春の鯨
石田くん
春の鯨
今にも恋人になりそうだった女と情事中、急に彼女が口を開けて固まった。
固まったというより、口を閉じなくなった、と言う方が正しいかもしれない。口を丸く開けて、それほど大きくはないが口を開けて、手を体の横に着けて、程よく脱力した脚をそろえて、伸ばして、寝ている。
いきなりそんな状態になった彼女を見て、僕は少しの間呆然としていた。
しかしその後彼女に声をかけても、顔に触れて口を閉じさせようとしても、その唇は僕の手の力に抵抗する訳ではないが、なんだかとにかく閉じない。もうどうしようもなかった。
そして僕はただ、その彼女から少しだけ離れて、黙って、座っていた。
すると、彼女が唇の裏側を見せ始めた。僕はそれにすぐ気付いて、彼女が喋り始めるのかと思って待っていたが、彼女が一向に声を発しないので、僕の方から声をかけた。しかし彼女はそれに応える様子もなく、それどころか、もっと唇を裏返し始めていた。
そして唇がこれ以上ないほどめくれあがって、歯茎まで丸見えになると、なんと次は歯を裏返し始めた。つまり、まず歯と歯が接するところが裏返って、いや、なんと言えばいいのだろう、歯と言うより顎が、顎ごと、彼女は裏返り始めたのだ。そしてそのまま、顎、顎と言うか口の内側が、外側になった。そして続けて、喉の内側が外側になって、食道の、内側が外側になって、胃の、内側が、外側になって、腸の、内側が、外側に、なって、ついに彼女は、完全に裏返った。
その時僕が気付いたのは、彼女が裏返ったのではなく、彼女が世界の全てを飲み込んでしまったという事だった。
春の鯨 石田くん @Tou_Ishida
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます