第8話 知の糧

 趣味を知れば、その人の本当の知的レベルが推し量れる、とは、アリストテレスやショーペンハウアーなど往々の賢者が述べていることである。例えばギャンブルばかりしている人間は、表の顔がいかにやり手の営業マンだったとして、たかが知れている。逆に普段は穏やかな人間が実のところ思索に耽り熱いものを抱えているとしたら、私はその人をとても尊敬する。虚栄心は人をお喋りにし、誇りは寡黙にするという言葉もあるように、見せかけに騙されてはならない。

 とはいえ、精神的欲求を持たない俗物が価値のない人間なのか――このことに関し、私は考えを改めた。

 彼らは、私の糧になってくれる。




 もはや秘密にしている意味が無いと悟ったのか、レノは堂々とまでは言わずとも、小説のことを言うようになった。彼女の譲れない用事は大抵それだったし、彼女はいつも締め切りに追われていた。

 ある時、さすがに気になって修はレノに尋ねた。

「その締め切りってさ、なんなの?」

「え、なんなのってなんなの?」

 レノが酷く怪訝そうに一瞬顔を上げた。すぐにタイピングに戻ったけれど。

「まさか小説家じゃないよね?」

「……そうだったら嬉しい」

「というと?」

「卵」

 端的で分かりやすい説明だ。感情によって表情がコロコロ変わるレノは、頬をむくれさせ不満を示している。

「ふーん……なんか賞とかに応募するってこと?」

「そうだけど……そういう話はしたくない」

「なんで?」

 深くは考えず、ほとんど反射的に尋ねていた。それがレノの境界線であるとも知らずに。

「……嫌なものは嫌なの。言ったところで分からないだろうし」

「言ってから判断してくれよ」

 突き放すような物言いで、修は少し苛立ってしまった――累積した棘が、少しずつ刺さり始めていたのかもしれない。自分でも気づかぬうちに。

 タイピングの手が止まり、レノが申し訳なさそうに目を伏せる。それを見て、修の怒りも、一瞬にして凪ぐ。

「修くんごめん……でも、分かって欲しい」

「……分かりたいよ。でもそのためには知らないと」

「そうだよね」

 レノが所在なさげに喉をさする。緊張すると喉がキュッとなると言っていたのが思い出された。彼女にとって、それだけ重い話なのは確かだ。

「……修くんにとってこれはきっと、対岸の火事にも満たないと思う。だって、書いたこと無いよね?」

「無い」

「考えたことは?」

「小説の内容を? 妄想とかならあるけど」

「妄想は小説に入らないよ。……そんなんじゃない」

 気の利いた言葉が思い浮かばない。修は、レノが日々苦心しているのを見ていた。少なくともレノが苦労して書いているのは、知っていたのだ。

 尤もそれは結局、他人事としてでしかなかったのだけれど。

「私にとって、これは真に迫り過ぎているんだと思う」

 レノが言った。怖いくらいに、その顔は無表情だった。

 それから――ふと、修を見た。奇妙な微笑みを浮かべて、彼女は言う。

「つらいの」


 修はそれから、なるべく小説の話はしなくなった。軽はずみに口にして良い話題ではないのだと、おぼろげながら理解してしまった。

 元より、修は小説を読まない人間だった。というか、本というものに親しみが無さ過ぎる。最後に書籍に触れたのは、教養科目の教科書か何かだった。自分で本を買った記憶なんて無い。修の読書は、その全てが小学校の教室の本棚に集約されている。

 別に嫌いではない。単純に、興味が無かった。文字を追うのは目が疲れるし、読書をする時間があるなら十中八九ゲームでもする。レノがベッドで本を読んでいる横で、修はFPSに興じるのが、二人のいつもの過ごし方でもあった。レノは逆にゲームに興味が無かったけれど、ゲーム音は嫌いじゃないと言ってくれたのだ。キャラクターの走る音や銃撃の音が、映画みたいで心地良いのだと言う。

 レノはそうだし、修もどちらかというとインドア派なため、デートは自然と家ですることが多かった。それをデートと言うのかは分からないけれど、互いに幸せに、穏やかに居られるなら第三者の客観的な指標など気にならない。

 ――けれど、ここで一つ、修の頭には疑念が生じていた。

 レノは果たして、本当に幸せなんだろうか?


 レノがつらいと言ったその感情を、修は測りかねていた。つらいなら書かなければ良いんじゃないか? 内心ではそう思ったのだけれど、馬鹿正直に言うほど修は愚者ではなかったし、何よりレノのことが大好きだった。

 だが逆に、レノのことが大好きだからこそ、つらい思いをして欲しくないのも事実だ。修はレノの小説を単なる趣味と思っていたし、拓弥や鏡花もそうだ。趣味とは普通、していて楽しいとか快いもののことを言うのではないのだろうか? やっていてつらいことを趣味とは普通言わない。なぜ自ら苦行に身をやつすのか。修には、レノが小説を書く行為が理解できなかった。それを尊重――傍観していなければならない事実も含めて。

 調査の無い平日のある日、修は珍しく、レノを誘ってどこかに行こうと考えていた。近所を散歩するのでも、美術館で絵画鑑賞でも、なんだって良かった。

 だが、そのどれもすることは無かった。

 レノが憂鬱そうに本を読んでいた。ハードカバーで少し大きなサイズの小説だ。ちらりと覗き見える表紙にはキラキラとした装飾がなされていて幻想的だ。SFかな? と素人ながらに思う。だが修の興味は、本ではなくレノにあった。レノがつらそうにしているから、レノが心なしか、泣きそうだから。

