第5話

 

 思う存分ぐるぐる考えて、思考の迷路からなんとか抜け出した。

 顔を上げ、まるで私の心が整うのを待っていたかのようにタイミングよくブゥと震えたスマホを、ちょっと振る。

 画面にはメッセージを受信したって通知があった。

 私の背中はピン、とのびた。

 ロックを解除して、メッセージを読む。

 ――やっと会えた。嬉しい。ありがとう。ずっと、今まで大事にしてくれて。

 私は、大事にしてきただろうか。ただ、自分に近くて遠い場所に、しまいこみ続けただけなんじゃないか。

 闇色の感情が膨らむ。

 どう返信したらいいのかわからなくなって、

 ――このクマ、ユウくんの大切なものなの? 返したほうがいい?

 指先から闇色が溶け出していることに気を配る余裕もなく、ただ、心が吐き出す文字を打って、送った。

 ――いや、返してとは言わない。でも、もしよかったら、実物を見たいんだけど。いいかな?


 指定された場所へは悩まず行けると思って、乗り換えだけ調べた。でも、時を経て変わった街、過去が消し去られた駅が、私にスマホを握らせる。

 画面が光る。顔をよこせばロックを解除してやると言っている。

 私は意地を張った。画面に〝用はないから消えてて〟って指示をして、だけど心に渦巻く不安に打ち勝ちきれないからって、スマホを握ったまま歩いた。

 街から思い出が消えるのは仕方ない。けれど、それなら、頭の中にはしっかり描いておきたいと思った。今、ここで記憶の引き出しを開けて、それに触れたら。そうしたら、とっても鮮やかというわけではないだろうけれど、過去が私の元に帰ってくると思った。

 完全に過去を捨てない。そのためには、今、記憶を掘り出さないといけないんだ。

 たぶん、この信号は、昔、青になったらすぐ赤になっていた信号だ。今は道路が広くなって、その影響か、青信号の時間が長くなっているみたい。

 広い歩道には、自転車のマークが描かれている。こんなもの、ランドセルを背負っていた頃には、なかった。

 おそるおそる、懐かしく思えない、過去何度も通ったはずの道を進むと、古びた工場が見えた。この辺のコンビニのパンは、だいたいここで作られてる、なんて聞いたことがある。今もそうだろうか。

 この工場の少し先、ラーメン屋の角を曲がれば、あとは約束の場所まで一直線。

 しかし、ラーメン屋は当たり前のように時に流されて、消えてなくなっていた。そこには全く形の違う建物が建っている。看板には、整骨院の文字。あの頃と変わらぬ点をあげるとしたら、ここの駐車場はいつだって満車ってことくらい。

 時の流れを受け入れて、角を曲がってまた進む。

 道中の、平べったくて無駄に大きかった駄菓子屋は消えた。代わりに、同じ形で色違いの、三色団子のような分譲住宅がちんまりと建っている。

 変化はまだ、終わらない。

 約束の場所、ひらけているはずのそこに、どんと大きな建物があった。奥へ奥へと進んでいく。すると、広いグラウンドが見えた。

 思い出が詰まった校舎は、もうないんだ。

 あの日のグラウンドを埋め尽くすように、あの頃、誰かと夢想したような、未来的な巨体がここにある。

 あの日、キャッキャと駆け上がった階段を、ギャーギャー騒いで先生に怒られた教室を、グラウンドの上、宙に描く。


 泣きたい気持ちを抑えながら、さらに進む。

 学校のすぐ傍にある、小さな公園。今日の目的地。

 それが視界に入りかけて、怖気付いて足が止まる。

 ふぅ、と震える息を吐き、再び足を、前に出す。


 変化のない場所など、ほとんどない。

 あの頃、無茶をしたブランコはないし、滑り台は樹脂製のものになっている。これなら、夏でも楽しそうだな、なんて、心が泣き笑う。

「ごめんね、遠かった?」

 背後からあたたかい声がした。振り返るとそこには、ユウくんがいた。

「まぁ、遠かったけど。ここに来ようとすることなんてなかったから。懐かしいなぁって思い出に浸る、いいきっかけをもらったかな、なんて」

 ユウくんがベンチを指差す。私は微笑み、こくんと頷く。

 ベンチに腰掛け、中に確かにクマ入りの缶があることを確かめるように、カバンをギュッと抱きしめる。

「あのさ……」

「持ってきた。ちゃんと、持ってきた」

 こういうときは、雑談から始めたほうが良かっただろうか。過去と今が、心の中で油と水みたいにぶつかり合っているせいだと私は思いたいのだけれど、冷静に今を生きられない。

 焦りを感じながら、けれど大切なものを傷つけたりすることがないよう、ゆっくりとそれに手を伸ばす。カバンの中の何にもぶつけないように、気をつけながらそれを取り出す。

 ごくん、と唾液を飲む音がした。

 私もごくん、と唾液を飲む。心の準備を整えて、ゆっくりと缶を開けた。

「なつかしぃ」

「だよね。なんか、タイムカプセルみたいじゃない? なつかしぃって思わせてくれる缶ってさ。実はこれ、年末の大掃除の時に見つけたんだ。それまでずぅっと、眠ってたの。だから、そのぅ……。ごめん、大事にしてたかっていうと、そうでもない。ほら、この辺とか錆びちゃってるし」

「そっか。でもさ、ずっと昔のことだし。しまい込んでてもおかしくないし、錆びるのもほら、自然現象っていうか。俺は、これをずっと、しまい込んでいたとしても、大事に持っていてくれたことが嬉しい。……ねぇ、触ってもいい?」

「うん。もちろん」

 缶をユウくんの手に、そっと託す。

 ユウくんは、ゆっくり目を閉じて、大きく息を吸った。それから口端をキュって上げて、微笑んで、ゆっくりと目を開ける。

 風がふわわって、髪を撫でた。

 はぁ……って、柔らかい吐息。また、ゆっくり目を閉じる。

 瞼の裏に、何かがあるみたい。

 口がぱくぱくって、ほんの少し動く。

 誰かに、話しかけてるみたい。

 私はユウくんが私にあててしゃべるまで、じっと待った。

 風が葉を揺らす。車が駆ける音がする。自転車のベルがチリンチリン。足元をお菓子のかけらを抱えたアリが、トコトコと歩く。

「意地を、張ってたんだ」

 ユウくんが、瞼の裏に何かを見ながら言った。その言葉は、瞼の向こうの誰かじゃなくて、私に向けられている気がした。だから、心を乗せた、声を返す。

「うん」

「同じクマは、世の中にいくつもある。でも、このクマじゃないとって、意地を張ってた。同じクマを見るたび、これじゃない、これは違うって、思ってた」

 私には、ユウくんが何を言いたいのか、わからなかった。

 なにか、いい言葉があるはずだ。こういう時にかけるといい言葉が、相槌が。でも、経験が足りないのか、それとも想像力が足りないのか。愛のような何かが足りないのか。私は言葉を見つけられない。

 風が鳴いた。

 太陽が雲に隠れた。

 体の表面が、わずかに冷たくなる。その熱は、心まで染み込んでいこうとする。

「サキでよかった。サキに渡したから、だからまた、このクマに会えたんだと思う。サキが初恋の人で、本当によかった」

 なにもかも、わからないって思った。



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