたの。相手は属州総督の娘ですって」
「あぁ……なるほど」
ユリウスはおおむねの事情を察した。彼とて生まれは貴族である。政治家としての才能はないと自分で見切りはつけたが、その程度の推察ならできる。
(縁談は妥当なところだね。最近はドリファ軍団と属州総督とで綱引きが激しくなっていたみたいだから。ユーリの功績が原因で、トドメが地炎獣の討伐。ついでに僕の新しい『カタナ』)
内心の考えは表に出さず、ユリウスは問いかける。
「婚約の話は、誰に聞いた?」
「食堂に来ていた商人から」
「それならただの噂話だね。アウレリウスに確かめたわけではないんだろう?」
「それは、そうだけど」
ユーリの目にわずかな希望の光が灯って、すぐに消えた。
「……私、場違いだなって思ったの」
少しの間をあけて、彼女はぽつりとそんなことを言った。
「私は異世界人で、雑学にちょっと詳しいだけの一般人。私なりに一生懸命仕事をしたけれど、どこまで役に立ったかしら。だから、あの人のそばにいる資格はないんじゃないかって」
「まさか、何を言っているのやら。ユーリが来てからこの町がどれほど変わったと思う?」
ユリウスはわざと明るい口調で言ったが、彼女はうつむいたままだった。
彼は続ける。
「アウレリウスもね。昔はもっと頭が固くて、絵に描いたような朴念仁だったよ。それがあんなにユーリを気にかけているんだ。僕、びっくりしたよ。彼は変わったんだ。ユーリが変えたのさ」
「たとえそれが本当でも」
言いながら、ユーリは寂しく笑った。ユリウスの胸が痛くなるような笑みだった。
「ずっと一緒にいられないのは、今日の話で身にしみたわ。婚約とか、結婚とかの話になってしまえば、私は出る幕がない。私は貴族ではないし、過去のヤヌスの英雄のように特別な才能があるわけでもない。立場の違いを考えたら、あぁ、無理だなって実感したの」
「……それなら」
ユリウスが言う。先ほどとは打って変わった低い声で。
「僕と一緒にこの町を出よう。あなただけに生涯、忠実でいると誓うよ。立場に縛られたアウレリウスのことなんか忘れて、僕を選んでくれ。そうすれば、悲しい思いなんて絶対にさせない」
「――本気で言ってる?」
「まだそんなこと言うの? どうすれば本気だと分かってくれるんだ」
ユリウスはユーリの前に跪いて、右手を取った。びくりとする彼女を押さえつけるように手に力を込めて、指先に、次いで指の付け根に口づける。
彼の身のうちに火で炙るような熱が生まれる。熱情と欲とが渦巻いて、彼のムーンストーンのような瞳を内側から照らしていた。
「僕に立場なんかない。どこへだって行けるよ。旅を続けていれば、誰もあなたが異世界人だなんて気にしない。ねえ、そうしよう。ユーリ」
「……あの人と仲直りできて、あんなに喜んでいたのに?」
彼の手を振りほどくのを諦めて、ユーリの体から力が抜ける。
「仕方ないことだ。今となっては、ユーリの方が大事だから」
「日本刀の完成もまだなのに」
「諦めはつくよ。今の剣だってじゅうぶんに名剣だからね」
惜しいと思う気持ちはあるが、天秤に載せるものではない。
「――魔王竜を殺すのは、諦められるの?」
ユリウスは答えない。その悲願だけは、簡単に諦めると言えなかった。
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