第4話 自粛警察
これらの業界は、基本的には、
「遊戯場」
に分類される。
「ギャンブル」
ではないのだ。
これは、実は
「三店方式」
という方法が用いられているのだ。
「パチンコ業界が、なぜ、ギャンブルではないのか? 現金と交換しているではないか?」
という人は多いだろう。
しかし、これには、カラクリがあるのだ。
「球がある程度出たところで、計測器で球の数を数えてもらい、そこで、玉の数を計測したレシートを貰う。それを、受付カウンターに持っていくと、そこで、景品に変えてくれる」
というのがまず第一段階。
景品に変えてもらう時、後ろの棚に並んでいる普通の景品に変えてもらう分には、何ら問題はない。つまり、人形であったり、タバコや、チューイングガムなどと言った、本当の景品との交換である。
そういえば、昔のドラマ、昭和の頃などは、紙袋に、お菓子や缶詰などと言ったものを、いっぱい抱えて、家に帰っているシーンを見たことがあるだろう。
その時代は、
「現金よりも、物資」
の方がよかったのだろう。
「どうせ、現金を貰っても、結局は買い物にいけば、生活必需品に変わるのだから」
ということであった。
しかし、今はそんなことはない。
現金を貰ったからといって、生活必需品に変わるというのは、果たしてあるだろうか?
特に最近では、ネットスーパーなどのように、通販のような形にすれば、現金なしで買い物ができる。
だから、何も、重たい食料品などをわざわざ下げて帰ることもないのだ。
そんなことを考えれば、結果として、
「現金に換えてしまう方が一番いい」
ということになるだろう。
さて、景品の中には、
「現金交換用」
の景品というものがある。
その景品を持って、景品交換所に行くことになるのだが、ここが問題であった。
というのは、この景品交換所というのは、
「パチンコ屋とは、別の会社」
というのが基本である。
つまり、
「景品交換所」
というのは、別会社であって、別会社であるがゆえに、ここで、パチンコ屋というものが、
「現金とは関係ない」
ということになり、
「ギャンブルではない」
ということになるのだ。
だから、パチンコで、
「勝った人」
が、受付で、景品に交換してもらった時、
「これどこで交換してもらえばいいのか?」
ということを聴くと、教えてくれるところもあれば、
「教えられない」
というところもあった。
そのあたりが難しいところなのかも知れない。
何しろ、パチンコ屋の敷地内とは別に作る必要があるからだ。
主旨や理由は違うが、
「昔は、病院の中に、薬局があり、そこで薬を調合してもらい、そこで薬を貰って、会計は一緒に」
ということであったが、今であれば、
「診療が終わり、受付あるいは、会計に行って、治療費を払った後、処方箋を貰って、調剤薬局にて、処方してもらい、そこで、薬代を払う」
というシステムになっている。
パチンコの、
「三店方式」
とはまったく違う理由なのだろうが、今では、分業制になっているのか、会計などが、医療法と、薬事法によって違うものがあり、税金などに影響しているからなのか分からないが、そんなところではないだろうか?
特に、政府は、
「自分たちが楽になるように、システムを変えるのが好き」
だからである。
そのくせ、どこかの厚生労働省のように、
「年金を消した」
などということをやってのけたりするのだ。
何と言っても、その原因が、
「ずさんな管理」
であり、それが何人にも積み重なったせいで、社会問題になったのだ。
それでも、懲りずに、今でも、ずっと昔からの、
「悪しき習慣」
を繰り返すことで、
「まったく反省していない」
と言われるようになるのであった。
そんな政府であったり、役所仕事がどれほど情けないものなのかということは、分かり切っているのだ。
役所というところ、正直、
「いつも問題を起こしている」
という印象がないでもない。
そういえば、以前、
「世界的なパンデミック」
において、社会問題になったことがあった。
あれは、確か、
「間違って一人の人に、街中の補助金を振り込んでしまった」
ということであった。
振り込んだのは、
「二重振り込み」
であって、本来振り込まれる人のところには普通に振り込まれていた。
だから、その時、損をしたのは、役場だったのだ。
だが、役場が損をしたということは、そもそも、その補助金というものがどこから出ているのか?
