第11話


 半歩後ろを歩きながら、想像の海に溺れるうち、私は巨体の喉元に辿り着いていた。

 ここは、人命を救う場所。

 日常の中で感じるものとは違う、緊張感。

 置いていかれないように、足を出す。そして自ら、のみ込まれる。

 手際よく手続きや連絡をこなすユウくんの、ほとんど後ろにくっついて、私は怯えながら移動した。

 人混みは別に苦手じゃないと思っていた。現に、桜まつりの時は、ごく自然に歩いていた。ひとりぼっちだって平気だった。そりゃあ、二人や三人だったらもっと楽しかったのだろうけれど、ひとりだって充分に雰囲気を満喫することができた。

 けれど、今は。

 待合スペースで待つ人が、廊下を歩く人が、働く人が放つ何かが、刺さって痛い。絶望の淵にいるのだろう、心ここにない人とすれ違った時、ビクッと指が震えた。身体丸ごと震わせなかったことを自分で褒めたくなるくらい、抑えきれずにビクッと震えてしまった。

 エレベーターに二人っきりで乗り込むと、ほんの少しだけ心に落ち着きが戻ってくる。でも、独特の香りが、全てをいつも通りにはしてくれない。

「こっち」

「ああ、うん」

「……緊張してる?」

「ああ、いや……。大きい病院、来たことなくて」

「そっか」

 それ以上、聞かれなかった。聞かれたら、私はどうなっていただろう。疑問に深入りしないことの優しさを、ひしひしと感じる。

 大部屋の前で、足が止まった。

 私は少しぼーっとしていたから、足を止めて、と足に指令を送るタイミングを誤った。危うく、ユウくんにぶつかるところだった。

「ここ」

 呟いて、コンコンコン、とノックする。

 中にいるのがひとりではないからなのだろう、返事を待たずに、扉を開けた。

「失礼しまーす」

 入ってはいけない場所に、こっそり入る時みたい。囁き声と、低姿勢と。

「あ、ユウにぃ!」

 間髪入れず、キラキラとした声がした。

 その声の主は、声とよく合う笑顔を浮かべていた。年相応の、といっても良さそうな、無邪気な顔。違和感を覚える点があるとすれば、彼の頭皮が剥き出しだということ。

「よっ! タツキ。調子良さそうだな」

「えへへ。今日はいい感じなんだ。さっき母ちゃんに『調子乗りすぎ』って怒られたところ」

「ほんっともう! ……ユウくん、いつもありがとうね」

「いえいえ。あ、こちら、この前話したサキさん」

「こんにちは。はじめまして。タツキの母の、カレンといいます」

「あ、えっと……。はじめまして……?」

 瞬間、疑問が渦巻いた。

 カレンさんと私は、はじめましての関係なのだろうか、と。

「あら? もしかして、覚えてくれてた?」

「えっと、桜まつりのとき」

「そう! やだ、嬉しい。けど、なんで覚えてくれてたの? わたし、何か変なことした?」

「もー。母ちゃん、口の端っこに米粒でもつけてたんじゃない?」

「ええ、そんなはずはないって。だってあの日、お母さんはパンしか食べてないもん! 米粒がつくタイミングなんてありませ〜ん」

 話そうとした。けれど、完全にタイミングを失った。会話を切り裂いてまで、私はそれを語りたいとは思わない。だから、ただ――幸せな、家族の会話を間近で聞いていた。

「それで、結局のところ、どうして?」

 タイミングが、旅から帰ってきたらしい。

「すごく、印象的な表情だったので……」

「あ、母ちゃん、『お腹減ったぁ、たこ焼き食べたいぃ』って顔してたんでしょ!」

「そんなことないから! たこ焼き食べたかったのは事実だし、お祭りの終わり際にたこ焼きを食べたのも事実だけど、顔には出してないから!」

 話のボールは、すぐにどこかへ飛んでいってしまう。

 微笑み、そのボールの流浪を見守っていると、

「こんなに調子がいいの、久しぶりに見た。あんまりテンションあげすぎると、後が怖いや」

 ユウくんが、悲しそうな目をして笑いながら、囁いた。

 

「それじゃあ、お母さんはたこ焼き食べにいってくるわ」

「えぇ、ずる〜い」

「うっそ〜。ちょっとコーヒー飲んでこようかな」

 カレンさんは、言いながらユウくんの目を見て、企み混じりに笑った。

「どうぞ、ごゆっくり」

「しっしっ!」

「なんだとぉ! ふーんだっ!」

 追い出されるように去っていく、明るい背中。ひらひらと振られた手が、「よろしくね」って喋った気がした。



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