第3話 鰻とカレーと焼き鳥と・もう動けない!
飲食店から流れ出る気高き食の香が、空腹に喘ぐ胃の府を刺激する。
私の鼻腔は、もはや食の香以外を受け入れようとしない。
夕刻の商店街は食の坩堝だ。
意識せずとも、勝手に足先が右にフラッ左へフラッ傾く。
香しき煙めがけて歩が進む。
もはや無意識の意識は食欲一色となっている。
色欲一食ではない。
明日の昼から入る予定だった中華食堂の暖簾をそっと開き、ガラス戸越しに覗き見る。
昼食時が書き入れ時の中華料理屋。
この時間帯には一人二人の客がテレビを見ながら、グズダラ飲み食いしているのが常だ。
これまでの動きとして、夕方からは居酒屋に客が流れていく。
この動きに従い、バイト先を居酒屋に変えていた。
しかしながら、今夜は今までと状況が異なっている。
居酒屋亡き後、きっと昼間からの居残り客で賑わっているはず。
この予測下で来てみたけど、実情は希望とかけ離れたものだ。
店主が客席に座ってテレビを見ている。
バイトの押し売りは買ってもらえそうにない。
もはやよだれさえ出てこない。
困窮した胃袋をなだめるように、腹部を優しくスリスリする。
すっかり暗くなった空に瞬く星を仰ぎ見て、中華料理屋に背を向けた。
少しばかり歩き、鰻屋の前で足を止めた。
止めたはいいが、この店は随分と前に辞めている。
本来なら高価な鰻より、安価な物でまかなうべきところだろうが、店先で持ち帰り用蒲焼の煙をまき散らして購買意欲を刺激する商法だった。
毎日のように売れ残りが出ていた。
店としては仕方なく、鰻をまかないにまわしていた。
これには流石に飽きていた。
それでも食べられないよりはいい。
ずっと続ける気満々だった。
ところが、忙しいのは夏場の鰻シーズンに限っての事。
秋になるとアルバイトは不要。
季節限定のお仕事だったのさ。
臭いにつられて立ち止まってしまったけど、臭いだけで猛獣と化した腹の虫を満足させるのは、どんな超人でも不可能だ。
かえって状態を悪化させるだけと悟った。
それに、あれから三ヶ月もたっている。
店主に声さえかけられず、数分間オドオド。
うつむいたまま回れ右。
一本離れた路地を右に入ると、しゃれた雰囲気の洋食屋がある。
白いアーチ扉の両脇に小さな花壇。
一年中何等かの花が咲いている。
先月までやっていた週一バイト。
まかないに関して言えば、イタリアンはどうだ、やれ今日はフレンチにするか。
選り取り見取り。
文句なしの百点満点だった。
ところが、オーナーシェフの急病で店を閉める事になった。
一月程して入院先へ見舞いに行った時「もうすぐ退院だからね」と言われたのを思い出した。
少しばかり余計に歩かなければならないけど、気になって寄ってみた。
冬だというのに誰かが面倒見ているようで、花壇には花が綺麗に咲いている。
でも、まだシャッターは閉まったままだ。
「あーあー、ここの生姜焼き極旨だったのになー。早く退院しないかな」
食をあてにしていたのではない。
優しくて面倒見の良かったシェフの、元気なが顔見くて寄った。
精神面への打撃は計り知れない。
商店街に戻ると、去年勤めていたカレー専門店が見えた。
「三十五種類のスパイスを云々」と謳っておきながら、実際は十二種類しか使っていないのを知っている。
顔を出す気にはなれない。
一瞬立ち止まって、店が垂れ流すカレーの臭を一嗅ぎする。
「今日はカレーの気分じゃないの」
凡そ同じような経験の持ち主であれば、私の歩行法には共感の持てるところだろう。
「できるだけ体力を使わないようにね。道の端っこを、ゆっくり歩いた方がいいかな。余計なエネルギー消費で、今ある空腹感に輪をかけたくないものね」
中華料理屋から昼食客が引けてしばらくすると、商店街は夕餉の買い物客で賑わう。
この頃になると、焼き鳥屋の売り声に勢いがついてくる。
つい先程まで、私が客の相手をしていた。
いつもはまかないの出てこない店だ。
時々、残りの焼け過ぎ焼き鳥をもらえる。
そんな時は、贅沢に缶ビールを買って帰っている。
ピタッと焼き鳥屋の前に止まる。
何時もと違った店前の様子に、ささやかな希望が湧いてきた。
町内で一番客席数の多かった居酒屋が、一夜にして商店街から消滅した反動だ。
隣の酒屋で酒を買った飲兵衛が、焼き鳥片手にたむろしている。
しかーし、希望がわいたのも束の間。
つい最近出戻って来た昔の看板娘が、実家でのグ~タラ生活から脱却し、笑顔で接客に勤しんでいる。
「情緒不安定は治ったのか。養育費の心配はないのか。そんな所で手伝っているより、外に出て働いた方が稼げるぞ」心の中で叫んだ。
このままでは、明日からのバイト入りさえ危ぶまれる。
近くで【店長の孫娘=今現在飲んだくれの客に惜しみなく愛想を振り撒いている古くなった看板娘】の子供が、寂しそうにしている。
気になったので声をかけてみる。
もちろん、今後どのように自分の立場が変わるのか予想するための情報収集だ。
「ねえ、お母さんはー、いつまでこのお家にいるのかな?」
「知ってるけど知らない。おでん買ってくれたら教えてあげる」
人の足元を見るのは好きだが、子供にまで足元を見られるのは嫌なものだ。
私だって例外ではない。
ただ、この緊急時にあっては四の五の迷ってはいられない。
電気代の振込用紙をチラッと見て「今月は使い過ぎたかな」
勢いよく四つに切ってバックに詰め込む。
なけなしの電気代流用に手を染めた。
「あのねー、私ねー、明日からこっちの小学校に通うんだって。ずーっと、おじいちゃんと一緒だよ」
とどめを刺された。
この発言には、私を地獄の劫火で二度焼きさせる程の威力がある。 すきっ腹を抱えている私に、ほんの一口味見もさせず、この上ない笑顔でウインナー巻を頬張っている少女は知る由もない。
通りを歩く人達は、カーテンコールで輝かしい照明を浴びている役者のようだ。
それとは裏腹、私だけがブラックホ―ルの闇に閉じ込められている。
最悪の事態は、思ったより早くやってきた。
「シャワーは気合を入れて水で我慢すればいいか。電気は諦めるとしても、ガスと水道だったらガスを切るしかないわよね」
心の声が声帯を振るわせ、小声の決意となって零れ出る。
しゃがみこんで財布の中を確認。
「せ、千五百二十五円‥‥‥こうなったら、やけ酒かな」
目の前の酒屋に入って缶ビールとカップ酒を買うと、焼き鳥屋から逃れるようにその場を立ち去った。
急ぎ足のつもりでも、世間様から見ると力なく無気力な足取りなのは隠せない。
ここまでくると命取りの空腹だな。
「とっとも危険なデンジャラスー。もう動けない」
生命の危機に気づくまで時間はかからなかった。
スーパーの入口までやっとの思いで辿り着く。
「ダメ! 負けたらダメ! がんばれ私」自分で自分を応援する。
もはや人の目など気にしていられない。
残された時間はあと僅か。
スーパーに入り、備蓄ゼロの食材を仕入れ、家路を急ぐ。
私が生き残る術は、これ以外になーい。
目の前にある厳しい現実。
命懸けの買い物なんだわ。
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