 ややあって、レノが力なく目を瞑り、本を閉じる。修の見立てが間違っていなければ、残り半分以上は残っているのに。

 少し遠くから見守っていた修だったが、居ても立っても居られず、レノの横に腰を下ろした。レノは気づかない。深海のような思考に、心を沈めている。

「レノ」

「……なに?」

 レノが静かに目を開ける。暗がりの眼が太陽を厭うように、気怠そうだ。

「どうしたのかなって。本、面白くないの?」

「ああこれ……」

 レノの顔がまた曇った。閉じた表紙の帯文には、凶暴な想像力というなんとも言い難い言葉が綴られている。

「ずっと前から追ってる小説家が出した初のSF短編集なんだけどね、思ったよりも内容がきつくて」

「きつい?」

「ちょっとグロい」

 言いながら、レノは顔を顰めていた。彼女はスプラッター映画が大の苦手だった。人が苦しんでいるのを、見ていられない性分なのだ。

「たかだか文字だし、ただの言葉だし、なんなら存在しない人たちなんだから、こんなのは馬鹿げてるはずなんだけどね……」

 分かってるのに、とレノが呟く。

 苦しいならしなきゃいい、その疑念がまた膨らんで、修の喉を圧迫する。

「……じゃあ、読まなくてもいいんじゃないの? 読まなくても」

「ダメだよ。読まないと」

「でも」

「読まないと書けない」

 レノはきっぱりと言った。もはやそこに、修が介入する余地は無かった。


 修の観測範囲でも、レノは日々、本を読み、書いている。生活の全てを捧げていると言っても過言ではない。むしろ修と関わっている時間だけが、レノの中でのただ一つの例外であり特異点にも思えた。自分だけが彼女の特別であることを少し前に望んでいたし、実際嬉しくないと言えば嘘になる。だが、これは違う気がする。

 こればかりはレノと話すわけにもいかなかった修は、心の中で、このわだかまりを抱え続けた。レノどころか、相談出来る相手なんて居ない。恋人が小説に心身をすり減らしていることについて、一体誰が役に立つと言うのだ? 太宰治か?

 正解は分からないが、かと言って修は、何もしないわけじゃなかった。とりあえず出来ることから始めるべきだ。じゃないと恋人という形容が、ただの飾りとなってしまう。

 修がまず訪れたのは、拓弥の言っていた文学サークルだった。季節外れの新入部員、しかも四年生である。大歓迎とは行かないが、拒絶されるほどでもない。知り合いがいるという拓弥の計らいで、修は早速、部長に会わせてもらうことになった。小説を書いたこともないのに。

 サークルと言っても、結局は個人の戦いだ。部室だという文学部の四階の一室は、たった六畳間かつホコリっぽく、ブラインドから差した斜陽がスポットライトみたく空気中の塵を反射している。くしゃみが出そうだ。申し訳程度に設置された机の数々を動かしたのか、部屋の中央に二つの机がくっついて並んでおり、さながら中学の二者面談である。修の向かいに座って待っていた文学サークルの部長は、襟足の長い髪を伸ばしたままにしているが、それ以外は思いの外、清潔感がある人物だ。いやこれは偏見だ。文字を書くことを趣味としている人間がみな外見に気を遣わないなんてただの思い込みであることを、修は一番身近な人物で既に知っていたのに。

「……ええと、修さん、ですか? 四年って聞いてますけど、本当に入りたいんですか?」

「あ、まあ……」

 何を説明すれば良いのか分からない。修自身は小説になんらの興味もない。

 いや、今持てばいいのか? 修もレノと同じ目線に立てるよう、自分も小説を読んだり、あるいは書いたりすればいい?

「どうして今になって入りたいんですか? なかなか珍しいと思いますけど」

 部長がちらりと壁のカレンダーを見やる。気が早いのか、五月末にして既に六月のページに飛んでしまっている。

「……それが、正直に言うと、俺は代理みたいなもので」

「代理? 文学部に代理入部するって、どういうことですか」

 意外とグイグイ来る部長は、机から身を乗り出すように、修に見入って来た。レノと違って褒められる容姿でも体格でもない修は、人に見られるのが好きじゃない。どうしてこう、深々と話を聞かれているんだろうか? 大学のサークル加入なんて、「入りたい」からの「いいよ」の二つ返事で適うものだろうに。

 仕方なしに、修はレノの存在をほのめかす。詳しく語りはしないのは、眼前の人物の、どこかゴシップ記者めいた興味の抱き方を察したからだ。修は本気でレノのことを心配している。それを面白いネタ、みたいに思われたくはない。拓弥がなんと言って修を紹介したのかは分からないけれど、部長にとって修は、標本にされた蝶々くらいに思われている感覚がある。

「なるほど」

 短い話を聞き終えた部長が、明後日の方を見て呟いた。何かを考えているような理知的で遠い瞳は、レノもよくやる。全然違う二人なのに一瞬混同しそうになって、そんな己に動揺した。

