第10話


 時々風邪をひくし、虫歯を作ってしまうけれど、幸せなことにこれまで大病を患うことはなかった。

 だから私は、大きな病院とは無縁だった。

 地域の病院に行く時は、聴診器を当てられそうだったらワンピースはやめておこうとか、注射を打ってもらいにいくから腕を出しやすい服にしようとか、そんなことを考える。

 日常からほんの少しだけ外れただけの未来へ向かう服装は、いつもと違うことを考えないといけないけれど、それは負担になるほどに難しいものではない。

 じゃあ、大きな病院の場合はどうだろう。

 自分は健康だ。

 生理が近くなればイライラしたり、始まってみたらあちこち痛くなったり、そういう不調はある。でも、総じて健康。

 だけど、向かう先にいるのは、何か不調を抱えて、苦しい思いをしている人たち。となると、〝私は元気いっぱいです!〟って服装は、よくない気がする。

 派手な格好をする気なんてもともとないけれど、じゃあどんな格好が無難なのか、わからない。控えめにしすぎたら喪っぽくならないか。そんな服装は、病床にふせた人々の心に、厚い雲を垂れ込めないか。

 迷い続ける自分に笑えてくるほど、悩んだ。悩んで悩んで、オフィスカジュアルに身を包む。

 これが多分、私にできる、一番無難な格好。

 メイクは、いつもの調子じゃ、濃いだろう。薄めがいい。すっぴんみたいなやつ。だけど、すっぴんじゃ嫌だ。恥ずかしい。バランス感覚がよくわからない。困った。また悩む。

 悩みは何度でも、湧き出してくる。

「なんでそんなにかしこまった格好?」

 待ち合わせの五分前にそこへ行ったのに、ずいぶん待っていたらしい、文庫本片手のユウくんに問われて、私は頬が熱くなるのを感じる。

「な、なんとなく」

 もっと上手く、誤魔化せたらいいのに。

「そっか。あ、あのさ……」

「ちゃんと持ってきたよ」

 言葉の終わりを待ちきれず、聞かれただろうことに答える。言葉にしてから、想像通りの問いだったか不安になって、自分の言葉と通じるものが何かをアピールするために、カバンをポンポン、と二度叩いた。

 ふんわりと優しい眼差しが、私を丸ごと包み込む。

「サンキュ。じゃあ、行こっか」

「うん」

 ちょっとそこのコンビニまでコーラを買いに行く時みたいな、カジュアルな服で身を包んだユウくんの、半歩後ろをついていく。風がふわぁって柔らかく吹いた。私の髪が、風に泳いで、薄いメイクを攫おうとする。

「あ、ごめん。コンビニ寄っていい?」

「ああ、うん」

「タツキに差し入れ、買っていってやろうと思って。本読んでないで買っておけばよかった。ごめん」

「ううん。ヘーキ」

 店内に足を踏み入れると、真っ先にお菓子コーナーへと向かった。このコンビニにはよく来ているみたい。その足取りには、少しの迷いもない。

「うーん」

「良いのなかった?」

「ううん。ありすぎて悩んでる。どれにしようかなぁ」

 小分けがいいか、とか、このくらいなら平気か、とか、大真面目に悩みながら、クッキーを見てる。その目は、駄菓子屋さんで必死にお宝を探している少年のようにキラキラと輝いていた。

「これにする」

「あ、美味しいやつ」

「食べたことある?」

「うん。仕事の合間のおやつ、よくコンビニで買ってるし。新商品とか見つけたらすぐに食いつくタイプだから」

「へぇ、そうなんだ」

「意外?」

「ううん。そんなことはない。でも、なんかずっと同じのを食べてそうって気が、ちょっとしてた」

 買ったクッキーを手に、病院へと歩き出す。太陽が地をじぃと見下ろした。頭のてっぺんが熱くなる。アスファルトが跳ね返した熱が、じんわりと身体をあたためる。

 緑の香りが鼻をくすぐった。

 近くの公園の木が、ゆらゆらと踊っている。

 一枚、また一枚、葉が落ちた。

 歩道の花壇には、植えたばかりらしい、色とりどりの花。

 すでに視界には、〝タワマンとかじゃない、よくあるマンション何棟分あるんだろう〟と考えずにはいられない、白い巨体をとらえている。

 あそこから、この花は見えるだろうか。

 見えたとしても、きっと胡麻粒のようなものだろう。

 あそこにいる人は、この花の存在に気がつく機会があるだろうか。

 ふと、そう考えて、なるほどだからこの花壇は綺麗なのかと、ひとり勝手な結論に至る。

 退院したときに通るだろうこの道を、祝福の道とするために、誰かがここを美しく彩っているのだろう、と。



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