He became a father
とてつもない衝撃を受け、鵺は初めて体勢を崩した。しかしそれでも操の様子は変わらない。むしろ新しく現れた敵に対してより冷静に分析をし始めている。
「何故あなたがここに…?」
「僕がここいる理由はどうでもいい! 一体何をしているんだ、あなたは!!?」
鵺と共に去ろうとしていた操と、その傍にうな垂れる悠の姿を見て全てを悟った雄也は自分でも驚くほどの声量で怒鳴った。驚いたのは声の大きさではない、自分の中にあるこのどす黒い感情に対してた。敬愛すべき妻の操に対してこんなにも敵意が湧いて出てくる自分が信じられないでいる。
そんな怒号を浴びせられた操は答えの代わりと言わんばかりに持っていた錫杖をMr.Facelessの右脇腹へと叩き込む。しかし操に幾ばくかの武術の才があるとは家、生身の物理攻撃が裕也を保護するアシクレイファ粘菌を破ることはなかった。固くなったスライムに打ち込むような感触だけを操に伝えると、裕也は錫杖ごと操を押さえつけ、なんとか説得の体を作った。
「嘘だと言ってくれ、操さん」
「呼んでいるの。私を」
操は裕也を見据えている。しかし、だからこそ裕也には自分の姿は写っておらず、後方の鵺に心奪われている妻に絶望をした。
だが絶望とは反比例するように不屈の熱意も込み上げてきていることに気が付いている。そんな馬鹿げた理由で、はいそうですかなどと返事ができるはずもないのだ。
「家族がいると言ったでしょう。守りたいと、あなたがそう言ったんだ!」
「ええ。だから自分でも驚いているのよ」
返事をするのは妻であって、妻でない別の何かだ。それは勘違いなどでなく、彼女の弁舌にさえ垣間見得た。
「そんなものよりも鵺の声の方が心地いいんですから」
裕也はかつてないほどの寒気を覚えた。
妻が、というよりも人間がここまで冷徹な眼で冷酷な言葉が吐けるのか、感嘆とも呆然とも取れる反応を示すことしかできない。
「私を引き留めようとする気持ちはすごい分かる。けど私は逆らえない…」
その時背後から迫る鵺への対応が遅れてしまった。アシクレイファ粘菌の効果で全方位を黙視できている裕也だったが、肝心の意識が空をさ迷っていてはなんの意味もない。
操と鵺は驚くほどに息の合ったコンビネーションを見せつけてくる。裕也は全意識を集中させて応じるも防戦以外の行動がとれないでいる。尤もMr.Facelessだからこそこの二人を相手取って尚、善戦ができているのだが。
「落ち着いてください。あなたは鵺の術に嵌っているだけだ」
心のどこかで無駄だとわかっているのにも関わらず、裕也は説得を試みる。ソレに対して操は一度攻撃の手を止めた。すると物悲しく首を横に降り、聞き分けのない子を諭すときの母の顔になって言う。
「・・・違うのです」
鵺は十年来の飼い猫のように操に寄り、ぐるりと彼女を包み込んだ。その時二人の間には慈愛とも信頼とも取れる絆のような雰囲気を垣間見た。まるでキリスト教の聖母画のような神々しいオーラに見とれてしまった自分を悔いた。
喪心の裕也に構わず言葉を続ける。
「絆魂は本当の意思の疎通で、お互いの事が完全に分かり合える。自分の身に起こってみて初めて分かった」
言葉に思いと決意が滲み出ている。操自身もMr.Facelessと家族を傷つけることは本意でないのだ。
「私は今鵺のことを完璧に理解している。反対に鵺も私の事を完全に分かってくれている。だからこんなにされても尚、あなた達を本気で襲おうとはしていない。私が悲しむのを知っているから」
操は愛おしそうに鵺の体の傷を撫でると凛とした、それでいて嘆願を乞う表情でMr.Facelessに告げる。
「お願い。二人で行かせて。じゃなきゃ…本当に殺してしまうかも知れない」
「…殺されたとしても、君を行かせる訳にはいかない」
「そう、ですか」
ふうっと、溜め息を漏らすと操は今まで纏っていた朗らかなオーラを払拭し、一切の容赦をなくす。今までの攻防はなるたけ穏便に事を済ませたいと相手を慮っていたのだと思い知らされる羽目になった。
「我、
それは操が灰塵も残さぬほどに妖怪を滅するときに使う呪文。封印も退治もできないほどに暴れる妖怪や残虐非道な妖怪に使うのも憚れる程、無慈悲に滅却するその術は操本人であっても使うのをためらうほどだった。けれども、鵺と共にこの場を去る一心の彼女には未練も執着も躊躇もない。
裕也は本能的にそれを喰らってはいけないと判断した。体はすぐにでも回避するために動こうとしたが、心がそれを許さない。なぜなら彼の背後の先には満身創痍で事の成り行きを見定める子供たちと神邊の門弟たちがいたからだ。
ともすれば取れる手段は一つしかない。
術が発動する前に妻と鵺を撃破する・・・。
その覚悟をもって飛びかかったのだ。
けれども、裕也の決断は一瞬遅かった。鵺が不気味な声を咆哮とともに浴びせると、束の間の隙ができてしまう。心身ともに遅れを見せてしまった裕也にこれ以上の成す術はなく、操の放った攻撃の盾になることが精々だった。
眩い光が彼女から放たれたかと思えば、次の瞬間には尋常ではないほどの衝撃がMr.Facelessを襲う。彼の体は羽よりも軽く吹き飛ばされてしまった。
操も子供たちも、神邊の門徒たちもその術の威力は知るところだ。全員が例外なくMr.Facelessは跡形もなく滅されたと確信した。だからこそ、腕を押さえボロボロになったスーツと体を引きずるようにしてでも操に食らいつく彼の姿には心底驚いた。
雌雄は明らかに決している。もうMr.Facelessに戦う力は残っていないことは明確だ。
端から見ればズタボロのみすぼらしい姿ではあるが、彼に悲壮感や嘲笑の念を抱くものは誰一人としていない。神邊家から込み上げるのは感嘆と羨望と希望、鵺と操にとっては驚愕と恐怖と嫌悪だ。
しかしMr.Facelessが精魂尽き果てていることは明白だ。そう判断した操は鵺にまたがると裕也たちとは反対の方向に向かって去っていった。彼女らの目的は追っ手を巻くことであって神邊一門とMr.Facelessを殺害することではないのだから、当然の行動だった。
「待…て…」
裕也は辛うじて声を出す。その最後の足掻きが聞こえたのかどうかは分からないが、ビルから滑るように消える間際に操はこちらを一瞥してきた。
長い髪の間から微かに覗かせた操の表情は、圧倒的な喪失感だけを裕也たちに届けてきたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます