第二話 〝イイナズケ〟って、何?

 学校のろう下を三人の女子が、話しながら歩いていた。


「……あ。私、トイレに行くのをわすれてた。

 急に奏也くんが入って来たから、びっくりして……」

「もう一回トイレ行く?」

「ううん、なんか引っこんじゃった」

「やだー、あはは。女子トイレにまちがえて入るなんて、奏也くんくらいなものよね。ほんと、おかしい!」

「うんうん。でも、奏也くんて……な~んか、ほっとけないんだよねぇ」

「えーそう? 〝いつも先生にしかられてるソーヤくん〟よぉ?

 私は、どっちかっていうと、白山しろやま 晃牙こうがくんのほうがタイプだなぁ」


 ポニーテールの桂木かつらぎ 加奈子かなこが言った。

 それを聞いた二人は、おたがいの顔を見合わせて、首をひねる。


「白山くんかぁ……たしかに顔はカッコイイけど……ちょっとこわくない?」

「そうそう。こわいウワサも聞くしね……。

 それよりさぁ、この前のスポーツテストで、奏也くんが……」


 女子たちの笑い声が、ろう下にひびく。

 すると、三人の目の前に、長いかみの毛をこしまでのばした女子が立ちふさがった。白いフリルのついた黒色のワンピースを着ていて、まるでお金持ちのおじょう様のようだ。

 おじょう様は、キリリと目をつり上げて、三人の女子たちをにらんで言う。


「ちょっと、あなたたち。今、奏也の話をしていなかった?」

「あ、柏崎かしわざきさん。

 ……う、うん。してたけど……それがどうかした?」


 桂木かつらぎ 加奈子かなこが聞き返した。柏崎 ゆかりとは、同じ五年一組だが、あまりしゃべったことはない。


「奏也は、私の許嫁いいなずけなの。奏也に近づかないでくれるかしら?」

「え、〝イイナズケ〟って……何?」

将来しょうらい結婚けっこんの約束をした人同士どうしって意味よ」


 しかし、それを聞いた三人の女子たちは、本気にしていないのか、笑っている。


「ふーん……でも、近づいてきたの、奏也くんよ。

 女子トイレにまで入って来たんだからぁ」


 にやにやと笑いながら言う加奈子に合わせて、他の二人もくすくすと笑う。

 しかし、紫は、顔を真っ赤にしておこった。


「このっ……泥棒猫どろぼうねこっ!」


 紫は、そうさけびながら加奈子のポニーテールをむんずとつかみ、力まかせに引っった。


「きゃー! いたいいたいたいっ! ……何すんのよーっ!」


 おこった加奈子は、仕返しにと、紫のかみの毛を引っ張る。


「きゃー! いったいじゃなぁ~い、何すんのよ、この女狐めぎつね!」


 紫と加奈子は、おたがいのかみの毛や服をつかんで、引っり合いを始めた。

 その様子をそばで見ていた女子二人は、あわてた。


「ちょ、ちょっと……二人とも、やめなよぉ~」

「私、先生を呼んで来る!」


 一人が先生を呼びに行って、もどって来た時には、大変なことになっていた。


 加奈子のポニーテールはくずれて、平安時代の女性のような頭になり、ほっぺには、ツメで引っかいたようなきずあとが出来ていた。


 紫は、かみの毛をっていなかったので、あまり変わっていないように見えたが、耳の下と首元には、やはり同じようにツメで引っかいたような傷が出来ていたし、着ていたワンピースの白いフリルが所どころやぶれていた。


「ちょっと、二人とも何をしているの?!」


 五年三組の担任をしている河合かわい先生だ。

 二人が取っ組み合っている様子を見て、あわてて二人を引きはなす。


「先生! 柏崎さんが、いきなりおそいかかって来たんです!」


 加奈子は、目を真っ赤にして、さけんだ。

 それを聞いた河合先生は、おどろいて紫を見る。


「柏崎さん! これは一体、どういうことなの?」


 しかし、紫は、負けじと加奈子をにらみつけた。


「この女が悪いのよっ。私のフィアンセをしたんだから!」


 加奈子は、目になみだをためながら、自分のうでを見せた。そこには、くっきりと赤い歯型はがたが付いている。

 それを見た河合先生は、びっくりして目を丸くした。


「私、かみ付かれたんですよ?!」

「何言ってるのよ、あんただって、私の顔にキズをつけたじゃない!

 私の顔にキズをつけていいのは、奏也だけなんだから!」

「何言ってるのよ、あんた頭おかしいんじゃないの?!」


 河合先生は、もうどうしていいのか分からず、頭をかかえた。

 でも、このまま二人を放っておいたら、また取っ組み合いのケンカが始まってしまいそうだ。


「……先生、ぜんぶ奏也くんのせいなんです!」


 それまで二人のケンカを見ているだけだった一人の女子が言った。

 その言葉に、先生を呼んで来た女子がうなずく。


「そうよそうよ。奏也くんが女子トイレに入ってこなければ、こんなことには……」


 河合先生は、顔をしかめた。


「え? 女子トイレに?

 〝奏也くん〟って……富瀬とみせ 奏也そうやくんのこと?

 ……まさか、トイレそうじにかこつけて、女子トイレに入るなんて……ああ、私がいけなかったんだわ。トイレそうじなんて、言いつけたから……!」

「先生が奏也を……? このっ……女衒ぜげんものっ!」


 紫は、キッと河合先生をにらんで、目になみだをうかべた。


「えっ、〝ぜげん〟……? 〝偽善ぎぜん〟の間違いかしら?」


 河合先生は、紫の口にした言葉の意味が分からず、目をぱちくりさせた。


「うぅ~……奏也のばかーっ! 浮気うわきものー!」


 とうとう紫が、えんえんと声をあげて泣きだしてしまう。

 その様子を見た河合先生は、ようやく事情じじょうを察したようだった。紫の中に手を当てて、優しく声をかける。


「……柏崎さん。男の子は、富瀬くんだけじゃないわよ。

 女子トイレに入るような男の子なんて、好きになっちゃダメ。

 柏崎さんみたいにかわいくて頭もいい女の子なら、もっと相応ふさわしい男の子がきっといるわよ!」


 河合先生の熱い眼差まなざしを受け、紫は、なみだにぬれた目で先生を見上げた。


「先生……」

「柏崎さん……」


 河合先生は、紫の目を見て、自分の想いが伝わったことをよろこび、むねを熱くした。

 教師とは、こうやって生徒たちを正しい方角へとみちびくためにある。これこそ教師という道を選んだ自分の本望なのだ……と。


「奏也の悪口を言うなら、たとえ先生だろうと、私、ゆるしませんからねっ」


 紫は、ふんっ、と長い黒かみを手ではらうと、さっきまでのなみだはどこへやら、きりっとした表情に変わって言った。

 そして、くるりと背を向けると、つかつかと足音を立てて、去って行く。

 後には、ぽかんとした顔の河合先生と三人の女子生徒だけが残った。

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