Lifelink 2


 ◇◇


 鵺と合見えた瞬間、私は時間が止まった感覚を味わいながら思いに耽っていた。


 …私は裕也さんのことが本当に好き。


 誰になんと言われようと、その思いが揺らいだことは一度もなかったと自信をもって言い切れる。


 あの人の笑顔や言葉に私がどれだけ救われて、勇気をもらって、励まされたか。それは誰にも推し量ることはできやしない。あの人の側にいられるだけで幸せと思えるほど、裕也さんを愛していると断言できる。


 けれど。周りはそれを良しとはしてくれなかった。


 私が生を受けた神邊という家は平凡や一般とくくられるには、かなり遠いところにあった。そんな神邊家の本家に生まれ落ち、更に類い稀なほどの霊力を持っていた私は物心が付くか付かないかという頃から修行に明け暮れ、機械的に妖怪を殺す日々を送っていた。


 神邊家の門をくぐるのは同じように自我を失ったが如く妖怪を退治することだけを考える祓い人か、若しくはその妖怪の所業によってもたらされる被害の責任から逃れたい一心の役人や政治家たち。


 今となっては彼らにも生活があり、守りたいものがあったのだと理解はできるけれど幼少の私には機械の方がまだ暖かみを感じられていた。


 退治屋稼業としては名門中の名門であった神邊家は、国からの要請を受けて災害レベルの妖怪を退治することが主で、個人の憑き物や小規模な被害を解決するために繰り出すことはなかった。たまにそんな仕事があったとしても、それは往々にして政財界の大物に所縁がある場合がほとんどだった。


 周囲にいるのは保身と金銭に関心のある大人ばかり。


 妖怪を相手にする都合上、私たちの仕事は夜に動くことが多い。世間からすれば昼夜逆転の生活を余儀なくされる神邊家では学校に行くことも許されず、家庭教師から一般教養を習っていた。


 なので当然、同世代の友人ができることもなかった。そして私はそのまま、他人から強制された使命に疑念を持つこともなく成長し、人であって人でないような大人になるはずだったのだろう。


 けれど私は裕也さんに出会うことができた。


 笑われても、バカにされても関係ない。私にとってはそれは運命以外の何者でもなかった。


 裕也さんは神邊の分家に生まれた同い年の男の子だった。初めて会ったのは裕也さんが小学生の頃。分家とは言え神邊の血筋を引く人間は高い霊力を備えていることが多いのだけれど、裕也さんの場合は全くといっていいほど霊的な素質はなかった。だからこそ彼は普通に小学校に通い、妖怪とは縁遠い生活を送っていた。


 そんな彼は当時の神邊家の当主が逝去したことで、その供養の為に親類の一人として親に連れられて本家を訪ねてきていたのだ。


 そうして来訪した弔問客らの子供達は適当な部屋を宛がわれて思い思いに時間を潰していた。私は自分の部屋にいる気にもなれず家の中を当てなくうろついていたのだけれど、やっぱり子供部屋の様子というのは気になっていた。


 自然と足が向き、廊下の影から開けっぱなしの襖の中を覗いてみた。皆が走り回ったり、用意された玩具やお菓子に浮かれている最中、裕也さんは廊下側の隅を陣取ってノートに何かを書いていた。


 私はそれが妙に気になってしまったのだ。


「何…してるの?」


 思わず声をかけたことを今でも覚えている。


 振り返った裕也さんは私に向かって満面の笑みで教えてくれた。それは当時にやっていたヒーローの絵だった。アニメなのか特撮なのかはわからないけれど、そのヒーローについてとても楽しそうに喋りだしたのだ。


 その時に私は生まれて初めて気がついた。


 人間って笑うんだって。


 笑ってもいいんだって。


 笑っている顔を見るのがこんなにも幸せな気持ちになるって。


 当時の私はその気持ちを言い表せる言葉を持っていなかったけれど、今思えばそれは間違いなく私の初恋だ。あんな素敵に笑う男の子を好きにならない方がおかしい。


 そして秘めたる思いは大学で彼と再会したことによって歯止めが利かなくなってしまった。


 もう感情の沈め方が分からなくなっていた私は、気がつけば裕也さんに結婚を前提に交際して欲しいと告白をしていた。今にして思えば世間知らずの箱入り娘の暴走としかいいようがない。当然、彼は目を丸くして驚いて一度断ってきた。その頃には本家と分家の立場の違いなど、余計な雑念が彼にしみついていたから。でも私の思いが嘘や冗談でもなく、まして一歩も引き下がるつもりはないことを伝えると、とうとう彼の方が折れてくれた。


 そして、私たちは卒業と同時に籍を入れた。それが最早二十年近くも前の話。


 一緒になれたばかりか、裕也さんの子供を四人も授かることさえできた。本家の娘と分家の男が結婚したことで生まれた軋轢はまだまだ深いけれど、それでも裕也さんと結ばれて彼の子供を産むことができたのは幸せだ。


