春色の候
きっとなんてことない帰り道だった。
手をつないでいないのも平常運転で、だからそれがだめだったのかもしれない。貴方は帰り道の途中のベンチの前で立ち止まった。私は貴方を一歩追い抜いたところで止まって首をかしげていた。このあとなんて言われるのかもわかっていない顔で。頭の中では嫌な予感が警鐘を鳴らしていたけれど。
そんな私に貴方は逆光の中言った。
「わかれようか」
疑問符はついていなくて、きっと私には頷くしか選択肢がなかった。きっとそういうところが最低なんだよ、なんて言葉は当たり前に口に出せなかった。
「きっとその方が君のためにも僕のためにもなると思うんだ」
貴方は口元を隠しながらそう言った。この時初めて逆光で貴方の顔が見えなくてよかったと思った。筆談用の紙とペンを取り出す時間さえもらえなくて、私は何も言えずにただ頷いた。慣れ親しんだ喉の違和感に空咳をすると、口を覆った手の中にはなずながあった。
貴方は
「いままでありがとう」
と言って、私の手からなずなを盗んでいった。
「君の恋心なんだとしたら僕の物でもあるだろう?」
そう貴方が言ったから貴方の前で咲いた花を渡すことが癖になってしまっていた。だから私は暫く盗まれたことに気が付かずにその場で茫然としていた。きっと渡してはいけなかったのに。
それからどうやって帰ったのかはよく覚えていない。
記憶があるのは家に帰ってから恋心の喪失に部屋で泣き声を上げて、声が出せるということに気付いてからだ。生まれたときから声を出せなかった私が声を出したから母は驚き涙ぐみながら部屋に入ってきて、泣きながら私の背をさすっていた。まるで私の人を好きになるためのところが私の喉をせき止めていたみたいだった。
私の後悔は、もっと早く声が出せることに気付いていたなら言ってやればよかったということだけだった。
「貴方が嘘をつくときは口を隠すんだよ」
って。
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