The Birth of Mr.Faceless
裕也は起きてから時計を見た。高熱にうなされた翌朝のような心持だった。
時刻は18:49となっている。夜に動く稼業である神邊家は一日の家事を始める時間も昼夜逆転している。裕也や退治業に出ない隠居組、家政婦たちは日頃18時頃に起き出しては街に繰り出す家人を送る支度をするのだ。つまり裕也は一時間近くも寝過ごしてしまったという事になる。
いつもであれば青ざめて急ぎ駆け出す裕也であるのだが、例の夢のせいで頭も心もいっぱいいっぱいで焦りが入り込む隙間すらならかった。
台所に辿り着くと、やはり既に他の家人たちは食事の支度をしたりと動き出している。
全員が遅れてやってきた裕也に冷ややかな視線を送ってきた。皆すぐに目を逸らし、自分の仕事に勤しんだが義母だけがこちらに近づいてきた。
「遅いですよ、裕也さん」
「すみません」
「退治屋家業には毛程の役にも立たないのですから、せめてそれを支える家事くらいはまともに務めてもらわなければ困ります」
「…はい」
裕也の生返事が返って功を制したのか、義母はそれ以上は叱咤や嫌味を繰り返すことはなかった。
すぐに支度している者の中へと加わった。とは言っても既に粗方の仕事は終わっていたのでゴミの処理や洗い物、台所の掃除などの汚れ仕事をせっせとこなしていた。
その内に台所へ操が顔を出してきた。家政婦たちは恭しく頭を下げたが、操は裕也も含めて態度を変えることなく全員に明るく挨拶をした。
すると操がちょいちょいと手招きして裕也を呼ぶ。
「お早う、裕也さん」
「操さん、お早う」
「身体の具合はもういいの?」
「うん。お蔭ですっかりよくなったよ。心配かけてごめん」
「それならいいんだけど」
◇
やがて神邊家の朝食、一般の家庭であれば夕食となる食事を済ませる。部屋の中には裕也と操と義母の三人がいた。他の家人や子供たちは裕也の事を忌み嫌っているので、基本的には別の部屋で食事を取る。
義母の目が光っているので、こんな時でも裕也と操は気軽な会話も楽しむことは出来なかった。
そうして食事が済むと操や子供たちは夜の見回りと妖怪退治に向かうべく、玄関へと集まってきた。例によって裕也だけが洋装で送り出しているので大分浮いている。
「みんな、気を付けてね」
裕也の声は操にしか届かない。子供たちはまるで気にせずに玄関を出て前に待たせてある車に乗り込んでいった。
やがて操たちを乗せた車が門を出て町へ繰り出すと、今度は修行中の門下生たちが見廻りに出る支度をして続々と玄関から出ていく。
操や子供たち、または本家筋でなくとも特に霊力が強く素質ある者は、毎晩繁華街へと繰り出して、妖怪の悪事を防止、もしくは退治によって解決をする。妖怪共は人があまりに多い場所には力が弱まるため滅多に現れることはない。逆に言えば街中に堂々と現れる妖怪はそれだけ妖力が高く、危険度も跳ね上がるのだ。
修行者や中級程度の実力を保持している退治人たちは、専ら郊外へと見回りに出向き、小物を狩り、大妖怪にならぬように阻害をしたり群れを散らしたりなどして人気のないところで妖怪が力を蓄えられぬように目を光らせる任を預かっている。そうやって実践的な術や妖怪との戦い方を学ぶ。
なので夜になれば、戦えぬ隠居達と家事を行う家政婦達とが屋敷に残るばかりになる。そこで裕也は外出する旨を申し出た。どの道この家にいても裕也にはやることもないし、あったとしてもまともにさせてはもらえない。
昔は妻子に仕事をさせてのうのうと家を空けて…などという小言が飛んできていたのだが今では何も言われない。諦めたのか、それとも理由はどうであれ裕也には家にいてもらわない方がせいせいすると思っているのかは分からない。
家を出た裕也はまず愛車の止めてある駐車場へ向かった。
あれだけリアルな映像を垣間見て頭の中にある記憶が全て真実だと訴えかけていても、どこか信じ切れていない自分がいたのである。蘇生を施された後にあの宇宙人によって自宅まで送り届けられたという事は、車は未だにあの山中にスクラップとして転がっているはず。もしも駐車場に何事もなく愛車が置いてあれば、少しストレスが溜まってやけに現実味のある夢を見たのだと自分に言い聞かせることができる。むしろ、今となってはそう考えるのが最も自然のような気がしていた。
