第50話 くしゃみの木


 朝、ユーリは胸の圧迫感とともに目が覚めた。見れば仰向けになった寝袋の上にポメラニアンが寝そべっている。

 その寝顔は無邪気な小犬そのもので、起こすのに罪悪感を抱くほどだった。

 とはいえ、いつまでもそのままにはしておけない。


「ほら、お前。起きて」


 ユーリが寝袋の中で体を揺らすと、ポメラニアンはずり落ちた。頭から落ちて「クゥン……」と鳴いている。

 ユーリは苦笑しながら寝袋を出た。さっそく小犬がまとわりついてくる。

 テントを出る。ユリウスたちは既に起きていて、ロビンが朝ご飯の麦粥を作っていた。朝だから干し肉はなしの、本当に麦だけのそっけないおかゆだった。


「おはよう、みんな」


「おはよう。ユーリ」


 ユリウスの笑顔はいつもどおりに見えるが、ポメラニアンにやる視線は鋭かった。

 朝日の明るい中で見る小犬は、真っ白なポメラニアンそのものである。まんまるでふわふわの頭と体。ちょっと尖った鼻。つぶらで黒い瞳。ちょこちょこ動く手足。サイズ感も日本のポメラニアンと同じくらいだった。

 陽光の中、ユーリはもう一度赤い首輪を確かめる。文字は――、かすれていて読めなかった。昨日の感覚は錯覚だったのだろうと思った。


 小犬は食事の間もユーリにぴったりと寄り添っていた。


「お前も食べる?」


 ユーリは麦粥をほんの少し指先に乗せて、小犬の鼻先に持っていく。小犬はふんふんと匂いを嗅いでぺろりと舐めた。そして顔をしかめる。


「魔物にも分かるまずさかぁ。へこむなあ」


 ロビンがため息をついている。ヴィーが首を振った。


「別に、ロビンのせいじゃない。この材料で麦粥を作ったら、誰でもこの味になる」


「そうよねぇ……」


 ユーリも麦粥を持て余し気味だ。お粥は具が入っていない上に味付けが薄い。けれど食べなければ体力が保たない。頑張って流し込むようにして食べた。

 食事を終えて焚き火を消し、テントを片付ける。荷物は畳んでロバに振り分けて乗せた。

 ロバは小犬を見ても驚かなかった。魔物であるはずなのだが、敵意がないせいかもしれない。

 出発をしたら、なんと小犬がついてきた。ユリウスが鞘のままの剣を振って追い払っても、諦めずに後を追ってくる。


「困ったわね」


「ワン!」


 ユーリがポメラニアンに向かってかがみ込むと、彼(?)は一声鳴いてテテテッと走り出した。

 少し進んだ先で振り返り、尻尾を振っている。


「ついてこいってこと?」


 ユーリが言うと、ユリウスが制止した。


「危険な場所に誘い込む気かもしれない。放置して行こう」


「そうよね……」


「わふん!」


 ところが、ポメラニアンはユーリの足元まで戻ってきてぐるぐる回り、また少し向こうまで行って尻尾を振った。


「どうしても来てほしいみたい。一応ついていってみて、危険がありそうだったらすぐに引き返すのはどう?」


「……ユーリがそう言うのなら。ロビン、念入りな索敵を頼む」


 ユリウスが平坦な声で答えた。ロビンは覚悟を決めたようにうなずいた。


「わたしも、魔力感知を張り巡らせておく」


 と、ヴィー。

 そうして彼らは進み始めた。







 ポメラニアンは森の中をトコトコと歩いていく。下草の生い茂る獣道もすいすいと進む。あんなにふわふわな毛玉なのに、枝に引っかかることも汚れることもない。

 小犬に先導されること三十分ほど。やがて小犬は足を止めた。


「……むっ。あれは」


 ロビンが前方を見て警戒している。

 それは、大きな木だった。樹高は十メートルを遥かに超え、二十メートルに達しているかもしれない。広がった枝に、奇妙な形の果実らしきものをたくさんぶら下げていた。赤や緑色の細長い形である。


「くしゃみの木だ。近づくと赤い実を投げつけてくる。実は人にぶつかると弾ける。すごい刺激臭で、涙とくしゃみが止まらなくなるんだ」


 それ以上進まないようにね、とロビンは続けた。


(でも、あれ……)


 ユーリは思う。枝からぶら下がっているのは――どう見ても唐辛子だった。

 真っ赤なとんがり形に緑の帽子。そういえば、樹木自体も唐辛子の木を巨大化して頑丈にしたような印象だ。


「わふん、わん!」


 ポメラニアンが得意そうに胸を張っている。


「……まさか、お前。カレー作りを知っていて、材料を教えてくれたの?」


 唐辛子、別名カイエンペッパーはカレーの辛味調節に最適なスパイスである。地球では新大陸の原産だ。

 町の市場では全く見かけなかったので、諦めていたのだが。


「…………」


 みな、黙って小犬を見た。当のポメラニアンは小首をかしげている。

 小犬はしばらく人間たちを見回して、誰も動かないのを感じたのか、そろそろと唐辛子の木に近づき始めた。


 ――ヒュン!


 小犬の接近を感じ取った唐辛子の木は、枝をしならせた。赤く色づいた唐辛子が二つばかり飛んでくる。

 ポメラニアンは慌てて後ろに下がった。唐辛子は地面に衝突して、ぶわっ! と真っ赤な煙を立たせる。

 漂ってきた赤い煙に、小犬はふんふんと鼻を向けて。


「ふえっくしょい! くしょん、くしょん!」


 何度もくしゃみをした。前足で鼻をこすっている。

 ユーリは慌てて小犬のそばに膝をつき、水筒の水を少し出して鼻先を洗ってやった。

 やっと落ち着いたポメラニアンが、きゅぅ……と鳴きながらうるんだ瞳でユーリを見上げている。どうやら感謝しているようだ。


「この子がどういう考えで、私たちを連れてきたのか分からないけど」


 ユーリは言った。


「あの唐辛子――赤い実のことよ――は、カレーにぜひ欲しいスパイスだわ。なんとかして収穫できないかしら」

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