4:バネッサからビュートリナへ ~シル王子を添えて~

 私は気づいた。


 王太子から婚約破棄され、妹からは罵られる。

 貴族女性は結婚が一番の華で、子孫を残すことが仕事だというのに、結婚適齢期を過ぎ、婚約破棄で生涯独身というのなら。


 私は、バネッサでなくてもいい。


「バルタサル、私はバネッサではなく、ビュウとして生きたいです」


 無理難題かもしれない。この体にバネッサという名前がつけられたのだから。

 私としては体が入れ替わった感覚だが、他の人からすれば魂が入れ替わったにすぎない。


「難しいですね……できればお嬢様のお気持ちを尊重したいのですが」


 予想と違い、バルタサルは私の考えを一蹴せずにしっかり向き合ってくれているようだ。


「でしたら『バネッサ』をミドルネームにする方法がございます」


 ミドルネーム。昨日、王太子が来る前に教わったものだ。

 貴族の中でも、昔から代々続く家系では名前が先祖と被ることがよくあるらしい。あとから別の名前をつけることで、家系内で区別するのだという。


 ただ、それまで使っていた名前をミドルネームにすることはないそうだが。


「ですが、ファーストネームが『ビュー』となると、なかなか奇異なお名前になりますけれども……」


 バルタサルは伏し目がちに目線を横にずらす。その時。


 コンコンコン


「ビュー様、いらっしゃいますでしょうか」


 知らない男性の声が聞こえた。……って、ビュウって言ったよね今!


「失礼ですが、どちら様でございましょうか」


 バルタサルでも知らない人とは……?


「シルビオ・デ・フェンダルタでございます」


 フェンダルタ、ということは。


「王室の方ですか!」

「はい、私は、昨日こちらにいらしたカルロス様の弟でございます」


 うん? 弟ということは、昨日の婚約破棄の件だろうか。


 バルタサルはドアを開け、「失礼いたしました。どうぞお入りください」とシルビオ王子を招き入れた。


 シルビオ王子は、あのカルロス王太子とそっくりな顔をしているが、王子の方が目元が優しい。そして髪が長く、髪を一つに結っている。


「何のご連絡もなしに、突然殿下がお一人でいらっしゃるだなんて、どのようなご要件でしょうか」


 昨日はお付きの人がいたが、王子という重要人物が一人でのこのこ来ていいものなのだろうか。


「昨日、お兄様がご無礼をした件で、本人に代わり謝罪申し上げます」


 私の足元にひざまずき、王子が頭を下げたのだ。

 こうなることは少し頭にあったが、さすがに目の前でやられると慌てるものだ。


「シルビオ殿下は何も悪くありません。お顔を上げてください」


 私の反応と反して、バルタサルは怒り気味に、低い声で尋ねる。


「ということは、婚約破棄を破棄するということで―――」

「いいえ、バネッサ殿との婚約は破棄のままでございます」


 ええ、じゃあ本当に謝りに来ただけってことなの?


「ですが、私の妃となるお気持ちはございませんか?」

「……縁談でございますか」

「仰る通りでございます」


 一瞬、結婚の話が来たから同意してもいいかと思ったが、あの王太子の弟だ。何をして何を言ってくるのかはわからない。


「いきなりでは難しいと思いますので、まずはお友達から始めるのはいかがでしょう」


 友達なら大丈夫だろう。


「お友達ですね。承知いたしました」

「ビュー様、よろしくお願いいたします」


 ちょっと待って。それ!


「どうして私をそうお呼びになるのでしょうか」


「昨日、私の執事から『妖であったことを誇りに思っていらっしゃる』と聞きました。私はそれを尊重して、今のあなた様をビュー様とお呼びしたいのでございます」


「ああ……お気遣い、誠に感謝申し上げます」


 バルタサルでさえ、ビュウと呼ぶには少しためらっていたものを、王子はさらっと呼んでみせたのだ。


 横で静かに話を聞いていたバルタサルが、ここで口を開く。


「それでしたら、ちょうどお嬢様が『バネッサではなくビューとして生きたい』と仰られたところでして――」


 私の代わりに、先ほどのファーストネームの件を王子に伝えてくれた。


「ほう……かしこまりました。お友達になったことですし、ご一緒に考えさせてください」


 ああ、きっと王子の方は本当に優しい人なのだと思った。


「ビューという音自体が珍しいものでして、何か良い案はありますでしょうか」


 私はこの国の名前のつけ方など微塵みじんも知らないので、ここはバルタサルと王子に任せようと思う。


「せっかく殿下にビュー様と仰っていただいたので、ビューを愛称にしたいですね」


 バルタサルがそう言ってしばらく無言が続いた後、王子が何かひらめいたようだ。


「ビュートリナ、はいかがでしょう」

「『ビュー』にtrを足して女性名の-inaをつけたものですね。可愛らしい響きで素晴らしいお名前と存じます」


 そんなに早く解析できるものなのか。名前のつけ方には規則性があるのかもしれない。


「ビュートリナ・バネッサ・デ・ルスファ。ビュートリナ、ビュートリナ……」


 私は、己の新しい名前を唱えてみた。何度も何度も。


「いかがでございましょう」


 こちらを伺うように王子は感想を聞いてきた。

 もちろん、答えはこれだ。


「大変気に入りました」

「それは何よりでございます」

「せっかく考えていただいて恐縮なのですが、これから私のことはビューと呼んでいただいてもよろしいでしょうか」

「構いませんよ。それならば、私のことはシルとお呼びください」

「承知いたしました」


 ここに来て、ここまで心地よい会話をしたのは初めてだ。幸せな時間だと心から思った。


 これが、私とシル王子との出会いだった。

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