そう考えが浮かぶとどうにも気が急いてしまい、あと一つ角まがれば駐車スペースが見えるところまでくると、裕也は思わず走り始めた。
裕也は角を曲がる。そうして目に入ってきた光景に面食らってしまった。
いつものスペースに確かに裕也の車は停まっている。だがどう見てももう動くことはない。裕也の車のタイヤは全てが破裂し、ガラスは粉々だった。そればかりかまるで炎上したかのように車体の半分以上が焼け焦げていた。
「…」
ご丁寧に廃車確定の車まで送り届けてくれたことに感謝すべきかどうか、裕也は分からなくなってしまった。少なくともどこに連絡して処分すればいいのかと困惑していた。
騒ぎになる前に、と頭に過ぎったが思えば今日一日置きっぱなしになっていたのだがら、それは今更であろう。
車を見てそれまでの感情が変な諦めになると、裕也は馬鹿に冷静になって行く自分に気が付いた。
裕也はその足で更に歩いて郊外にあるファストフード店に入った。家の者に見つかると少々面倒だが店舗は家から大分離れたところにあるし、念のために二階に席を取ったので見られたのならその者も大概だ。
空腹ではなかったが無性に甘いものが欲しくなった裕也はLサイズのコーラとアイスクリームを頼んだ。二階の端にあるカウンター席でそれをチビチビと口にしていると、糖分が血管を通って全身に流れていくような、そんな感覚をも味わっていた。
そうして身も心も一段落ついた頃、裕也はじっと目を閉じて頭の中の情報と向き合ってみることにした。
◇
裕也に投与されたアシクレイファ粘菌とやらは、これを施して行った宇宙人たちの母星では軍事目的と医療目的の二つの用途があるらしい。より正確に言えば、その粘菌の中に組み込まれたナノマシンに秘密がある。
そのナノマシンの最大の効果は細胞分裂を細胞劣化速度を極端に低く保ったまま促進することにあった。ところが実験は想像以上の成果をもたらし、欠損した細胞の修復や、新陳代謝の活性化、感覚機能の強化などの効果を副産的に生み出した。更にDNAを自動で読み取ってあらゆる生体に適合する効果や、神経を介しナノマシンの制御を脳波でコントロールできる機能などが続々と付与されていった。そしてそのアシクレイファ粘菌は今も皮下に保たれて裕也の生命維持活動に大きく貢献している。
裕也は頭に過ぎったアシクレイファ粘菌の使用法を可能な限り試してみたくなった。
まず皮下にある粘菌を汗腺を通して、手の平の表皮に出すように念じた。まるで腕や足の他に動かせる四肢が一つ増えたかのような感覚だ。事実、神経を駆使して操れるのだからその感覚は決して間違いではない。
そして裕也の右の掌に光沢感のある鈍色の粘菌が現出してきた。片栗粉に加水して固めた様な、そんな感触が伝わる。
裕也は人差し指を机に押し付けて、それを上に伸ばしてみた。途端に粘菌が机に粘着したまま糸を引く。面白く感じたのは、その粘り気を見せる粘菌にも感覚があることだった。カウンターテーブルの無機質な冷たさや質感が、粘菌を通して確かに感じられた。次に粘菌に机を離すように念じてみると、すぐに剥がれて巻き尺を戻す様な勢いで指先に戻って行く。
なんだかプチプチの緩衝材を延々と潰せるような妙な楽しさというか中毒性があり、裕也は人目を忍んでしばらくの間、同じ動作を繰り返していた。
そうしているうちに、何だかもっと大胆に身体を動かしたくなってきた裕也は、気が付けば店を出てタクシーを拾っていた。
三、四十分ほどタクシーに揺られると、神邊家が保有している私的な山の麓までやってきた。こんな夜更けに山などに向かっていたので運転手には大層心配され、気味悪がられたが、神邊の名前を出すとすぐに納得のいった表情になり、日頃の感謝と激励の言葉を送ってきた。きっと霊能者か何かと勘違いされたのだろう。訂正するのも気が悪いと思ったので、裕也は適当に相槌をうって誤魔化してしまった。
タクシーを見送ると裕也は人気のない夜道を歩いて夜の森の中に消えていった。
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