「その方、うちに欲しいですね」

 部長が瞳を輝かせて言った。彼が何を言っているのか、最初あまりにも理解出来なかった。

「は?」

「小説にかける情熱が素晴らしいです。今いる部員の誰よりも貪欲さを感じる」

「……そうなんですか?」

 修の周りにいる物書きは、眼前の人物を外すとレノしかいない。ただ一人では、主観にもほどがある。

「恥ずかしい話ですけど、今居る連中は総じて趣味の域を出ませんからね。幽霊部員も多数です。毎年あるメンバー報告でも、半数以上が失踪するのが恒例行事となり果てています」

「はあ……」

「再来月の文化祭には、部の全員で冊子を作ろうと言い渡しているのに、誰からも返信が来ません。参加する気があるのか無いのか、それだけでもはっきりさせておきたいんですが」

「はあ……大変なんですね、部長って」

「部員は大抵が、協調性も無い我が儘野郎ばっかりですからね――おっと失礼。要するにコミュニケーション能力に欠けていて、意志疎通が難しいと言うことです。僕が部長をやっているのも、他に出来そうな奴が居なかったから仕方なくというもので……しかし、あなたの言う人とは、気が合いそうです」

「まだ会っていないのに分かるんですか?」

「……すみません。早計でしたね」

 別にそう委縮せずとも良いのだが、と修は思う。それとも、自分が何か怒ったようなリアクションでもしてしまったんだろうか。

「何はともあれ、あなたからその方に、話を通していただけませんか?」

「え、いや、俺はそんなことを言いに来たわけじゃなくて……」

「相談にいらっしゃったんでしたっけ? まあそれはいずれ僕が相談に乗れると思います。同じ物書きのよしみですから」

 修を通さず直接、レノと部長で話をするつもりらしい。確かに、その方が手っ取り早く合理的だろう。相談以外でも、好きな小説でも語らえる。しっかり者のレノと部長なら、価値観も似ているかもしれない。部長が言った話が合いそうとは、そういうことを考えてのそれだろうから。


 大学からアパートまで距離が近いのが、修の密かな自慢だった。だが今は、たった五分の帰路に頼りなさを感じている。帰ればレノが居るかもしれない。いや居る。

 修の予想は的中し、玄関のドアの鍵が開いたままになっている。何度注意しても、何故だかレノは在宅中鍵を閉めない。女性が不用心極まりないなんて危ないのに、レノは時々、理解不能なことを平然とする。

「ただいま」

「……おかえり」

 今の中央のローテーブルに居たレノが、作業中だったであろうパソコンをぱたんと閉じる。

「書いてていいのに。別に俺気にしないよ」

「私が気にするの。それに、修くんが居る時は二人でいる意味を噛み締めたい」

 さすが物書きという冗談が頭に浮かび、そして消える。代わりに口に出力されたのは、先ほどの文学サークルの話だった。

「レノ、サークルには興味ないんだっけ」

「えー、急になに? 無いけど」

 レノの隣に胡坐を掻くと、レノがすかさず、寝転んで頭を乗せて来た。長くて繊細な髪を踏んでしまわないよう、若干の緊張感に襲われる。

「人と一緒に居ることで得られることは当然あるよ。でも一人だから出来ることもある。要はどちらを選ぶかだよね。同時刻に全く別の場所に存在することは、影分身でも会得しないと出来ないんだから。あとはタイムターナーとか」

「ああ、ハーマイオニーのやつね」

 この間レノと一緒に、配信でハリーポッターを見直したのだ。

「出来るなら全てを掴み取りたい。私は欲張りさんだからね。でもただの人間でもあるから、結局はたくさん考えて、選択するしかないんだ」

 サークルに入らないことを、ここまで迂遠に説明できるのはもはや才能だと思う。初対面の時は語彙力のない人だと感じていたが、むしろあり過ぎて絞っていたのだと今は思う。

 レノが文学部に入る可能性は低い。だが一応、話だけはせねばなるまい。修は何となく気が進まないながら、レノの頭を撫でることで気を紛らわせる。

「たまたま……たまたまなんだけど、文学部の部長と話す機会があってさ」

 レノがちょっと驚いた顔で、「へえ」と相槌を打つ。

「レノは、なんと言うか……同業者っていうのかな。その人たちと、話してみたかったりしない?」

「しない」

 即答過ぎる。だが予想通りだ。修は苦笑する。

「だよね。そう言うと思った」

「てか話すって何を話すのさ。密室トリックでも教えてくれるって言うのかな」

「うーん、そういうんじゃなくて、ただ話したかっただけだとは思うけど。苦労とかさ」

「……それこそ、共有することではないと思うけど」

 レノがひょいっと身を起こし、修の隣で体育座りをする。膝を抱え込むように、アルマジロみたく身を丸くしている。

「全部全部、自分の中で抱えて、研ぎ澄ませていくものだよ。外に逃がしちゃいけない」

「……それだと、苦しくならない?」

「苦しいからこそ」

 鉄は打つほど硬く切れ味を増す、とレノは滔々と付け足した。レノの持つ不可思議さは、時に刀のように鋭くもある。だがそれでも、修にとってレノは、もっと柔らかくて温かくて優しいものだ。鉄ではない。打てば打つだけ――いつか、ぐちゃぐちゃに壊れてしまうのではないか?