ということである。
そのお金は、
「街の予算」
から出ているのだ。
「じゃあ、街の予算って、どこから来るのか?」
というと、それは、税金なのである。
そう、いわゆる、
「市県民税」
というものが、
「街の予算」
となるのだ。
もっといえば、街の人が汗水たらして働いたお金からの税金が使われたということである。
これは、街としては、大きな問題だった。
「税金のムダ遣い」
どころか、ずさんなやり方で、取られてしまったわけだ。
取られたというと人聞きが悪いが、
「街がお金をあげた」
ということになる。
それは、当然返してもらうべきお金で、その金額も数千万円ということだったのだ。
「最初は返すつもりだったが、街の対応が悪かったので、ネコババを考えた」
というのだから、実際にはどちらが悪いのか分からないが、少なくとも、血税を使われた町民にとっては、たまったものではない。
「それだけの金があれば、少しでも、自分たちのための施設をつくったり、改修してくれる金に使う方が、どんだけいいか?」
ということである。
しかも、金をもらった人間は、
「仮想通貨」
に変えるという形で、どうやら、
「海外カジノに手を出して、使ってしまった」
ということを言い出したようだ。
残っていれば、返却義務はあるが、使いきってしまったというと、それを証明するすべがないのだった。
何と言っても、
「海外のカジノなので、日本の法律が通用しない。個人の資産の開示など、よほどの罪でもない限り、してくれるわけはない」
ということを分かっていての、確信犯であった。
きっとそのニュースを聴いた時、国民のほとんどは、
「汚いやつだ」
と思ったことだろう。
確かに、
「街側の対応が悪かった」
というのは、ウソではないだろう。
しかし、だからといって、街の人間の血税を、ネコババしていいというのは、理論にあっていない。
それを考えると、
「この男のあからさまなやり方は、誰が見ても、容認できることではない」
ということであろう。
だが、事件は急転直下で、何と、海外カジノから、そのお金が街に帰ってきたというではないか?
何がどうなったのか、正直分からなかったが、ハッキリ言って、
「正義のため」
ということではないだろう。
それぞれに、思惑や計算があって、こういうことになったのだろうが、その後もいろいろもめていたようだった。
実際に、いいのか悪いのか。なかなか難しいことである。
まぁ、そんな問題とは別に、同じ、
「正解的なパンデミック」
の時期に、渦中のパチンコ屋という業種で問題になったことがあった。
というのは、いわゆる、
「第一回目の、緊急事態宣言下」
でのことであった。
あの時は、
「基本的に、インフラであったり、薬局、スーパー、コンビニなどの生活必需品を取り扱っているところ以外は、休業要請を全国で実施する」
というものであった。
一般企業、飲食店。学校なども、
「軒並み休業」
ということになったのだった。
そのかわり、補助金が出るというものであったが、正直、
「そんな雀の涙ほどで、やっていけるわけはない」
というところがほとんどだったが、一部には、
「補助金が一律」
ということもあって。普段は店を開けていても赤字になりそうな店が、
「店を閉めることで黒字」
ということになるのだから、
「実にありがたい」
ということであった。
しかし、ほとんどの店、
特に、
「客がたくさんいないと、やっていられないという店。都心部の家賃だけで、かなりのものになるところなど、本当に客が来てなんぼ」
というものであった。
さらに、
「一日、売り上げが百万以上なければ、赤字」
というようなところは、一か月、数万円などという補助金など、あってないようなものだ。
それであれば、
「どうせ、要請しかできないのだから、店を開けてもいいじゃないか?」
というところも多かったようだ、
実際に、店を閉めることができなかったところで、
「性風俗の店」
であったりは、確かに相手いた。
一度タクシーに乗った時、タクシーの運転手から、
「あの頃は毎日、2,3人の客がいればいい方だったけど、駅で待機していると、朝、繁華街にいく女の子がいるんですよ」
と言っていた。
どうやら、それが性風俗に女の子のようで、
「客として乗ってくれるのだから、神様のようなものですよ」
ということであった。
風俗の店は確かに、痛かっただろうが、実際に来る人に、それほど怖いという意識のある人はいなかったような話だった。
本当はその方がもっと怖いはずなんだが、それでも、客として来てくれるだけでもよかったというのだ。
「どうせ、客が来なくて、店を閉めても、開いていても、結果、大きな借金を背負うことになるのであれば、モラルに背いても、店を開ける方がなんぼかいい」
ということであった。
「このままなら、首を括らないといけない」
ということであれば、
「病気で死ぬかも知れない」
と思うよりも切羽詰まっているのだから、
「そりゃあ、店を開けるわな」
ということである。
店を開けるというのも、しょうがないということであり、
「性風俗に関しては、しょうがないところがあるのでは?」
と考えてしまうのであった。
それも無理もないこととして考えると、パチンコ屋の場合はどうだったというのだろう?
そのあたりが問題だといってもいい。
その時、社会問題として、
「自粛警察」
と呼ばれるものがあった。
これは、
「国から、要請とはいえ、自粛しなさいという命令が出ているのに、開けている店があったりすると、通報するというものであった」
彼らは、自分たちの勝手なモラルであったり、常識のようなもので動いていた。
平安時代に、平時忠という人物が、
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉を残し、さらに施設警察として、戦災孤児のような少年たちを集めてきて、
「禿(かむろ)」
という組織を編成し、その子供たちを、街に放って、
「子供だから」
ということで、安心して、平家の悪口などを言った場合、
「禿の連中が夜にでも襲い掛かってきて、そのまま召し出され、バツを受ける」
ということが行われたりした。
その時の刑罰としては、
「財産を没収された」
あるいは、
「島流しにあった」
「屋敷に火をかけられた」
などということが横行していたのである。
そんな時代に、禿なる連中が、街を歩いているわけだから、悪口など言えるわけもない。
平安京の人たちはさぞかし、
「子供を見るだけで、恐怖に震えたことであろうか?」
今の時代における。
「自粛警察」
というのを見た時、その平安時代末期の、
「平家による禿集団」
というものを思い出さずにいられないというものであった。
確かに似てはいるが、
「自粛警察」
は個人であって、集団ではない。
「ただ、それだけ、皆が考えていることは一緒だということで、まるで集団のように見えるのだろう」
自粛警察として狙われたのは、
「パチンコ屋」
だったのだ。
確かに、
「一日の売上が、相当な額でないと割に合わない」
という、人気店であれば、まったくといっていいほど、補助金などあてにならない。
だから、店名公表というリスクを負って、店を開けていたのだが、実際には珍現象が巻き起こった。
というのも、
「○○パチンコ店が、営業している」
ということを、ホームページに公表した自治体もビックリの、そのとたんに、開店前に、長蛇の列ができたのだ。
もっとも、
「開いている店があるなら、そりゃあ、いくわな」
ということである。
パチンコは、依存症の人がいるし、ただでさえ、自粛を強いられていて、ストレスで皆ウンザリしているところに、
「開いている店がある」
ということになれば、客が殺到する。
というのは、当たり前のことである。
それを考えると、
「公表は失敗だった」
といっても、すべてが、
「後の祭りだった」
といっても過言ではない。
そんな店に客が殺到する。当然、世論の意見は、真っ二つに割れるわけだ。
「パチンコ屋は、どうして、閉店要請に従わない? そんなパチンコ業界は、許せない」
という、いわゆる、
「自粛警察」
と、逆に、
「パチンコ業界だけをどうして攻撃するのだ?」
という
「擁護派」
であった。
考えてみれば、パチンコ店というのは、他の業界に比べ、キチンと閉店している率が、九十数パーセントあったのだ。実際に要請に応じない連中に比べれば、結構な確率で、要請に応じていた。
しかも、肝心なところはそこではなく、
「パチンコ屋に通っていたという人が発症したという例は、聴かない」
ということであった。
何といっても、当時のパチンコ屋というのは、
「受動喫煙禁止法」
が制定されてすぐだったということもあって、
「換気等に関しては、どこよりも充実している」
ということもあり、
しかも、
「席を離れて座るように、できる台を制限する」
ということだってできるのだ。
そういう意味では、感染の確率は非常に低くなるし、実際に、その話を聴けば、
「安全性は担保されている」
といってもいいのではないだろうか?
それを思うと、
「どうしてパチンコ屋だけが、攻撃されないといけないのか?」
ということで、理不尽な気がしたのだ。
自粛警察と呼ばれる連中にも、ひょっとすると、どうしてパチンコ屋だけが攻撃されたのか分かっていないのかも知れない。
「世間で、パチンコ屋が空いているのを聞いて、腹が立った」
という程度のことだったのかも知れないが、もし、そうだというのであれば、これほど情けないものはない。
「お前たちには、反対する理由というのはないのか?」
と言いたくなるといってもいいだろう。
それを考えると、
「自粛警察」
というものの存在を、最初は、
「必要悪」
のようなもので、あってもいいと思っていた。
そう、政治の世界でいえば、
「野党」
のような存在ではないかと思ったからだ。
というのは、政府与党をけん制し、政府の暴走を防ぐという意味で存在する。
今の野党は、
「くそ」
しかいないが、それは、
「ただ、批判をするだけ」
の政党に成り下がったからである。
元来野党というのは、与党をけん制したり、暴走を見張るのだから、
「批判をすることが悪いとは言わないが、せめて、批判をしたのだったら、それに対しての代替案を占めることくらいは当たり前のこと」
といってもいいだおる。
こんなことは、子供でも知っているだろう。
「批判することは、誰にでもできる。批判した後、どうすればいいかということを言わないのであれば、批判しない方がマシだ」
と言われたことがなかったのだろうっか?
だから、
「批判ばかりで代替がないのであれば、しない方がマシ」
ということで、結局、
「あんな野党に任せるのであれば、まだ、今の方がマシ」
ということになって、結局は、何もよくならないのだ。
野党も、もう少し考えていればいいのに、と思う。
特に、党によっては、医者や弁護士、学者や実業家などと言った、実践でのプロ集団のような人たちで構成されているところだってあるではないか?
だからこそ、選挙で勝ち残り、国会議員をできているのではないか?
もう少し党としてのまとまりと、
「小学生にでも分かる理屈」
を理解するだけで、政権を担えるかも知れないのに、もったいない。
ただ、前述の、
「年金焼失問題」
が引き金になって、与党が、
「野に下った」
という時、野党第一党の勢いのある党が政権を握り、期待されたが、一期だけで、その無能力さが、一気に噴出し、何もできずに、また政権交代ということがあった。
その記憶があるので、
「損な政党に任せられない」
というのだろう。
しかし、これは逆もいえるのであって、
「たった一期やらせただけで、結論づけていいのだろうか?」
ということもあった。
ただ。あの時は、地震災害や、原発事故問題などがあり、その時の対応が、あまりにもひどかったというのは、記憶に新しいところだった。
地元の人の気持ちを逆撫でるような発言をしたりして、世間から、
「総スカンを食らった」
というのもあったのだが、考えてみてほしい。
「元の与党が、何をして、野に下ったのか?」
ということをである。
長年のずさんな管理で、自分たちの老後のために、国が貯えていたはずの貯金を、亡くされたのだ。
自分の家のタンスに貯金を隠しておいたのを、泥棒が入って、それを持っていったのと、同じことである。
しかも、今回のこの事件は、一部だけの問題ではなく、
「国民全員に降りかかる問題であり、今もまだ全部が解決したわけではない」
というではないか?
そういう意味では、あの時の政府がやったことは、
「泥棒以下」
ということになるのではないか?
国民の貯金を、政府が、ずさんな管理で、失くしてしまったのだ。
もし、これが民間企業なら、
「トップ総入れ替え」
であったり、下手をすれば、破綻しても仕方がない状態である。
今回は、
「政権交代はしたが、ちゃんとまた戻ったではないか?」
しかも、一期でまた政権に返り咲いている。
こんなことが許されてもいいものであろうか?
それを考えると、
「野党も野党だが、泥棒以下の政府をまた復活させるというのは、どういうことなのか?」
ということである。
あれだけ、政府をこけ下ろし。
「あの政府は腐った」
と言っていた人が、数年で、その党に票を入れるのだ。
もっといえば、
「それだけ野党が情けない」
ということで、野党は、
「泥棒以下の政府のさらにその下」
ということもあり、
「政党助成金など、払う必要はない」
といってもいいのではないだろうか?
そんな野党と比較される、
「自粛警察」
どちらも、
「クズ」
といってもいいが、やはり
「野党の方がクズかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
自粛警察は、そもそも、組織というわけではない。ただ、世の中に対して害を及ぼしている方が多いがそれでも、彼らがいるおかげで、
「見せないところで、自粛している」
といってもいいところもあるだろう。
しかし、野党の場合は、いい意味でも悪い意味でも、その行動はすべてにおいて、
「世の中に影響を与えるのだ」
というのは、彼らはいくら野党だとは言っても、
「れっきとした政治家だ」
ということだからだ。
選挙で勝ちぬいて、
「党所属の国会議員」
ということである。
そんな国会議員ということもある政治家として、彼らには、それだけの仕事をしてもらわないと、何と言っても、
「血税で飯を食っている」
というわけである。
それを考えると、自粛警察などと比較にならないほど、その責任というのは、大きいというわけである。
ただ、そんな野党も昔は、確かに、批判ばかりはしていたが、その言葉には、それなりに信憑性はあった。
「ただ、同意はできない」
ということだからである。
完全に、他国から押し付けられた民主主義の時代に、しかも、昔は、政党の数も全然少なかった。
「五大政党」
とよばれていた時代がずっと続いてきたのに、今では、スポーツに特化した党であったり、ある国営企業を攻撃するというだけの党であったりと、
「こんなの本当に存在意義があるのか?」
と言われるほどのものである。
そう考えると、野党と、自粛警察、立場の違いから、優越はつけられるが、実際にやっていることに関しては、
「大差はない」
といってもいいかも知れない。
それを考えると、パチンコ屋が攻撃されたあの時、結局、騒ぎ立てただけで、それを真に受けた市町村が、名前を晒すと、今度はそれが却ってまずい結果を生み、
「パチンコ屋に人が殺到する」
ということになった。
しかも、それでも、感染者の報告はないわけで、却って、
「パチンコ屋は安全だ」
ということを、広めてしまったことになるのだ。
最初から締め付けようとさえしなければ、
「パチンコ屋は平和だ」
ということになり、しこりが残ることはなかっただろう。
結局騒ぐだけ騒いで、世間のためになるどころか、ただの。
「お騒がせ」
というだけで終わったということは、野党とやっていることと、その結果を考えると、「本当に同じレベルだ」
ということになるであろう。
そんなパチンコ業界であったが、今では、確かに昔ほどの賑わいはなくなってしまったが、それは、
「自粛警察」
のせいではない、
「喫煙ができない」
であったり、
「健全なパチンコ」
というイメージで、あまりお金をつぎ込まないようにするための機種改造であったりが、大きな影響を与えている。
というのも、確かに、
「玉持ちがいい」
ということで、たくさん開くようになって、例えば、千円で三分しか持たなかったものが、五分持つということになると、同じ時間でも、玉の減り具合は少ないということになるだろう。
しかし、そのままであれば、パチンコ業界が赤字になってしまうので、
「大当たり確率を絡めに設定する」
か、あるいは、
「当たった時の、出玉を抑えるかしかない」
ということになるだろうが、ここで、大当たり回数を絞ってしまうと、
「全然面白くない」
ということになる。
しかし、
「あんまり爆発的には出ないが、コンスタントに当たる」
ということであれば、遊戯性という意味で、楽しめるし、皆うまくいくと考えられる。
確かにそうかも知れないが、それは、これからパチンコを始める人であればいいかも知れないが、
「今までもやっていた」
という人から見れば、
「面白くなくなった」
ということになるのだ。
実際には、
「普段は結構大きく負けたりするけど、たまに、数十連荘とかして、とんでもないくらいになる」
という経験をした人には、その楽しみがないわけなので、それこそ、
「パチンコ離れ」
というのが加速してもしょうがないというものだ。
新たな客を呼び込むといっても、
「タバコも吸えない」
という状態になって、何が楽しいというのだろうか?
ちなみに、パチンコの大当たり確率というのは、
「完全確率方式」
というもので。例えば、
「365分の1」
という台であれば、普通に考えれば。
「365回転させれば、それまでに必ず当たる」
と考えるだろう。
しかし実は違っているのだ。
というのは、
「おみくじを引くのに、普通なら、外れを引いたら、引いたのは、表に出してしまうが、パチンコの場合は、それをもう一度中に入れる。つまり、365分の1から、外れれば364分の1になるのではなく、当たるまで365分の1に変わりはない」
という意味での、
「完全確率」
という方式なのだ。
「だから、1000回転まわしても、当たらないこともあれば、1回転で当たることもある。単純に全回転から大当たり回数を割ったものが、大当たり確率として計算するというものなのだ」
ということである。
そういう意味では。
「パチンコって、実によくできている」
といえるだろう。
しかも、実際の開発の時、実際の当選確率にするようにいかにつくりこむかということがどれだけ難しいかということになるのであろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます