第6話


「バレンタインのチョコってさ」

 気づけばユウくんの目は開いてた。笑っているから、コテって転んだ三日月みたいな形をしているけど、確かに開いていた。

「本命とか義理とか、あるじゃん?」

「う、うん」

「あれってさ、ホワイトデーにもあるわけ」

「ん?」

「本命だけは、違うものにしたくなるんだ。少なからず、俺は」

 あの日のことを、引き出そうとする。

 妹が喜んだからって、私だけおまけがついた、プレゼント。

 私は馬鹿みたいに素直に言葉を受け取ってしまったってことだろうか。袋じゃなくて缶だったっていう点は、おまけの延長線ではなくて、本命と義理の違いだったってこと?

「まぁ、でもさ。あんなチビの時じゃ、あれが限界だったから。仕方ない、かな?」

 ははっと笑う。

 雲に隠れた太陽が、微笑むように顔を出す。体がポッと熱くなる。

「小谷から、サキのこと聞いてさ、いつかまた会いたいなって思ってた。サキにはいい人がいるだろうから、会って話をする以上のことは望む気なんてなかった。そこのところは諦めがついてた。ただ、会ってクマのことを聞きたいなって、思ってた」

「え、えっと……小谷さんって?」

「あれ? 中学の時、仲良くしてたんじゃないの? 小谷ミドリ。俺、同じ大学でさ。その、小谷と」

 ああ、あのノートのミドリは小谷って苗字だったんだ。そっか、そっか……。記憶に積もった埃をはらう。だんだんと、頭の中の小谷ミドリが、鮮やかな静止画になっていく。

「うん。仲よかった。今は……さっぱりだけど」

「そうなんだ。ま、そんなもんだよね。義務教育中の付き合いなんてさ。ただ、近くに住んでるからって理由でごちゃ混ぜにされるだけだもんね。それで、なんとなく、その中で〝一緒にいたら心地いい人〟といる。それだけ。高校行きます、大学行きます、就職しますって、ステップを踏んでいくうちに、環境と一緒に心も離れていっちゃう。もしも、そういうものを乗り越えて、ずっと繋がっていられたら……それはもう運命っていうか、宝っていうか」

「ねぇ、ユウくん」

「んー?」

「ごめん。話が見えない。えっと、このクマの話をしにきた、で、あってる、よね?」

「ごめん。そうだった」

 ユウくんは、そっとクマを撫でると、

「このクマは、妹が自分のお金で買ったクマなんだ」

 そう言って、今にも泣きそうな目をして、笑った。


『おーい! 鬼ごっこしよーぜ!』

 眩しく煌めく声が、鼓膜を揺らす。それは、だんだんとその輝きを増していく。声の主が、近づいてくる。

「場所、変えよっか。そろそろ、公園の主役たちが来そうだ」

「……そうだね」

「あ、そうそう。行きたい喫茶店があるんだけど」

「あれ? ユウくん、この辺詳しいの?」

「この辺で過ごした時間は短いけど、だから濃密なんだ。ここで起きたことは、薄れることはあっても、忘れることはない。たぶん、あの店は、今も時を止めたみたいにそこにあるって、信じてる。そこに行きたい。無くなってたら、ごめん。急いで他を探すよ」

 ユウくんは、薄れた記憶のかけらを集めながら、「どっちだったっけ?」とか、「こっちだったよな」とか呟きながら、私の半歩前を歩いた。道に迷いかけるたび、不安でいっぱいになっているように思う。でも、こっちだ、と踏み出してからは、選択に自信満々らしい、頼もしさを感じた。

 変わっているのか、変わっていないのかもわからない道を進む。ところどころ真新しい家があって、アスファルトがピカピカの駐車場があって、だから間違い探しのような変化は確かに存在するんだろうな、と、私は思う。

「あったぁ」

 ユウくんはそう言うと、私に向かって、無邪気に笑った。

 初恋のあの頃のような、笑顔だった。

「ちょっとなんか、こう……」

「レトロで素敵、を通り越して、ちょっと不安になるような」

「ふふふ。そうそう。すごく申し訳ないんだけど」

「確かに。ねぇ、ここでいい?」

「もちろん」

「じゃあ、入るね」

 ふう、とひとつ、息を吐く。扉に手を伸ばし、取っ手をぎゅっと掴んだ。また、ふう、と息を吐く。取っ手をグッと引き寄せる。

 カランカラン――。

 心地いい音と共に、店内からブワッと不思議な空気が飛び出してきた。ああ、もしかすれば〝どこへでも行ける扉〟のようななにか――〝時を遡ることができる扉〟を見つけてしまったのかもしれない。

 目が、耳が、鼻が、肺が、肌が、一瞬にして若返った気がした。まるで、小学生になったみたい。もう、思い出そうとしても思い出せない、あの頃の空気が、ここに満ちている。

 ふと気になって、店内を見まわした。

 おかしいなぁ。

 時計の針は、動いている。



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