 そうは言い出せない。言い出せなかった。


 後日、文学部の部長に断る旨を伝えるべく、また彼の下を訪れた。レノが嫌がっていたことを率直に伝える。彼女は苦悩を分かち合える友を必要とはせず、孤独に戦っていくつもりなのだ。それが、彼女の美学なのだろう。

「残念ですね……とても、残念です」

 部長は確かに残念そうだ。悔しそうでもある。それが、修に嫌な予感を芽生えさせた。

 その予感は当たる。

「ならせめて、再来月の文学部特集冊子に寄稿してくださらないですかね――あ、いえ、条件ならご本人の望む形に配慮しますから」

 部員ではない以上、無理強いはしないからと部長が引き下がる。

 その熱意に負けて、修はその話を持ち帰ることになってしまった。またレノに、こんな話を持ち掛けねばならないと思うと気が重い。レノと修の間で、小説の話題は暗黙の了解で話さないことになっている。どうせレノは断るだろうし、正直に話さなくても良いのではないだろうか。そう思っても、修は素直な人間だった。隠し事なんて難しい。それも、家に帰ると待っていてくれる人には特に。

 それにしても、あの部長「相談に乗れる」とか言っていたくせに、結局はレノの小説を読みたかっただけなんじゃないだろうか。部員の個人主義を嘆いていたが、あの部長もきっと大概そうなのだ。

 部長が言っていたことを、レノに伝える。ただでさえ自分の小説で手一杯な彼女が、素人の集まりに寄稿(?)をするとは修は思っていない。

 けれど予想に反し、レノは前向きな姿勢を見せた。

「特集冊子……好きに書いていいって?」

「え、うん」

 この間と同じで拒絶を示すと思ったのに、レノは幾分か悩む姿勢を見せる。

 それが、何故だか不愉快だ。

「やっぱダメってなったら断ってもいいんだよね」

「……そうは言ってたけど」

「ジャンルの指定も無し? 文字数も? テーマは?」

「何も言って無かったけど……部員じゃないから条件は配慮するって」

「へぇ~」

 その、どこか楽し気なニュアンスの返事で、彼女の選択を予知する。

「ま、再来月ならなんとかなるでしょう! 書くよ!」

 レノは急にテンションを上げると、三歩分の床をスキップして、コーヒーを入れ始めた。

 言わなきゃ良かったと思った。黙っていれば良かったのだ。

 修は、もう少し賢い人間となることを決意した。


 レノが孤独な戦いを選び、自らの道と定めている以上、修に出来ることは少ない。あるいは、存在しているかも怪しかった。むしろ修の方が、同じ境遇の誰かと語らいたい。恋人が小説家志望の場合、自分たちに出来ることとは?

 いや小説は関係無いのかもしれない。大切なのは、彼女を幸福に導くために何が出来るのかである。

 難しい局面に遭遇した時、頼るべき人間がいつも同じというのは、人としての薄さを表していなくもない。修は複数のコミュニティに属して同時並行に処理できるタイプではないため、自然と選択肢は限られてしまう。

 修が頼ったのは、いつもと同じ拓弥だった。彼しか頼れる人が居ないのだ。

 ――そういえば以前、彼から妙な誘いを受けていた。その名を、恋人クラブである。名は体を表すとは言うが、これぞまさしく恋人クラブなのだ。

「カノジョ持ちの男だけが入れる秘密のクラブなんだけど修入らん?」

 学食で一緒に昼食をとっている時、唐突に拓弥が言った。周囲では喧騒が溢れ、ソースや汁の匂いが充満している。まだ春と夏の境みたいな季節で外は曇りだったのに、十二時を軽く過ぎただけの時間は人の熱気でむせ返りそうなほどだった。レノはこういう場所が嫌いだと、心の中で考えた自分を愛おしく思った。

「なんだそれ」

 修が焼きそばを啜りながらぶっきらぼうに返すと、拓弥は心外そうに眉を顰めた。

「だからカノジョ持ちだけが入れる秘密クラブだって」

「だからクラブって何なんだよって。サークル的な? それとも踊ってはしゃぐ方のクラブ?」

「強いて言うならどっちもだな。サークルって言っても学校のではない……近くにあるバーのだ」

「近くのバー? ああ、もしかして『バー・ナイトメア』のこと?」

「それそれ!」

「ふーん。ゴミみたいな名前だと思ってたんだよな。なんだそこか」

 くだらないという意味を込めて、修は焼きそばに全神経を集中させる。別に急ぐ必要はないが、強いて言うならレノの顔を拝みたくなってきた。こう喧しくて無秩序な空間に浸されると、無性にレノの神秘性に当てられたくなる。碧水の泉で顔を洗うように。

「修たまに辛辣だよな。いいけどさ、俺入ってるんだけど、知り合い一人も居ないんだよ。修も入ろっ! な?」

「えー、やだよ。無駄なことに時間割かれるの」

「無駄な時間ってなんだよ! お前ももっと人とかかわったほうがいいよ。俺みたいに」

 そう言われると否定できない。自分が消極的な人間なことは知っている。レノと付き合えたのも、拓弥が場をセッティングしてくれたおかげだ。

「それにさー……こういう変な話題があれば、レノさんも喜ぶと思わない? ネタ的な」

 とどめの一言だった。この頃の修は、レノと小説の関係性を図りかねていたから、自分も彼女に協力できるのだと考えていた。

 そういう経緯で、修は時々、バー・ナイトメアの恋人クラブに顔を出すようになった。ほとんどが拓弥のついでだし、修はどんちゃん騒ぎをしたいだけの男グループは苦手だった。なんだかんだ、レノの影響を色濃く受けていたのかもしれない。昔はまだ免疫があったのになんて思いながら、グラスを傾ける。

 この恋人クラブには一つ決まりがあった。心底馬鹿げた決まりだ。

 クラブに加入しているメンバーは、全員バーテンダーによってランク付けがされるのである。それも、彼女の顔面偏差値によってだ。

「最低すぎる」

 初めてこれを聞いた時、修は思わずそう言った。ルッキズムという言葉があるし、価値観は多様性の保護下にあが、露骨に突き付けられるとさすがに引く。

「まあそう言わずに。偏差値って言ってもバーテンダーが勝手に言ってるだけだから。あんま気にする必要無いよ」

「ちなみにタクは?」

 拓弥は端的にBと答えた。

「通常はDからAまであるから、まあ俺はマシな方ってことだな。悪くても別に、バーテンダーのお眼鏡にかなわなかっただけだし。自分のカノジョが一番かわいいもんだろ?」

 修は曖昧に頷きつつ、一点だけ気になった個所を指摘する。

「通常って、通常じゃないのもあるみたいな言い方だけど」

「ああ。たまに、たまーにだけど、上限突破みたいな。バーテンダーのお気に入りが現れるんだよ。それがSランク」

「ふぅん、なるほど」

「基準はよく分かってないけどな。歴代のSランク見ても、傾向とかも無いし」

 聞いてもいないのにべらべら話す拓弥は、気にしていない風で意外とランクを気にしているのかもしれなかった。修自身も、もしレノがCランクを告げられたらショックだろうと想像する。

 尤も、それは杞憂に終わる。

 何しろ、修はSランクを言い渡された。

「……え、S? なんで」

「あなたがじゃありません。いえ、ここではあなたですが」

 ミステリアスで高身長、すらりとしてヒョウのような姿のバーテンダーが、怪訝そうにそう言った。バーテンダーは、修のことを不思議に思っているみたいだった。

「こちらの方が深く問いたいですね……なぜあなたのような平々凡々な人間が……いえ」

 バーテンダーは気を取り直すと、近くに居たアルバイトの若い女性に「会員証を作るように」と命令した。それからまた修に向き直る。会員証は一時間ほどで出来上がるが、もし恋人と別れたら返却する必要があるのだと言う。恋人クラブに入るには会員証が必要だし、恋人クラブであるには恋人が不可欠というわけだ。

 Sランクの旨を拓弥に言うのは色々と気恥ずかしいし、気まずい心地もするので、最初はAだと誤魔化していた。だが渡された会員証が見るからに重厚なブラックで早速バレた。黒字に金の装飾を、一体どうやって一時間で用意したんだろうか。修の名前がアルファベットで刻印されたカードは、高級感があり過ぎて手に取るのも躊躇われる。

「お前Sなの??」

「らしい……俺がと言うか、レノがだけど」

「マジか……うーん、まあ分からんでもないか」

 拓弥は眉間に皴を寄せ、目を瞑って考え始める。

 ふと、視線を感じて周囲を見渡した。修の目は一点で止まる。先程のバーテンダーが、獲物を見定める鷹見たいな目で修を見ていた。目が合い、バーテンダーがにこっと笑う。営業スマイルだ。

 気味が悪くなって、修は拓弥に視線を戻した。拓弥が通っている酒屋なら、怪しいこともあるまい。たかだかルッキズムこじらせ酒屋でもある。いやルッキズムなのかは分からないけれど。単純な美醜ではないのかもしれない。誰がなんと言おうとレノが可愛いことを修は疑わないし、そこに客観的な指標が追加されて裏付けてくれるなら、突き返す必要も無い。


 だがレノに教えるかは悩んだ。悩んだ末に、これもやはり喋ってしまった。隠し事が死ぬほどできない彼氏こと修である。

「ねえねえ見てこれ、すごくね」

「え、すご。これなに?」

 レノがその可憐な指先で黒いカードの表裏をひっくり返して興味深そうに観察し始める。天使のような純真な眼差しが可愛らしい。

「タクに誘われてさ、俺恋人クラブってのに入ったのよ。その会員証」

「へえ、めっちゃ馬鹿っぽい名前のクラブだね。でも一周回って外連味を感じる。好きだな」

「お、おう……」

 節々でこだわりの強いレノが、こうも素直に好きというのは珍しい。入って良かったとしみじみ思う修は、純粋な人間だった。

「でさ、そのクラブ、階級的なのがあるのね。俺Sランクなの。すごない?」

「すごいんだろうね。何の階級なの?」

「それがよく分かんないんだけどさ。バーテンダーがなんか品定めして、それで……」

 そう言えば、あの時のバーテンダーは修の何を不思議そうにしていたんだろうか。不意に思い出されたが、思い出したところで分かろうはずが無い。修はそっと疑問を仕舞いこむ。

「品定めって、何を?」

 レノが真っ直ぐに尋ねて来る。修は思わず満面の笑みを浮かべた。

「ふふふふ。それは恋人の写真なんだ。つまりレノの写真ね」

「え、私の写真なんていつ撮ったの」

「いや疑問そっちかい……じゃなくて、レノがSランクなの。すごいでしょ」

「すごいのかも。そのバーテンダーさんの意図が分からないけど」

「単純にタイプだったんじゃない? それにレノ可愛いから」

「それはどうも、ありがとう」

 照れたレノが、恥じらいを隠すようにツンツンした態度をとった。レノはこういうところが分かりやすくて、とても好い。


 こんなふうに、楽しい時だけを過ごせたなら。いつからか、修はそう思うようになった。レノの人生が苦しみと共にあることを、否定出来るならどれだけ良いことか。新しいシーツを敷いたベッドで二人起きられる朝は少ない。修が起きてくるころ、レノはとっくにメイクも済ませて執筆している。

