第2話 バイト先のオヤジが夜逃げした
私の名前は菜花奈都姫(なばななつみ)
秘密歳・独身。
身長155cm。
スリーサイズ・秘密のDカップ。
「スタイルがいいわねー」などと人様は言うが、お腹いっぱい食べられなくて太れないだけだ。
とてもではないが褒められているとは思えない。
就活をしながら、掛け持ちアルバイトに追われる毎日。
貧乏暇なしとはよく言ったものだ。
嬉し楽しい給料日、ついうっかり不器用なスキップでお店に来てみれば、アルバイトをしていた居酒屋が突然の閉店。
入口には【差し押さえ】赤字の紙が張ってある。
私物を取りに入る事もできない。
事前説明などなかった。
当然のように給料は未払い。
謝罪などあろうはずもない。
それでなくても同情を禁じ得ない一人暮らし。
よりによって、何でこの時期に夜逃げしてくれるかな。
わずかばかりのバイト代くらい、払ってから雲隠れしてほしかった。
遺恨を残さないのが美しいトンズラ作法というものだ。
旅立つ鳥が辺り一帯を汚しまくりやがった。
つまらない倒産劇に巻き込まれてしまったのは確かで、バイト代の回収が不可能なのも確か。
バイトは色々とやってきたから、仲間からこの手の話はよく聞いていた。
えらく酷い目にあったなんて言っていたけど、私の場合は死活問題へと発展する。
今が不幸のどん底だと思っていたこの身に、火の粉が振り掛かってこようとは。
人生にはどん底よりも深く計り知れない、絶望の暗黒があると初めて知った。
大きく展開している会社のチェーン店だったので、まさかそんなと思える事件。
よくよく話を聞けば、チェーン契約はとっくに終わっていた。
錆びた鎖は簡単に切れるものだ。
こうなったら潔くあきらめるしかない。
それはそれとしても、これからどうしよう。
四人いたアルバイトの給料は誰にも支払われてなくて、店の前で呆然としていた。
隣の喫茶店のおばちゃんが「外は寒いから、中に入って話なよ。コーヒーで良かったらおごるよ」
おばちゃんは居酒屋の常連で、いつも威勢よく飲んでいた。
乱暴な人だと思っていたけど、実は優しい人だったみたい。
「大変だったねー。まあ気を落とさないで、まだ若いんだからさ、いくらだってやり直せるよ」
コーヒーを出しながら、刑事ドラマの台詞みたいな言葉で慰めてくれるおばちゃん。
気を使わなくても、私以外の三人はそんなに落ち込んでいないから。
「私、もう一人暮らしやめて実家に帰ろうかな。このままここに居ても、真面な仕事見つかりそうもないし」
頼る親と帰る所のある奴は良いよな。
「俺は次のバイト捜してあったからな、早めにシフト入れてもらうよ。仕送りもあるから、何とか卒業できそうだし」
なんて用意周到なんだ、夜逃げの予感でもあったのか。
だったら何故、誰にも言わず自分だけ次のバイトを決めていた。
薄情者。
「僕は就職決まったから、しばらくはのんびり過ごそうかな。一人で温泉旅行なんてのもいいかなー」
どこからそんな余裕が出て来る。
金の卵を産むウズラでも飼ってるのか。
雛がかえったら一羽おくれ。
「‥‥‥」
私は何も言えなかった。
無料なので贅沢は言えないが、喫茶店で出されたのはコーヒーだけだった。
バイト先で出される仕事前の軽食をあてにしていた身としては、寿命が縮まる空腹感。
今日の給料がなくなったとなると、手持ちは残りわずかしかない。
商店街の街燈に灯が入ると、師走の寒さが一段と身に染みてくる。
もうすぐクリスマスだというのに、一緒に過ごす人も居なければケーキを買う余裕もない。
にこやかに外食している人達。
どの人も裕福な貴族様に見えてくる。
一方私は、光熱費の支払いを毎月のように迫られる銭の奴隷。
もっとも、返済が遅れて催促されたとしても、ない袖は振れない。
バイト仲間ではあるものの、友達ではない三人と別れて帰路につく。
みぞれ交じりの雪まで振りだして、身も心も氷点下に冷え切ってしまった。
イルミネーションが綺麗に飾られた商店街。
一人背を丸めて歩く。
インターロッキングのちょっとした段差に、つまづいて転びそうになる。
たった1ミリ。足を上げて歩く気力さえ失せてしまった。
これまで三件掛け持ちだったアルバイト、一件減ってしまって残るは二件。
まだ二件あるから大丈夫などと呑気な事は言っていられない。
収入がいきなり三分の一以上減ってしまったら、電気・ガス・水道代が払えなくなってしまう。
既に電話はなくなっているので問題ないとしても、電気のない暗闇はホラーの世界に引き込まれそうでとっても怖い。
ガスが使えないとなると、数少ない娯楽である御風呂に入れない。
結果として不潔にしていたら、食べるに困らないだろうと飲食店に限っていた他二件のバイトも解雇されかねない。
水道を止められたりしたら、御風呂はもとよりトイレも真面に使えなくなる。
想像するだけで空恐ろしい光景だ。
もっとも憂慮すべき点は、貴重な栄養源であるラーメンのお湯にも不自由する。
どれ一つなくなっても、文化的生活からほど遠い住まいになってしまう。
強いて一つを犠牲にするなら電気か。
いつでもからっぽなので、随分前から冷蔵庫のコンセントは抜いてある。
寒さは寝袋に潜っていればなんとかしのげる。
テレビは壊れていて映らない。
ラジオなら電池で聞ける。
スマホも携帯も持っていないから充電の必要ないし、どうしても灯りが欲しかったら懐中電灯を使えばいい。
ちょっと待て。
電気がなくなったら、ガス湯沸かし器が作動しない。
命から五番目に大切な入浴が選択肢から消える。
ここまで考えて、速やかに次のアルバイトを捜すべきだと気づいた。
本心を言うと、アルバイトより正社員として就職したいけど、バイト仲間が言うように、この地域では正社員の募集が年に数件しかない。
希望する職種につくなんてのは夢のまた夢。
そんな事ができたなら、親戚一同総出の大宴会が催される。
正社員への道のりは決して生易しくない。
このような思考ができるのだ。
まだ生命維持限界点には達していない。
それにしても、私の空腹感は今の状況に適応できていない。
エネルギー不足で残り少ない体脂肪を燃焼させている音が、朝からずっと耳の奥で響いている。
人はこの現象を耳鳴りと言うらしい。
私の場合は原因が分かっているから、耳鳴りではない。
耳鼻科を受診するまでもないだろう。
受診したくても、国民健康保険証がない。
思い切って生活保護受けようかな。
身よりのない独り身だし、家は持っていても固定資産税を二年ばかり滞納している。
市役所に行ってら、今住んでいる家を売りなさいって始まるだろうな。
売ったら売ったで所得税を払って、たまっている税金や相続税だのって、結局幾らも残らないし。
急場はしのげても、その先はどこに住めばいいの。
やはり、超特急で次のアルバイトを捜すべきだ。
それにしても御腹減った。
家に辿り着く前に、身元不明の行き倒れになってしまいそうだ。
これまで色々とお世話になって来た商店街の方々に、野ざらし風葬死体の御迷惑はかけられない。
ひとまず何処かのお店に入って、胃袋の中で暴れている餓鬼に何か食わせてやるか。
ここで大きな問題は、電気代と思って持っていた現金しか持ち合わせも貯えもない。
バイトの日じゃないけど、無理やり店に入ってまかないをゲットするか。
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