第3話 ヤヌス神殿2


「ブーツの臭気抜き? ……念の為に『雑学』をもう一例、教えてくれ」


 アウレリウスが言う。

 ユーリは仕方なく、もう一つ雑学――というか暮らしの豆知識――を引っ張り出した。


「ウールの服を洗濯したら、最後にオリーブオイルを二、三滴垂らすといいです。洗濯で落ちてしまった油分が補われるので、ツヤが出ます」


「…………」


 辺りはまたもや微妙な静寂に包まれた。


「……もはや間違いないだろう」


 しばらく後、重々しい口調でアウレリウスが言った。片手で額を押さえていて、金の髪がこぼれている。


「此度のヤヌスの選定は失敗した。この女性は雑学に長けているだけの、ただの一般人。……よろしいですね、セウェルス様?」


「そ、そんな……。異世界の英雄を喚ぶために、どれほどの時間と資材を掛けたと……」


 栗色の髪の青年はがっくりと膝をつく。いっそ気の毒な様子だったが、ユーリは同情しない。彼女こそ巻き込まれていい迷惑なのだ。

 アウレリウスが言う。


「このような奇手に頼らず、正攻法で武功を挙げた方が早いでしょう」


「う……うるさい! 一つの手にこだわらず、あらゆる可能性を検討するのが皇帝たる者の素質だ!」


「それは一理ありますが、失敗を認めて次に繋げるのも皇帝に必要な資質です」


「ああもう、うるさいぞ! アウレリウス!」


 わいわいと言い合う二人の男性を、ユーリと他の人々は呆れて眺める。


(セウェルスくんはどうやら身分が高い人みたいだけど。そんな彼に遠慮なくずけずけ言うアウレリウスさんは、どんな立場の人なのかしら。さっきも私に質問をしてきたし、神官たちのリーダーかな? でも神官にしては、目つきが鋭すぎるのよね)


 ユーリはそんなことを思う。

 しばらく様子を見ていても、言い合いは終わらない。そこでユーリは言ってみた。


「あのー、すみません。私、もう帰っていいですか?」


 するとピタリと言い合いは止まった。セウェルスとアウレリウスに見つめられて、ユーリはちょっとたじろぐ。

 アウレリウスはセウェルスを見た。若者は苦い顔をして年長者の脇腹をつつく。お前が言え、と言っている。

 アウレリウスはため息をついて一歩、進み出た。


「異邦の旅人よ、大変申し訳ないが……。あなたを元の場所に返してやるのは不可能だ。ヤヌスの門は入ることはできても、出ることはできないのが定め」


「……は?」


「こちらの都合で呼び立てた以上、生活の保証はしよう。その他の要望もできる限り聞き入れる」


「…………はぁ?」


 後ろの方では神官たちが「ほら、だからヤヌスの選定なんてやるべきじゃなかったんだ」「セウェルス様がどうしてもと言うから」「でもお前だってヤヌス神の奇跡を見てみたいとか言ってたじゃん」「ちょ、おま、今そんなこと言うなよ!」などとヒソヒソしている。全部聞こえている。


「私、仕事があるんです。もう月末だから忙しいの。私が黙っていなくなったら、会社の人が困るんです!」


 ユーリは言った。叫ぶような口調だった。


「家族だって、友だちだっている! 急にいなくなったら、どれだけ心配させると思う!?」


 セウェルスにつかみかかる。


「ちょ、旅人殿、落ち着いて」


「これが落ち着いていられますか――!!」


 石造りの神殿に、ユーリの絶叫が響き渡った。







 ユーリとて『雑学』なるスキルが発現する身である。

 ここが外国などではなく、いわゆる異世界であることは薄々気づいていた。

 まず、セウェルスやアウレリウス、それに神官の皆は西洋系の顔立ちをしている。服装も古代ギリシアや古代ローマを思わせるエキゾチックなもの。そしてこの石造りの建物も、何本もの列柱が周囲を取り囲む神殿と思しき造りだった。

 それに言葉が通じるのが不思議だ。ユーリは外国語と言えば、中学の時に取った英検三級くらいしかない。大学で中国語とフランス語を取ったが、どちらも初級で終わっている。

 それなのにセウェルスらの言葉は日本語と同じ精度で聞き取れた。ユーリから発話することもできた。明らかにおかしい。


(まさか、ライトノベルで有名な異世界転移? 勇者や聖女の召喚とは、違うみたいだけど……)


 ユーリはあまりその系統の本や漫画は読まないが、何となく程度は知っている。


「アウレリウスさん」


 そこでユーリは聞いてみた。聞く相手がセウェルスではないのは、それまでの態度の問題である。


「ここは、私が元いた世界とは違う場所なんですか?」


「ああ、そうだ。世界という概念が今ひとつ分かりかねるが、遠く分断された土地であることに間違いない。ここはユピテル帝国。内海を取り巻く史上最大の国にして、皇帝陛下と元老院が治める大帝国」


「ユピテル帝国……。初めて聞く国名です。言葉もこの国独自のものですよね」


「その通り。――ああ、なるほど。異邦の旅人はヤヌス神の祝福により、この国の言葉を理解できるようになっている」


 アウレリウスはそう言って、懐からひと巻きの巻物を取り出した。


「文字はどうだ? 読めるか?」


「……読めません」


 ユーリは巻物を開いて見たが、見たこともない記号が並んでいるばかりだった。

 セウェルスが鼻を鳴らす。


「ヤヌスの選定を経た英雄であれば、読めるはずなんだがな。実際、二百年前に喚ばれた英雄は読めたと記録にある。英雄は剣と炎魔法の使い手で、雲霞うんかの如く襲い来る魔物を防ぎ、食い止め、蹴散らして、首都ユピテルと人々を守った」


「あ、その話は今はいいので。黙っててください」


 ユーリがにべもなく言うと、セウェルスはしょんぼりとした。


「ヤヌスの選定と異世界への転送において、何らかの不具合が起きたようですね」


 控えていた神官の一人が言った。

 ユーリは聞いてみる。


「その選定というのは、どういうものですか」


「ヤヌス神の御力により、異なる場所より高い素質を持つ者を呼び寄せる秘儀です」


 ということは、とユーリは思った。

 最初に地面の光に呑み込まれそうになっていた、あの女子高生。あの少女が本来の『選定』を受けた者だったのだろう。

 それをユーリが割り込んでしまった。そのせいで、こんなことに。

 それならば……。

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