 修は拓弥に会うべく、財布を片手にバー・ナイトメアに向かった。恋人クラブは実のところ、日曜の二十三時から日付が変わった三時までしかやっていない。だが逆を言うと、その時間帯に粘り込めば、恋人クラブメンバーに会える可能性が高い。いわゆるリア充の輩がその時間帯に店に行くだろうか、と疑問に思ったこともあるが、むしろ逆だ。その時間に来れる客を、店は選んでいるのではないだろうか?

 会員証を店の入り口でスキャンして、地下に続く隠し扉を開ける。研究室よりハイテクだなんて思いながら、修は悪夢への階段を下っていく。徐々に音楽が鮮明になって来た。聞いたことのあるクラシックだ。確か――ショパンのノクターンとかだった。いつの間にか詳しくなっている自分に、ニヤケが零れる。

 そう広い店ではない。拓弥はカウンター席の最奥で飲んでいる。今日の客層は比較的落ち着いていて、会話をしている人間は見当たらない。少し奇妙に思えるのは、拓弥の隣に誰も座っていないことだ。いつもなら誰かしら芽、拓弥の話術の虜になり、パーティーじみた活気が発生する。

 とは言え、拓弥の隣が空いているのは、好都合だ。修は周囲には目もくれず、拓弥の左隣に座る。あの不可思議なバーテンダーは意味ありげにこちらを一瞥してきたが、修は彼には気に留めないようにしている。考え出すと、根拠も無い空恐ろしい感覚に襲われるからだ。

「よっ、タク」

 声を掛けてから、軽く背中を小突く。どれぐらい酔っているのかの確認も兼ねてだ。

 修の予想を遥かに超えて、拓弥は飲んでいた。応答に若干のタイムラグがある。

「……ああ、修か……」

「おうよ。なんでお前、そんな飲んだくれてんの」

「色々あんだよぉ……色々……」

 まあこの頃は、卒論の中間発表の資料作りや同時並行で就活もあるから、忙しいと言えば忙しいのだ。修も同じくそうである。例外はレノくらいなものだ。彼女は就活のしの字も無く、日がな一日小説を書いている。就活をしたくなさ過ぎて小説を書いているのかもなんて不埒な考えも浮かんだが、それにしては小説が苦行過ぎた。もしあれが一生続くとしたら、修なら就活を選択する。就活は数か月から長くても一年程度だ。内定が決まればひとまず安心でもある。創作活動に区切りは無い。

 しかし、ここまで拓弥が酔っているとは思わなかった。自分の見立ての甘さを呪うも、一方でこれを予想するのは困難だったとも思う……そう言えば、拓弥は内定先が決まっていると言っていた。詳しくは聞いていないが、商社がどうだの言っていたのだ。確かに拓弥の口の上手さなら、ビジネスマンが一番適正に合っている。研究室のみんなで、良かったねと称えたのだ。

 なら何がそんなにストレスなんだろう? 低気圧で死にかかっているだけだろうか。レノはたまにそうなる。そういうときは温かな野菜スープを煮込んで、修がスプーンで口まで運んでやるのだ。そうすると彼女はとても喜んで、儚いながらも精一杯の微笑みを疲れた頬に宿し、修を見てくれる。修はそれで、全てが報われた気になる。

 結局、その夜は二人して会話も無く飲み続けるだけだった。相変わらず見透かすような視線をバーテンダーから感じるが、逆を言えばそれ以上のものは感じ取れない。修の何を、彼は見ていると言うのだろう? 拓弥の不調の訳も、バーテンダーならば知っていそうだ。それでも口を噤んでいるところに、バーテンダーとしてのプロ意識を感じなくもない。どうでも良いが。


 それから、拓弥の傷心の原因はあっさりと判明する。


 拓弥が振られた。彼女に。

 ギャンブルでの浪費散財癖がついに見限られたらしい。さもありなんな話だ。最近は競馬どころか競輪にまで手を出して親に叱られたとも聞いていた。親に叱られるのだから、彼女にしたって同様である。むしろ、何故そこまで落ちるまで、やめなかったんだろうか? 修はパチンコすら打ったことがない。金をドブに捨てる人の気持ちが全然分からない。もちろん、それでも拓弥は気のいい友人だから、可哀想だと思っている。ギャンブルは愚かだし嫌いだが、拓弥は拓弥だ。一つの要素がその人を嫌う理由にはならないことを、彼は教えてくれた。

 拓弥という人間が崩れていく兆候は少し前から出ていた。日常的なストレスを浪費によって軽減しようとしていたのだ。証拠に、彼の目はここのところ毎日のように充血し、白目が黄ばんでもいた。「最近はファッションに嵌まってる」という発言もあり、修にはよく分からなかったが服装に気を遣っているはずだったのだが、それもどこ吹く風。同じ服を二日連続で着ていることもあった……というのは、レノからさっき聞いた話だ。修は彼の瞳の健康具合なんていちいち観察していなかった。そんな事実は寝耳に水だ。

「修くん、本当に気づかなかったの?」

 レノが信じられないものを見る目で修を見る。居室には今、修とレノしか居ない。とはいえ、知らないうちに拓弥が居室に来て話を聞かれたりしたら困るので、出来るだけ声を潜めて話している。

「普通に寝不足だったんじゃないの?」

「いやいやいや、そういうレベルじゃなかったし。本当に分かってないんだね……」

 レノの口調は多少の失望が滲んでいる気がして、修は内心でどきりとした。その上レノが「あ、まあ私が勝手に思ってるだけかもだけど」と付け足したので、猶更だった。

「色々重なったんだと思う。彼、プレッシャーに弱いタイプだから……」

 レノが訳知り顔で明後日の方を見て言う。修はそんなような、そうでもないような曖昧に頷くしかなかった。他人の気持ちなんて分からないものだ。何故レノがそこまで断定的なのか、まるで彼を見てきた風に言う。それはどうなんだろうか? 他人の心なんて、結局は分かるはずが無い。

 その時、レノがサッと廊下に目を配った。誰かが来た時、得てして彼女はそうする。ドアのロックを解除する電子音がして、現れたのは件の拓弥だ。それも、無惨と言わざるを得ない意気消沈ぶりを晒して。

「拓弥くん、おはよう」

 レノが声を掛けたのに合わせて、修も言う。だが拓弥のレスポンスは無く、目が虚ろだ。とぼとぼとレノの隣に腰掛け、沈み込む。恐らくは聞こえていない。

「おーい、拓弥くーん」

「……あ、うん」

 拓弥がようやっと顔を上げ、レノを見た。それからすぐ疲れたように俯く。ここまで来ると確かに重症だなと修にも分かった。声は泥にとられた足みたく沈んでいるし、何よりクマが酷い。髪の毛も、よく見れば蛍光灯の光にギラギラ反射している。オシャレに気を遣っているとはいえ、これはワックスではないだろう。

「拓弥くん、来週のゼミの発表資料、作り終わった? 君の番だよね」

 レノが優しい口調で話しかける。まるで保育園の先生を彷彿とさせる雰囲気で、修は若干、嫉妬を感じなくもなかった。そんな場合じゃないのは知っているが。

「……や、まだ」

「そっか。手伝おうか」

「いや……」

 拓弥の資料作りの腰が重いのは今に始まったことではないが、レノの厚意を断るのは驚きだ。レノはそれ以上言うことも出来ず、数秒おろおろした後、修に体を向けた。彼女は小声で「どうしよう……!」と助けを求める。

 どうしようも何も、どうしようもないと言ってしまうのは白状が過ぎるだろうか。けれど修にも、拓弥を救済する方法は思いつかないのだ。拓弥はいつだって愉快な男だったし、お悩み相談は聞き手に回る奴だ。百戦錬磨のアドバイザーに対し、どんな気の利いた話が出来る? 相談に乗って欲しいのはいつだってこちらの方だ。

 レノと修は気まずい雰囲気を打開も出来ず、そそくさと居室を後にした。レノは廊下を歩いている時も、考え込むように俯き続ける。前から人が歩いて来た時、修は密かにヒヤッとしたが、それは一応気づいていたようで、レノはするりと猫が翻るように避けた。二人は当ても無く歩いてていたが、ややあってレノがコンビニに行こうと言った。キャンパス内のコンビニにはフードコートも設置されている。

 レノは飴やブドウ糖など甘味を複数、修に持たせた。買えと仰せだ。

 レノと修は、外に面するカウンター席を選んで座った。外は駐輪場になっており、時々だけ学生が自転車を止めたり、乗って行ったりする。マジックミラーにはなっていないので、外からも中からも見え放題だ。だが別にいい。レノは早速ブドウ糖の袋を開けると、口に放り込んだ。しゅわっと微かに、砂糖の溶ける音が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。雑音に掻き消されているはずだ。

「……拓弥くん、心配だな。大丈夫かな」

 エネルギーを摂取したレノが心配そうに言う。物語の登場人物の虐殺に耐えられない彼女が、数か月一緒に居る友人の危機に耐えられるはずが無い。

「だけど、俺たちに出来ることとか無くね? 別れちまったもんは仕方ない」

「……まあ確かに。私たちだからこそ、彼には何も出来ないのかも」

 現在進行形でカップルの二人が何を慰めるのだと言う話だ。無神経である。

「時間が解決するのを待たないか? 俺たちがするべきは、拓弥を放っておいてやることだ。もし奴の方から助けを求めてきたら、その時はもちろん、助けてやろう」

 修の提案に、レノが納得したかは分からない。彼女は不透明な表情で、静かに頷いただけだったから。


 そして、修の勘は当たる。レノは拓弥のことを放っておかなかった。いや、放っておけなかった。拓弥が、ゼミごとプレゼンをすっぽかしたからだ。数日は関与しまいと決めていたレノも、結局は放っておけないことを選ぶ。

 レノは拓弥に心配している旨のメールを送ったらしい。修は、それが逆に拓弥を追い詰めないか心配になった。こちらが心配するほど、拓弥がプレッシャーに押しつぶされてしまうのではないかと。修の懸念を、レノは肯定する。彼女だって、分かっている。

「確かにね。拓弥くんは責任感が強いし、人に弱みを見せたがらない。私たちが心配するほど、彼にとっては余計なお世話なのかもしれない」

「じゃあ……」

「でもね。修くん。私は『時間が解決する』って言葉を信用してないんだ」

「……というと?」

「解決してくれるまでの時間がつらいことには変わりないでしょ。その間、ずっとつらいのは可哀想。誰かが一緒に居るべきだって、そう思わない? 私は思う」

 解決するまでの時間――修は思いもよらなかった。

 確かにそうなのかもしれない。時間がずっと流れているのだ。修は解決した後の結果にしか目が行っていなかった。どうせ幸福な結末だからと言って、その物語全てが幸福だと言えるだろうか?

