第49話 白い小犬
「ワン! キャン!」
白いポメラニアンはユーリをのぞき込んで、実に嬉しそうにしている。綿毛のような体をこすりつけ、ユーリの顔をぺろぺろ舐めた。
「わ、ちょっと、やめて!」
くすぐったくて、ユーリは首を縮めた。するとポメラニアンはズボッと寝袋に入ってくる。ユーリの胸元で体を一回転させて、自分も頭を出した。
「……ユーリ? どうしたの……?」
すぐ隣で声がする。やはり寝袋で寝ていた魔法使いのヴィーだ。寝ぼけたような声だが、彼女は昼間もそんな感じだった。
ポメラニアンが顔の近くにいるせいで、ユーリはくすぐったくて仕方がない。でも頑張って言ってみた。
「ヴィー、大変。変な生き物が入ってきたわ」
「えぇ?」
ヴィーが起き上がる気配がした。魔道具のランプが灯されて、明るくなる。
「…………」
ヴィーはポメラニアンの首根っこをつかんで寝袋から引き抜いた。「キャン!」と抗議の声が上がる。
「ユリウス! ロビン!」
ヴィーが呼ぶと、テントの外から二人が顔をのぞかせた。
「どうした?」
「見たことのない魔物がいる」
「なんだって!?」
ユリウスがテントに入ってきてポメラニアンを捕まえる。
「本当だ。なんだ、これは。新種の魔物かな?」
「うん。犬に似ているけれど、犬じゃない。魔物だよ」
ロビンも答える。魔物かどうかは魔力のあるなしで判別できると彼らは言った。
「ユーリ、怪我はないかい? 何もされていない?」
「大丈夫。急に現れて顔を舐められたくらい」
「それは大変だ」
ユリウスは冗談めかした口調だが、目が笑っていなかった。ポメラニアンをしっかりつかんでテントを出る。
「僕たちが見張っていたというのに、怖い思いをさせてしまったね。こいつは始末しておくよ」
「ヒャン!?」
ポメラニアンが悲鳴を上げた。ユーリは慌てて寝袋を出る。
「ちょっと待って! その子、敵意はないみたいなの。殺さなくてもいいと思う」
「ダメだよ。魔物だもの、いつ牙をむいて襲ってくるか分からない。小さく見えて、高い能力をもつものもいる。見過ごせない」
テントの外の夜の森。焚き火の炎を前にして、ユリウスは剣を抜いていた。鏡のような刀身にギラリ、炎の照り返しが光っている。
「ヒーン!」
ポメラニアンが情けない声を上げて、ユーリに飛びついた。抱き上げてやるとぶるぶると震えている。
ユーリは眉尻を下げてユリウスに言う。
「こんな様子だもの。許してあげて?」
「…………」
ユリウスは剣を抜いたままユーリとポメラニアンを見る。その瞳は夜の闇に沈んでいて表情が見えない。
「ほら、早く帰りなさい。人間に近づいたら危ないわよ」
ユーリはポメラニアンを放してやるが、小犬は彼女から離れようとしなかった。
「困ったわ……。どうしよう?」
「……様子を見ようか」
少し間を開けてからユリウスが言った。
「人間に懐く魔物なんて、聞いたことがないが。今のところ、敵意はないようだ。ただし少しでも怪しい動きをしたら、叩き斬るよ」
「ヒンッ!」
ポメラニアンは怯えた様子でユーリの足元で伏せをした。無害な自分をアピールしている様子である。
「よしよし、困ったわね。……あら、この子、首輪をしてる」
焚き火の明かりでよく見てみれば、ポメラニアンは細い首輪をしていた。革のような材質の赤い首輪だった。
その表面に何かが刻まれているのに、ユーリは気づいた。
「何かしら、文字みたいなものが書いてある」
「……遺物ね、それ」
ヴィーが近づいてきてのぞき込む。ユーリは驚いた。
「遺物って、魔の森で見つかる素材よね。ユピテル帝国ではない文明の痕跡だったっけ?」
「ええ、そう。何の効果もないガラクタがほとんどだけれど、たまに魔道具がまじっているの」
「これはどう?」
「魔力は感じられない。でも、きちんと鑑定してみないと分からない」
「そっか……」
首輪の文字を読めないかと、ユーリは目をそばめた。ほとんどかすれてしまっている。そもそもユピテル帝国のものではない文字ならば、彼女にはお手上げだ。
……けれど、そのはずだったのに。
ちらつく焚き火の明かりに照らされて、ユーリは胸がざわつくのを感じた。
このかすれた文字に見覚えがある。読める、気がする。
「クゥン?」
ポメラニアンが顔を上げる。首輪の文字が影になって、ユーリは我に返った。やはり読めるはずがない。
そんな彼女たちを眺めながら、ユリウスが言う。
「さて。妙なことになったが、朝まではまだ時間がある。ユーリは眠れるようであれば、もう一度眠っておいたほうがいいよ」
「うん。寝れないかもだけど、横になっておくわ」
テントに戻るとポメラニアンもついてきた。寝袋に入ったユーリの顔元で番犬のようにキリッとした顔をしている。
ヴィーもテントに入って、寝袋には入らずに座った。ポメラニアンを見張っているようだ。
魔道具のランプが消されると、また闇が戻ってきた。
ユーリは目を閉じる。ポメラニアンのふわふわの白が、まぶたの裏にも焼き付いていた。
テントの外でユリウスは剣を鞘に納めた。
ロビンが彼にしては珍しく、不安そうな口調で言う。
「なあ、ユリウス。あの犬みたいな魔物……」
「ああ。僕はあいつをしっかり取り押さえて、逃がすつもりはなかった。油断もしていない。なのにあいつは僕の手をすり抜けた。……ありえないよ。あれは、なんなんだ。無害を装って何をするつもりだ――」
「ユーリにずいぶん懐いていたけど?」
「あれは魔物だ。人間の敵だよ。懐くなどあるはずもない」
吐き捨てるように言う。
ユリウスの人生は、大半が魔物との戦いだった。八年前、十六歳の初陣で父と叔父を亡くし、冒険者になった。この魔の森や他の地域の魔物の領域に赴き、多くの魔物と殺し合いをした。ユリウスは数多く殺したが、魔物もまた彼の仲間を何人も殺した。
彼にとって魔物は決して分かりあえない敵である。
ユリウスは焚き火の前に座り直した。ムーンストーンの瞳が炎の照り返しを飲み込んで、胸の奥の憎しみを映し出すように揺らめいていた――。
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