第四章 秋の季節と移り変わる日々
第79話 お掃除問題
八月が過ぎて九月に入れば、北国のブリタニカ属州は秋の色に染まる。
季節が移り変わっても、ユーリは毎日を忙しく過ごしていた。
子供たちを雇ってのカレー事業は、軌道に乗ってきた。
最近は手洗いもすっかり習慣化して、合言葉は「手を洗った?」「石けんで洗った!」である。
使い終わった鍋や食器も石けんできちんと洗うので、この夏は腹痛が少なかったとみなが言う。
ただし、清潔と食中毒、イコール腹痛の因果関係をきちんと理解しているのはユーリだけ。あとはアウレリウスが辛うじて知識を頭に入れた程度だった。
浴場の石けんも定着した。
ただ、この件は一つの問題を産んでしまった。
「最近、
ユーリは浴場技士から相談を受けて、実際にその場所に行ってみた。アウレリウスにも相談済みである。
技士に言われて排水管を見てみると、石けんのカスが厚く付着していた。
「もともと浴場の下水は、石灰がよく溜まるんですけどね」
と、技士。
ユーリは思う。
(ブリタニカ属州の山はそんなに高くないし、この辺りの水は硬水なのね)
ミネラル分を多く含む硬水は、硬水と呼ばれる。
日本のように山が険しく花崗岩が多い地形では、ミネラル分の少ない軟水になる。
硬水は食糧以外でもミネラル類を摂取できるという利点がある一方で、石灰――カルシウムなどを多量に含む。
石灰は水が蒸発した後に残る、白っぽい粉状の物質だ。日本では学校の校庭で線引などにも使われる、アレ。
石灰は一度乾燥した後にもう一度水と混ぜると、セメントのように固く固まってしまう。定期的な除去をしないと水道管が詰まってしまうのだ。
石灰汚れはユピテル帝国の浴場文化と切っても切り離せない関係にあった。
そこにさらに石けんカス汚れが加わって、浴場技士や掃除係の奴隷が困っているのだった。
「石灰も石けんカスもアルカリ性の汚れ。ということは、酸性の洗剤を作れば落とせるはずよ」
「さんせい? あるかりせい?」
ユーリが言った独り言に、浴場技士が首をかしげている。
「クエン酸があれば、一発なのに。さすがにクエン酸そのものの作り方は、私の雑学を超えるわ。確かサツマイモや穀物を特殊な酵母で発酵させるのよね。うん、ちょっと無理」
ユーリはさらに考える。
酸性といえば、石けんで洗った髪の仕上げにレモンや柑橘類を使っている。
けれどそれらのフルーツは、掃除に使うには高価過ぎる。
そのようなことをユーリは呟いて、技士は不思議そうな顔をしていた。
「……あ! そうだ」
身近なものを一つ思いついて、ユーリは声を上げた。
「酢を使ってみましょう。ユピテルはワインの国だから、ワインビネガーがたくさんありますよね」
「酢ですか? ええ、もちろんありますよ。質の悪いワインなどは、放置しているとすぐに酸っぱくなってしまうから」
浴場技士は酢を奴隷に持ってこさせた。一抱えほどの壺に入っている。ユーリがふたをあけて匂いを嗅いでみると、なるほど確かにあまり質の良くない酢の臭いがした。
「酢が石灰と石けんカス落としになるのですか?」
「やってみましょう」
ユーリと技士は排水管に酢をふりかけて、少し待つ。それから木のへらでゴシゴシとこすると、ごっそりと汚れが取れた。
「おお、頑固な石灰汚れがこんなに簡単に!」
技士は喜んでいるが、ユーリは思案顔だ。
「思ったより効果が強いかも……。お湯で割って使った方が、排水管を傷めないと思う」
「分かりました。様子を見ながら掃除します」
奴隷たちの手を借りながら、ユーリと技士は酢の濃度をあれこれと試してみた。
まだまだ最適とはいえないが、とりあえず様子は分かってきた。
「ふう……。とりあえず、解決の道が見えてよかった」
ユーリが額の汗をぬぐうと、浴場技士は嬉しそうにうなずいた。
「こんなに早く解決できるとは、ユーリさんに相談してよかった。ところで、この酢ですが」
「はい」
「ユーリさんのおっしゃりようですと、ご婦人方の髪の手入れに使う果物と同じ効果があるとか?」
浴場技士はユーリの呟きもしっかりと聞いていたようだ。
「そうですね。濃度の調整は必要だけど、石けんで洗った髪がキシキシするのは防げるかと」
「では、酢も売り出せばよいのでは?」
「えっ? でも、この臭いですよ。ツンとして嫌でしょう」
「それでも髪が滑らかになるなら、ご婦人方は使いたがると思いますよ。なんなら男性も」
「そうですか……?」
ユーリは二十一世紀を生きてきた日本人である。高性能な美容用品をたくさん知っている。
ユピテル帝国の文明度にかなり我慢してきたし、慣れてきたことも多かったが、このいかにも『酢』を体の手入れに使うのは抵抗があった。それで髪の手入れに使うのを失念していたのだ。
「まあ、需要があるのなら売ってみましょう」
酢は安い。何せ大量に作られているワインが、保存方法を間違えばすぐに酢になってしまう。酢は奴隷のワインなどと呼ばれるくらいだ。
「酢はどこにでもありますから、みな、自分の家のを使うかもしれませんな」
浴場技士はそんなことを言って笑った。それでも浴場に置いておけば、それなりに売れるだろう。なかなか商魂たくましい。
話に区切りがついて、ユーリも笑顔で手を振った。
「では、私はこれで失礼しますね。後の掃除をよろしくお願いします」
「はい。アウレリウス様によろしくお伝え下さい」
ユーリは浴場技士に挨拶をして、アウレリウスに報告すべく浴場を後にした。
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