「それにね、修くん、私は拓弥くんのこれからの未来のことも考えてるんだ。これからずっと、つらいことがあった時に『独りで耐える』以外の選択肢しかもたないのは……良くないでしょ」

「……誰かが相談に乗ってくれたって言う経験を積むってこと?」

 レノが優しく頷く。

「そうだよ。拓弥くんはきっと、今まで誰にも、自分の弱みは見せてこなかったんじゃないかな。彼、意外と頭がいいしね。きっと頼られる自分を誇りに思うと同時に、重荷にもなってたんだ。私たちで、その重みを取り除けないかな? 自尊心は良いものだけど、それが虚栄心になってしまうと、人は苦しい」

 レノの言うと子は大概抽象的というか、人間全般に関わる普遍的なことばかりで、修には理解できないことも多かった。ただ修は、レノが日々たくさん考えて悩んで、熟慮の末に結論を導き出していることを知っていた。軽率な勇気や軽薄な優しさの提供では決してない。


 レノは拓弥を見つけると積極的に話しかけ、そうでなくとも小説の合間を縫って、彼を探すようになった。修との時間はまた減ったし、来月にまで迫った文学部への寄稿もレノはやり遂げようとしている。ドタキャンが出来ると言っても、レノがその選択肢を選ぶことは九割九分存在しない。受けた時点で分かっていたことだ。だから嫌だったのに。

 しかもそれらが全て、追加分の仕事でしかない。上乗せした分だけレノの仕事は増加している。レノはたくさんの言葉と概念を知っているくせに、妥協と自己愛は除け者にするのだ。

 拓弥はプレゼンをすっぽかしてから、担当教授と剣吞な関係となっていた。その間を取り持っているのもレノである。修もレノの手伝いをすることはあれど、率先することは無い。してやりたいのだけれど、生憎とレノの方がそういう気がすこぶる利く。拓弥は分かりやすく気を遣ってくれる人間だったけれど、レノは相手に気付かせない気遣いが上手い。それに気付けたのは、レノと一緒に長い時間を過ごしたからだ。本当にたくさん、人を見て、考えてくれていると思う。

「拓弥くん、これ先生からの資料だよ」

「ああ、ありがとう……けど、要らない」

 拓弥がレノの手に紙束を突き返す。レノが丁寧にクリップをつけていたのに。

「え、要らないって、どういうこと?」

 レノが尋ねる。修にも分からない。レノが説得したおかげで、教授は挽回の機会を拓弥に与えた。本来は予定の無かった日時に、拓弥の分の発表を臨時で入れたのだ。それで教授はもちろん、修たちのプライベートの予定まで変更せざるを得なかったけれど、拓弥のためなら研究室みんなで異論は無かった。先生も心の狭い人ではないから、レノによって溜飲を下げられると、拓弥のための資料まで用意してくれた。きっかけはレノだったが、修の知る世間は優しい人に溢れている。まるでレノが土に水をやり、自らの周囲に花畑を作り出したかのように。レノと一緒に居ると、気持ちがゆっくりするせいか、怒りだとか妬みだとか、嫌な感情が浄化される心地がするのだ。気のせいかもしれないけれど。

 だがそのレノでさえも、手の届かない人間は居るかもしれないし、実際居るんだろう。拓弥は、レノの賢明な優しさを、むしろ疎ましく思っている様子だ。彼は淀んだ目でレノを睨みつける。レノが小さく息を呑んだ。

「もういいよ……俺、学校辞めるつもりだから」

「え? ……嘘だよね?」

「嘘じゃない」

 拓弥は怒りの滲んだ声音で言い切った。一方で、どこか茶化すような軽薄さも感じる。拓弥がどうしてそんな口調をするのか、修の理解は及ばない。

「地元帰って、友達と一緒に漁師やろっかなって思うんだよね。言ったじゃん、うちの地元、芯がk数りゃつの方が少ないんだよ。俺ずっと考えてたんだ。なんでやりたいこともないのに大学来たんだろって。マジで馬鹿だけど」

「……馬鹿じゃないよ」

「慰めてくれなくてもいいよ。無駄に高い学費払ってさ、無駄な勉強してさ。今は無駄な研究させられてる」

 拓弥がレノの手を指差した。拓弥のための資料だ。

「死ぬほどどうでもいいわ」

 勢いをつけたのか、拓弥が立ち上がる。そのまま出口に向かって歩き出す。

 最後に、彼は履き捨てるように「じゃ」と言った。

 レノは呆然と彼の背中を見ていた。修はその横顔をじっと見ている。

「……そんな」

 レノが小さく、呟いた。悲痛に満ちた声色だった。――あの日、休日に家でSF短編集を読んでいた時みたいに。読みたいのに読めない、読みたくないけど読まなくちゃいけない。彼女が嘆いていた時の。

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