第2話


 時の流れを感じたせいだろうか。お腹がグゥ、と鳴く。

 すぐに晩御飯の準備をしてもいいけれど、せめてこの一箱はきちんと片付けておこうと思った。お腹にテキパキと作業することを約束して、全てを出し、目に晒す。

 空っぽになったケースを拭きながら、過去の一幕に、思いを馳せた。


 どこからやってきたのかわからない細かな塵や埃を拭い取り、中にあった物たちを、再びそこへ戻していく。天使なのか、悪魔なのか。音にならない、脳に流れ込む誰かの声にそそのかされるままに、中を確認しては、作業の手が止まる。

「この缶、懐かしいなぁ」

 少し錆びた缶。錆びたせいだろう、開けようとしても、なかなか開かない。グググ、と力を込めたら、ようやく開いた。

 中には小さなクマのぬいぐるみと、過去の私の、テンションが高すぎる文字が並んだメモ。視覚から飛び込んでくるそれが、脳を狂わす。現実には、そんな匂いも味もないのに、甘酸っぱい感じがする。爽やかな風がビュウと全身を撫でたような気がして、ムズムズした。


『ユウくんが、バレンタインのお返しくれた! クッキーの缶と、クマさん! 超かわいい! 宝物!』


 ユウくんは人気者だったから、みんなチョコをあげるだろうって思った。だから、誰かとかぶらなくて、印象に残るものってなんだろうって考えた。

 考えて、考えて、私はマシュマロをあげることにした。

 みんなは「どうぞ」って言ってチョコを渡して、ユウくんに「ありがとう」ってニコってされるくらいだった。だけど、私の時だけ、

『マシュマロじゃん! 妹が好きなんだよね。妹に分けてやってもいい?』

『うん。もちろん』

 そんな会話があった。


 ホワイトデーの時、ユウくんはみんなにお返しをくれた。みんなには袋入りのクッキーだったけど、私だけ缶入りのクッキーで、小さなクマのぬいぐるみも付いていた。

『妹が、マシュマロめっちゃ喜んでさ。だから、そのお礼も。実は、みんなに渡したのとはちょっと違うんだ。それで、その……』

『大丈夫。自慢したりとか、そういうこと、しないから』

『ああ……うん。サンキュ』

 誰にも見せられない、秘密の缶。

 私はそれを、自分の部屋で、こっそり開けた。きめ細かい雪みたいな、粉糖をまとったクッキーが、コロコロとそこにあった。ひとつ摘んで、口に入れる。甘さが口いっぱいに広がる。ほろほろと溶けてなくなっても、甘みは口と心に残り続けた。

 

 記憶はだんだんと薄れていく。

 急にパーン、と弾けて消えるわけじゃない。

 だから、私はしばらく記憶の甘みと共にあった。

 記憶と違って、急にパーン、と弾けたのは、ユウくんそのもの。

 彼は次のバレンタインを待たずに、転校してしまったから。

 たった一度きりの、甘いやりとり。

 今となっては、頭の隅の隅、日常の掃除では絶対に触らないだろう小さな隙間に入り込んで、顔を出さないそれ。

 今になっても、こんなに甘くて、ちょっと酸っぱいだなんて。

 その味に、思わず顔が、熱くなる。

 

 捨てるものなんて、見つけられなかった。わずかな汚れを拭い取るのに、どうしてこんなに時間がかかるんだろう。

 夕飯を作るのと、外へ出る準備をするの、どっちが面倒かって考える。どっちもどっちだけど、家にあるものでできないものを食べたい気分って思って、身支度を整えた。

 玄関の扉を開ける。

 黒い世界に、煌めきが降り落ちていた。

 路面に触れて、じゅわりと解ける。

 まだ、明日は来ていないっていうのに。

 吐いた息が白い。

 もう、出るのやめちゃおうかな。ちょっと悩む。でも、せっかく準備したんだしって、私はマフラーをキュッと巻き直して、歩き出した。


「はぁ……。結局、何食べよう」

 寒さが空腹をどこかへ飛ばす。

 ここで帰ったら、あったかい部屋でお腹がやる気を取り戻して、グゥと鳴ることなんて目に見えてる。だから私は、トコトコと歩き続けた。

「あー。いいなぁ、カレー」

 黄色い看板を見つめた。看板の文字が、歪んで見える。頭が勝手に、文字を変えてる。さっき見たノートの文字がふわふわとそこに浮かぶ。

『今日こそはマサちゃん食堂! カツカレー!』

 お店の中に目をやると、空席がいち、にぃ……。

「よし。今日こそは、カツカレー!」

 凍える世界から、温もりの世界へ足を踏み入れた。



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