第68話 どろり石けん


「トマス、他のみんなもありがとう。あまり根を詰めないで、なるべく町にも帰ってきてね」


 トマスら栽培係たちは現在、ウルピウスの防壁の兵士詰め所に混じって寝泊まりしている。

 トマスは笑顔で答えた。


「ええ、もちろんですとも。でも、ここの暮らしも悪くないんです。飯はうまいし、兵士さんたちも良い人だ。ま、妻のベラが寂しがるんでなるべく帰りますよ」


 他の冒険者たちも笑っている。

 ドリファ軍団の食事は週に一度カレーが取り入れられるようになった。ユーリと子供たち作のルーを納品している。

 人気のメニューで、兵士たちはみなカレー曜日を楽しみにしている。冒険者よりはだいぶマシとはいえ、兵士たちも豊かとは言えない暮らしなのだ。

 ユーリとシロは一通りマンドラゴラの畑を見せてもらって、帰路についた。


「ユーリさんは、いい女だよなあ」


 トマスが言って、他の冒険者に小突かれている。


「おい、トマス。お前は嫁さんがいるだろうが」


「そういう意味じゃねえって! 魔物肉のカレーを作ったり、マンドラゴラの畑を作ったりして、いつだって新しいことに挑戦してる。それで俺は苦手な狩りじゃなくて、畑で暮らしていけるようになった。あの人が来てから、いろんなことが変わったよ」


「あぁ、そうだなあ」


 冒険者はうなずいた。


「冒険者ギルドも、前はギスギスしてたのにな。今じゃ気軽に相談に乗ってくれて、俺らの話も聞いてくれる。素材の買い取りや金の支払いもしっかりやってくれる。ユーリさんが来てからだろ、これ」


 そうだ、そうだとみなで言い合う。


「不思議な人だよなあ。アウレリウス様が連れてきたって聞いたが……」


 トマスが言って、塩と果汁入りの水を一口飲んだ。これもユーリのアドバイスで、これを飲むようになってから暑さでめまいを起こしたり倒れたりするのが格段に減った。

 ユーリの姿はウルピウスの防壁の向こうに消えて、もう見えない。

 けれど冒険者たちは、明るく変わっていく未来が町の空に広がっているような気がするのだった。








 ユーリは石けん作りを決意した。

 仮にも食べ物に関わる仕事をしているわけだし、子供たちの健康を預かっている。

 衛生の概念がほとんどないこの国において、石けんの普及は病気の発生を抑えてくれるだろう。

 忙しいのは変わらないが、マンドラゴラ栽培はひとまずユーリの手を離れた。時間の捻出はできる。


「石けんを作るには、油と苛性ソーダ。苛性ソーダはないから、なるべく強いアルカリ性の灰を探さないといけないわね」


 ユーリはとりあえず試してみることにした。

 子供たちのカレー作りの傍ら、鍋で魔物肉の脂を煮る。レッドボアというイノシシの魔物は脂がとても多いので、その肉を利用した。脂がたっぷりついた肉の脂をこそげ落とし、適当な大きさに切って鍋で煮込む。


「ユーリ姐さん、今度はなにやってんの?」


 脂をぐつぐつと煮ていると、ファルトがやって来た。彼はユーリの行動にずいぶん慣れたようで、また新しいことに挑戦していると見抜いたのだ。


「石けんを作ろうと思って」


「石けんってなに?」


「洗剤みたいなものよ。汚れがよく落ちるの。さすがに洗濯屋さんの洗剤で鍋やお皿を洗うわけにはいかないからね」


「ふうん?」


 ファルトはピンとこない様子だが、それでも作業を手伝ってくれた。

 脂を煮ている鍋は、ひどい臭いである。カレーの香りと混ざって、ユーリとファルトそれにシロは咳き込みながら作業を続けた。

 しばらく煮出して脂が浮いてきたので、肉を取り除き、煮汁を布で濾した。黄色っぽい液体である。


 脂の煮汁の粗熱を取って、灰を混ぜた。灰は薪を燃やした後のもの。カレーを毎日作っているので、灰はたくさん出るのだ。

 少しずつ様子を見ながら混ぜていったが、あまり固まってこない。混ぜる量や時間が足りないのかと、ユーリとファルトは交代で混ぜてみたが、いまひとつだった。


「本当はもう少し粘り気が出るのだけど。まあ、次に進みましょう」


 混ぜるのはほどほどで諦めて、四角い木箱に入れた。今日はこれで終わりである。

 翌日、様子を見てみると、脂の煮汁――石けんのモトはどろっとしていた。

 さらに数日経過しても、やはり固まる気配がなかった。


「手作りの石けんは、一ヶ月くらい熟成と乾燥をさせるけど。それにしたって、これは固まらなさすぎだわ」


 ユーリが腕を組んでいると、ファルトが言った。


「失敗しちゃった?」


「そうね……。乾燥時間が足りないのか、それとも普通の灰じゃアルカリ性が弱いのか」


「これじゃ洗剤の代わりにならないの?」


「ちょっと試してみましょうか」


 どろりとした石けんもどきを少し手に取り、水で泡立ててみる。泡立ちはかなり悪かったが、それでも多少の泡になった。シロが不思議そうに泡に鼻先を近づける。

 カレーの皿を洗ってみると、水洗いよりは汚れがよく落ちる。


「お、すげー汚れ落ち! いいんじゃね?」


 ファルトは喜んだが、ユーリは不満顔だ。


「ダメね。こんなにどろっとしていては、持ち運びが大変でしょう。泡立ちも汚れ落としも私が思っていたよりずっと悪いわ。もっと工夫しなければ」


「ユーリ姐さんは理想が高すぎなんじゃない?」


「どうせ作るなら、できるだけいいものを作りたいだけよ」


 ユーリは考える。工業的な手法に頼らないで、できるだけアルカリ性の強いものを調達できないだろうか?

 魔の森の植物をいろいろ採ってきて、燃やして灰にしてみるといいかもしれない。とはいえ採集は危険が伴う上に、どの植物を採ってきたのかきちんと記録しておかなければならない。それなりに手間がかかる。


「あ、そうだ」


 ユーリは一つ思い出した。

 ワカメやコンブといった海藻類は、もともとがアルカリ性だ。灰にすればさらにアルカリ性が高まるだろう。

 海藻類はナトリウムを含んでいる。ならば水酸化ナトリウム――苛性ソーダに似た働きを期待できるかもしれない。


「ファルト。私、海に行くわ」


「へ?」


 突然の宣言にファルトとシロが目を丸くしている。

 けれどユーリの決意は揺るがない。彼女の頭の中では、さっそく海行きの計画が立てられ始めた。

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