第9話
転校なんて、自分の意思でするものじゃない。親の仕事の都合とか、家族の都合とか。ほとんどはそういう、自分ではどうにもできない理由で、学校を離れるんじゃないか。
仮に初恋の相手でも、ふらりすれ違った時に気づけるほど、容姿の特徴を頭に刻み込むだろうか。
仮に再び恋の落雷があったとしても、それがあの日のその人と、その瞬間、紐づくものだろうか。
オレンジジュースを口に含む。
さっきまでは甘酸っぱかったはずのそれは今、なんだか苦い。
「もしかして、なんだけどさ」
「うん」
「アイちゃんって……」
「うん。死んだよ。むかーし、むかし。小児がんでね」
その告白は、驚くほどに軽やかだった。
表情にも声音にも、それまでに感じていた重みを感じない。背負っていた大荷物をおろして、まとわりついていた枷を壊して、手に入れた自由を抱きしめて踊るように、晴れやかだった。
「レモネードスタンドは、アイのことがきっかけで手伝うようになったんだ。結構長いことやってるからさ、ちょっとは頼りにされてるかなって思ってる。正直言って、仕事よりもやりがいがある」
「そっか」
「でも、募金をいただいてもさ、それが必ず、誰かの未来に繋がるってわけじゃないことを、近くで見るのは時々辛い。誰かは助かるかもしれない。でも、全員の命は繋げない」
「うん」
「今ね、仲良くしてくれている子がいて」
「うん」
「その子、白血病でね」
「治療は――」
問いながら、渇きを癒したくて、オレンジジュースに手を伸ばす。
「うまくいってるような、いってないような」
ブルッと手が震えた。カラン、とほとんどとけた氷が、最後の声をあげた。
喫茶店を出る頃には、夜の気配が街を覆っていた。
どこからか流れてくる、カレーの匂い。
「ごめんね、こんな遅くまで付き合わせる気はなかったんだけど……」
「いいの。次に会う約束まで、しっかりできたし」
「なんで、こんなに時間くれるの? 時間は有限だよ? 人間、明日も生きている保証なんて、ないし」
「だって――」
「ん?」
「私だって、本命だった。そうじゃない人は、適当にチョコをあげておけばいいって思ってた。でも、振り向いて欲しい人には、チョコでもいいけど、チョコじゃダメだった。だって、それじゃたくさんの中のひとつになっちゃって、印象が薄まっちゃうから。私は――あなたに気にして欲しくて、だからマシュマロを選んだの。自分のことばっかり考えて」
「ふふふ。でもさ、そのときは自分のことばっかり考えていたとしてもさ、それがふたり、いや、それ以上の心を温めたのは、事実だから。だから、過去の自分に、〝自分の気持ちを大切にして偉いね〟って、言ってあげなきゃだね」
「そ、そうだね」
「さ、家に帰ろう」
駅へ向かって歩き出す、ユウくんの半歩後ろをついていく。欲張りな心が黙ってなくて、いつの間にやら隣に並ぶ。カァ、カァとカラスが鳴いた。大きな黒い塊が、バサリバサリと風を切る。
学習塾の前には溢れんばかりの自転車。ちょうど授業が終わったのやら、にぎやかな声と共に子どもたちが飛び出してくる。ドン、バンと、カバンをカゴに放る音、鍵を開ける音が、幾重にも重なりながら鳴る。
アイちゃんが元気で、ユウくんが転校していなかったら。
そんなパラレルな世界を夢想した。
こんなふうに、勉強したりしたのだろうか。
そんなパラレルな世界の未来では、私たちはこうして、横並びになって、同じスピードで、駅へ向かって歩くのだろうか。
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