The Birth of Mr.Faceless 2
この山は神邊家が主に山籠もりの修行のために管理している。場合によっては騒音が出たり、低級の妖怪を放して模擬的な妖怪退治などを行ったりしているため、周囲には民家や人の気配はない。
当然、メインの道路から離れると電灯も極端に少なくなり、月明かりだけではかなり心もとない。森の中とも言えば尚更だった。
しかし、今の裕也には闇夜の怖さはまるで感じられなかった。アシクレイファ粘菌は眼球機能にも作用しており、猫のようにさながら昼間と何ら変わらずに周囲の景色を視認できている。その事に妙に興奮を覚えた裕也は頭の中に思い浮かんでくる様々な機能や能力を試したい衝動を抑えきれなくなっていた。
次に裕也はしゃがみ込んだかと思うと垂直に跳躍した。まるで地球の引力に逆らうかのような感覚の中、裕也はゆうに10メートルは飛び上がっていた。華麗に木の枝に着地し、そこから枝から枝へ飛び移りながら山の奥へと進んで行った。
無重力か、さもなくば自分の身体が羽にでもなってしまったかのように軽快で、頭の中で思い描いたアクロバティックな動きが全てそのまま実現できていた。
興奮が次の興奮を呼ぶ。これだけ山中を飛び回っているのに息は乱さなかったが、鼓動と息づかいは早まるばかりだった。
ところが裕也が調子に乗って移動していると、弱っている枝に気が付かずに飛び移ってしまった。枝は簡単に折れ、その時にバランスを崩した裕也は枝もろとも落下していった。その時、反射的に防御本能が働いた。無意識の内に全身の汗腺からアシクレイファ粘菌を体表に抽出させ、肉体をくまなくそれで覆っていたのだ。
落下の衝撃はほとんどが吸収されてしまい、10メートル以上の高さから落ちたというのに、平地で転んだ時ほどのダメージもなかった。
「痛ぅぅ」
と、大したダメージもないのに条件反射のように口ずさんだ。
だが、これは正しく怪我の功名というモノだった。
頭の中にはアシクレイファ粘菌の凄まじい衝撃吸収性能の他、耐熱耐寒性能や伸縮性能の情報が駆け巡っていた。すると裕也の中に一つの発想が生まれた。今は咄嗟に防御するため全身に粘菌を張り巡らせたのが、最初から覆った状態で動いていれば不意のアクシデントにも対応する必要すらなくなるのではないだろうか、と。
皮下に強力な粘菌があるとはいえ、皮膚自体は再生された裕也本人のソレだ。外傷を負ったなら再びナノマシンが再生してくれるとは言え、初めから傷がつかないのならそれに越したことはないはず。裕也はそう考えて四肢は勿論の事、顔面や頭皮に至るまで全ての外皮をアシクレイファ粘菌で覆ってみた。
真夜中の山林のど真ん中に、まるで全身タイツに服を着た様な、面妖な何かが立っていた。
体内にも相当量の粘菌が残っているので運動性能が劇的に低下している事もなかった。むしろ体表に粘菌を現出させたことで、あのファストフード店での実験のように至る所に張り付いたり、離れたりが自在に行えるようになっていた。
そればかりか、やはり様々な感覚も人間の皮膚の感覚とは比べ物にならない程、鋭敏に感じ取ることができている。事実、アシクレイファ粘菌の影響で全ての神経は繋がっているのも同然なので、今の裕也は全身が目であり、鼻であり、耳であると言っても過言ではない状態なのだった。
360℃のパノラマを肉眼で見て、それを脳が処理をしているのが、堪らなく不思議な感覚だった。それは他の五感にも同じことが言えた。
裕也はその感覚を最大限に楽しみつつ、再び枝から枝への散歩を始めていた。
◇
夢中になり飛び回っていたせいか、裕也は気が付くと修行用の山を軽々と越えて真鈴町の見えるところまで戻ってきていた。
時刻や場所柄のせいで車は数える程も通らないので舗装された道路に降りてみることにした。すると数歩歩いた先にカーブミラーが設置してあり、裕也は初めてアシクレイファ粘菌で全身を覆った自分の姿を見た。
その洋服を着て鈍色の光沢を放つのっぺらぼうのような姿に、裕也は何故か既視感を覚えていた。