 今でも誰に何を言われても断言できる。


 私は、裕也さんが好き。彼との間にできた子供たちも愛している。家族の為なら命を落としたとしても一片の後悔も残すことはないと確信していた。


 …だからこそ、自分でも驚いている。


 まさか。


 裕也さんよりも、子供たちよりも大切と思える存在と出会うなんて夢にも見なかった。


 ◇◇


『操が鵺を守った』。


 今起こった現実を誰もが素直に飲み込めなかった。当の操本人であっても、一体何をしているのかすぐさま理解することができないでいたのだから、他の者はひとしおだ。


「駄目。鵺を傷つけちゃ…」


 まるで高熱を出した病人のように胡乱な面持ちで操がつぶやく。それでも操が口にしたその一言は十二分すぎる程の波紋を呼んだ。


 そして誰しもが頭に過ぎり、それでも否定したい一つの仮説を悠が吐露した。


「まさか……絆魂したの?」


 操は答えなかった。


 けれども踵を返し、鵺と共にどこかに立ち去ろうとする一連の行動が何よりも陰惨な回答として神邊一門に届いた。


「ちょっと待てよ!」


 気品や品格などはまるで無視した雄々しく猛々しい物言いで、悠は母と鵺を呼び止めた。もしかしたら母が口の利き方を叱責するために足を止めてくれるかもしれないと淡い期待も抱いていた。だが悠の様子に反応したのは実弟だけだった。近くにいた夏臣がビクリと身体を振るわせて、青ざめた顔を姉へと向ける。


 そして悠は自らの激昂を微塵も抑えることなく叫んだ。


「みんな、何ボサッとしてるの!? お母さんを止めて!」


 皆に発破をかけた悠は獲物に襲い掛かる猫のように飛び出すと、英単語帳のようにまとめられた札の束を放り投げ呪文を詠唱する。


『怒を緩く、さすれば彼も言をる。柔らかな舌は骨をくじく』


 札の束は瞬時にばらけるとそれぞれが意思を持っているかのように操と鵺に襲い掛かった。数百数千の符はまるで扇状に隙間なく広がり逃げ道を塞ぐ。


 しかし操に逃げ道は必要ない。


『愚者の痴に従いて之に答えよ、彼は己が目に自ずから智者と見ん』


 操は淀みなくつらつらと言の葉の紡ぐと、右腕を一文字に振り払った。途端に悠の放った札の全ては散り散りに飛散してしまう。


「嘘だろ…」


 紙吹雪のように風に煽られて流されていく札の残骸の奥から絶望に染まる夏臣の顔が見えた。彼がそう呟いた言葉の中には、悠の切り札たる呪文があっさりと敗れた事、母から明確な敵意を向けられている事、母が鵺に触れつつ恍惚の表情でソレを撫でている事に対しての嫌悪感などなど様々な心情が込められていた。


 あっさりと防がれたとはいえ、操の術は無駄だった訳ではない。


 四散した悠の札の紙切れは隠れ蓑となり、一門の精鋭たちが隙をついて鵺に近づくチャンスを生み出したからだ。


 操が絆魂したという疑いがある以上、彼らに鵺退治はできない。ともすれば逃げ出すか、もしくは封印するしか取れる手段はない。そして相手が操であるなら逃げ出すという選択肢は考えるまでもなく消えてしまった。


 この実力では操にも鵺にも敵わない事は全員が理解していた。けれどもこちらに分がある要素が一つある。人数だ。誰か一人でも成功すれば最悪の事態だけは避けられると全員が全力で多種多様な封印術を施した。これなら操もここに妨害をしなければならなくなるので、妨げられたとしても他の誰かの術の成功率を上げることに貢献できる。


「やめなさい!」


 操は鋭く一喝した。それだけで若干名が竦みあがって術を途中放棄してしまった。操の怒声に堪えた連中もその様子に焦り、自分だけは成功させなければと変に力んでしまっている。おかげで操の妨害は容易く決まってしまった。


『人の口の得に寄りて腹を明け、その口唇の特によりて飽くべし』


 これは術師同士が戦わなければならない時に使用される呪文であり、数分の間、術にかかった人間の声を奪いさる。封印術を施そうとしていた全員が喉から声を出すことができなくなり、水槽の中の金魚のように口をパクパクさせ言葉にならないうめき声を出すばかりになっている。


「お願い…追わないで」


 辛うじて見せた母親らしい声音と表情で短く悠に告げる。


 行かないで、という悠の言葉は操の術に阻まれ喉から出すことができない。代わりに出てくるのは嗚咽に似た潰れた声だけだった。


 悠は無我夢中で鵺に向かって行った。無謀だと頭に過ぎる余裕もない程に切羽詰まっていた。人間の腕力ではどうしようもないことは理解の上だが、それでも悠は錫杖を渾身の力で振り上げていた。


 声が出ずとも体が動くなら止められる。もうそんな短絡的な事しか考えられなかった。


 その思考停止は反って幸運だったかもしれない。


 反対に母の錫杖で乱暴に薙ぎ払われ、まるでくだらないモノを見る眼を向けられた痛みとショックが入り込む隙間を埋めてくれていたのだから。


 冷たいコンクリートに腹ばいになり、わき腹に広がる鈍痛が活力を食んでしまう。薄れ行く意識の中でも悠は最後まで手を伸ばした。

 

「誰か…助けて……」


 術の効果が残った蚊の鳴くような声で、ほとんど生まれて初めてかも知れない弱音を吐いたが、それは誰の耳にも届かない。


 そう、自分の耳にも届かなかった。


 代わりとばかりに彼女の耳に入ってきたのは、母と引き離すためにMr.Facelessが正拳を鵺に叩き込む轟音だったのだ。


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