どこかで見た事がある。
(…どこだ? どこで見たんだっけ)
少しずつ、少しずつ記憶を遡って行く。それは子供たちが生まれるよりも、結婚をするよりも、操と大学で出会うよりももっと前の記憶へと辿り着く。
「…そうだ」
裕也は思わず呟いていた。
子供時代の誰にでも思い当たるような、懐かしく、それでいて気恥ずかしい記憶の一つ。
友達に借りたアメコミに嵌り、読み耽っているうちに妄想と想像が膨らんで、勝手に作ってみたヒーローがいた。授業中や休み時間にノートに書いていた自作のヒーローだ。あの時は画力が足りなくて、ヒーローの顔が上手く書けずにいた。だから開き直って『顔のないヒーロー』を書いて良しとしていたのだ。それでも十分に楽しかった。
裕也はそこまでは思い出せたのに、肝心のそのヒーローの名前が思い出せないでいた。喉まで出かかっているのに、どうしたって出てこない。
そうしている内に、後ろから一台の車が近づいてくることに気が付いた。こんな風貌の奴が道路に立っていたら、最悪事故を起こしかねない。そう思った裕也は大きくジャンプして再度森の奥に消えていく。
「なんて名前にしてたんだっけかな…?」
そして外出している時間もそう長くは取れないと、今更ながらに焦り出し、家に戻るために道なき道を急いだのだった。
◇
裕也は人目を忍んで人家の屋根や建造物の壁などの道なき道を通って、真鈴町の我が家へと何食わぬ顔で戻ってきた。帰宅したとは言え、裕也には掘っ立て小屋の自室に籠り、翻訳の仕事をするくらいしかやることがない。操がいない間に母屋をうろついてしまって、万が一にでも誰かに見つかれば義母へ告げ口をされ、いらぬ小言やいびりを受けるのだ。
今の裕也は行きのタクシーを使ったよりも早い時間で戻ってくる事ができたので暇を持て余していた。超人的な身体能力を駆使して、木々や屋根を飛び越して山からほとんど直線的に自宅に辿り着いていたので、それは無理もないことだ。
だが、幸いと言っていいものか。今の裕也には時間がいくらあっても足りない程に、やりたい事が出来ていた。そう思うほど、頭の中によぎるアシクレイファ粘菌の性質とその用途には魅力が詰まっている。
部屋に戻った裕也は押し入れの中に長年しまい込んでいた物の数々を取り出し始めた。記憶が間違っていなければ、自作のヒーローを書いていたノートを捨てるに捨てられず後生大事に持っていたはず。その他の思い出の品々と一緒に段ボールの肥やしにしてしまっているが、ひょっとしたら捨ててしまったのではないかという不安にも駆られていた。
けれどもそれは杞憂に終わった。
奥の方で埃をかぶっていた段ボールを空けると、その底の方から一冊の大学ノートがでてきた。表紙には少々粋がった字体で「HEROES I THOUGHT ABOUT(僕の考えたヒーロー達)」と書かれている。今見返せば恥ずかしくもなったが、どちらかというと懐かしさの方が強く心から滲み出てきた。
パラパラとノートをめくっていく。そこには正しく無垢な子供が一生懸命、それでいて真剣に妄想を重ねた末に生まれたヒーローが1ページずつ書きこまれている。ご丁寧に細かな設定や必殺技まで乗っていて、そのほとんどは覚えてすらいなかった。
自分で自分の愛くるしさに思わず口角を上げると、探していたお目当てのヒーローのページを見つけた。
「あ。これだ」
如何にも書きかけの絵で他のものに比べて書き込みも設定も中途半端なヒーローが描かれている。顔に関しては最早輪郭だけしかなく、スーツを着たのっぺらぼうのようだ。それを見て裕也は、スーツを着て教鞭を取る数学教師の服装をそのまま模写したことを断片的に思い出した。
具体的な事は書いていなかったが、ページの一番下に太いマジックを使い、表紙と同じ字体で名前が書いてあった。この書き方がえらく気に入っていたんだ。
「…Mr.Faceless」
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