第9話 泳げマグロ! 書け小説!

 とんちきな題で驚かれたかもしれない。だが私にもそういうジョークを言いたいときはある。私はジョークが好きだ。それも馬鹿げていれば馬鹿げているほどいい。人生は悲劇一辺倒だが、悲劇も引きで観れば喜劇とは言われている。なら人生は悲劇でありながら喜劇なのだ。ジョークの一つも言わないでどうすると言うのだろう?

 だが、このとんちき極まりないナンセンスな小題も、意味が無いわけでは無い。ナンセンス文学には高度なセンスと言語的知識が必要なように、私だって全ての題に意味と、それを考え書いた瞬間の命を込めている――込めざるを得ない。小説を書いている瞬間、時間は、人生から捻出されている。

 話が脱線した。要するに、マグロは泳いでいないと呼吸が出来ない。その話自体は有名だ。魚の呼吸は人間と違って肺ではなくえらで行うが、マグロにはえらを動かすための筋肉が存在しない。人間における横隔膜が存在しないのだ。よって、常時口を開けて泳ぐことで海水を常に取り入れる以外に、酸素の補給が出来ない。私はこれと同じだ。

 小説を書いていないと生きられない。私には小説を書く使命だけが存在している。

 私は、自分が何をしたいのか分からない時がある。いやそんな時しかない。私は自分自身の望みを知らないが、代わりに使命は知っている。いつからか私の中に存在する、焼けるように輝く何か。思念情念織り交ざった心の中で、一本の棒のように貫くもの。私はこれを原動力として生きて来た。何をしたいかは分からないが、何をすべきかだけは分かる。

 だから、言ってしまえばこの体も、心も、小説を書かないなら捨ててしまって構わない。必要無いからだ。私は小説を書くために生きているし、小説を書くから生きていられる。私の人生は小説のために存在する。




 拓弥が行ってしまった後、レノはその扉がゆっくりと閉まるその時まで、意識を遠くにやっていた。だががちゃりと音が鳴った瞬間、彼女は弾かれたように立ち上がった。その口が「行かないと」と動いたのが、遅れて耳に届く。

「ちょ――レノ!」

 走り出したレノを修は呼び止める。レノは振り返りもしない。

「修くんは待ってて! 私が何とかするから!」

「何とかって……!」

 中途半端に椅子から浮いた腰をどう落ち着けるかも分からず、修はレノが研究室を出て行くのを見ていた。黙って見贈る自分がまた腹立たしい。これでは、結局レノの助けにはなれていない。

 せめてレノが掛けるであろう言葉の数々が、拓弥の心に届き響くことを祈る。彼女の言葉がどうか、小説だけでなく、目の前の人間にも意味があるのだと言うことを。拓弥だけでなくレノも、分かれるように。

 その後の三日、レノは修の家には寄らなかった。居室にはおらず、かと言って修は、彼女の自宅を知らない。メッセージでのやり取りで、彼女が元気で無事に生きていることや、拓弥を励ましていることは伝わってくる。自分が放っておかれていることに、この時ばかりは修も仕方ないと思えていた。

 三日の後、修の祈りは届いた。拓弥が学校に来たのだ。

 それも、発表用の資料も携えて、である。一体何があったと言うのか。

「……おはよう、修」

 拓弥が照れくさそうに言った。それで、彼の精神が一定ラインまで快癒したことを理解する。あの理不尽な怒りに焼かれていた自暴自棄な彼とは、雰囲気から言葉遣いまで異なっている。

「あ、おう……えと、元気になったんだな……良かった」

 本当に良かった。レノも、きっと報われただろう。

「えへへへへ。ありがとな。そんなこと言ってくれるとは思ってなかったわ」

 拓弥がだらしなく笑う。

「なんで思わないんだよ。お前、俺のことなんだと思ってるんだ」

「いやぁー……別に修は悪くないんだけどさ……というか俺が悪いんだけどさ」

 拓弥は明後日の方を向いて、思い出すように微笑む。

「俺、周りのこと全然信じれてなかった。そのことに気付きさえしてなかった。自分一人で何でも解決しようとしてた。出来ない時はすぱっと諦めて」

「……そんなことないだろ。お前、人脈くそ広いじゃないか」

「そうなんだけどさ。それを全く活用出来て無かったなって。助けてくれる人はいるのに、それを一つも見てなかった。見えないフリをしてたのかも、自分でも知らないうちに」

「……そっか」

「うん。ありがとう」

 さすがに礼を言いすぎているのが恥ずかしいのか、拓弥は誤魔化すように視線をずらすと、自分のデスクでパソコンを開き、発表の準備をし始めた。数分も待たず、資料の共有メールが送られて来る。メール本文には「ご迷惑をおかけしました。これから取り返せるよう努力いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」とある。おかしくて笑うと、離れたところから拓弥の怒声が響いた。笑った怒声だ。

 資料作りには個性が出る。修の見立てではあるが、拓弥のそれは、どうやらいつもと形式が違う気がする。単にメンタル的な部分のせいか、あるいは誰かが手伝ったのか。

「あ、修、そう言えばなんだけどさ」

 見計らったように、拓弥が声を掛けて来た。

「なに? もう笑わないから許してくれよ」

「いやそうじゃなくて、レノさんのことなんだけど」

「レノのこと?」

「ああ……」

 拓弥が言いながら、頬をにんまりさせる。

「レノさん、すごく親身になってくれた。俺が今ここにいるのはレノさんのおかげだから」

「……へえ」

 思わずにやけてしまう。痙攣しそうな頬の筋肉が、思い通りにならなくて鬱陶しい。

「修はもう知ってると思うけど、あの人はすごく優しい人だ。多分……俺が知る中じゃ一番かもしれない。けどレノさん、大したことじゃないって言って礼も言わせてくれないんだよ。だから修、代わりに言っといてくれや。感謝してるって。お前の言葉なら聞くだろ」

「……レノは、ちゃんと分かってると思うけど」

「知ってるよ。でも言葉にするのって大事だろ。言質取る的な。違うか」

「違うだろうな」

 何はともあれ、修はレノへの伝言を受け取ることにした。この世界に、当然と言うものは存在しない。行動に責任が伴うなら、同時に見返りもあってしかるべきだ。神が与えないなら、せめて自分がそうしたい。しなければ。


 三日ぶりの再会だ。修の部屋で、さぞレノは疲れを癒していることだろうと思っていた。だあ現実は、レノは小説を書いていた。

「レノ……さすがに休めばって思うよ」

「だよね。我ながら思う。だけど今ライターズハイなんだ」

「ライターズハイ?」

 聞きなれない言葉だ。ランナーズハイなら聞いたことがあるのだけれど。確かマラソン選手における専門用語みたいな感じだ。走り過ぎて体力という概念が無くなり、無限に走れる気がするという錯覚。アドレナリンの過剰分泌によって起きるんだっけか。ああいや、曖昧な記憶と知識だ。だがきっと、ライターズハイとやらもそんなところだろう。

「言葉が溢れて止まらないんだよ。たまになる」

 レノは簡潔に説明すると、タイピングを続けた。いつもより勢いがあって、エンターが無駄にうるさい人みたいになっている。

「そっか……俺に出来ることってある?」

「特に無いよ。ご飯作ったから食べていいし……あ、私邪魔かな」

「まさか。久々なんだからもうちょっと居ろよ」

「だよねー」

 お互いに干渉することは出来ないが、せめて同じ空間には居る。それでいいのだと、修もレノも思っていた。無理に合わせようとしなくていい。

 いつもは掃除洗濯料理という家事のほとんどをレノが担っている。三日間レノが居なかった弊害は実のところ大きかった。レノに任せきりにしたいわけじゃないが、いかんせんやり方をとっくの昔に忘れてしまった。部屋の掃除さえままならない自分は、まるで大きな赤ちゃんだ。

 ふと、卒業後の生活が頭に浮かぶ。もし……もしレノがその時もまだ修と一緒に居てくれたとして、その時はどう二人で生きているだろう? 自分は普通に働いて、昼は居ない。それは良い。だがレノは、家にずっと一人で小説を書き続けるんだろう。時々だけ作業から顔を上げ、今度は家の仕事を片付ける。

 昔、Twitterか何かで「お母さんはいつ休んでいるんだろう」という駅に貼られた標語か何かがバズっていた。呟いたのは誰だったろう? 妻か夫か、子供か。

 思い出せないが、それなりの人間が同じことを考えていたのは確かだ。今は夫婦共働きの時代でもある。家事は平等に割り振られて然るべきだ。だがレノは、仕事を目にすると全自動で片付けてしまう。修が目にするのは、綺麗になった部屋だけ……。

 このままでは良くないし、いつかレノでさえ愛想をつかして、修を置いて出て行ってしまうかもしれない。レノは独立心の強いタイプだし、修が居なくては生きていけないなんてことは全く無い。

 ならば、片方が欠けて困るのは、もしかして自分だけなんだろうかと修は考えてしまう。レノはいつ修が居なくなってしまっても実利的な問題は起きないが、修の方は大問題だ。カップラーメンの空がゴミ箱で溢れてハエがたかっている夏場なんて、考えたくも無い。

 いつの間にか甘えていた。レノが小説に集中できるよう、せめて家事の負担を減らしたい。彼女が小説から、ふと顔を上げた時に、見える世界が愛おしいように。

 修はそれから、密かに家に居る時間を増やすことにした。サークル仲間とバーで飲んでいる暇があるなら、家に居て用事を片付けるべきなのだ。

 だがレノには、即行で修の変化はバレた。彼女は「無理しなくていいんだよ」と修に言うも、やめろとは言わなかった。


 だが、それが良くなかったのかもしれない。

 何かが壊れる原因が、全て悪意のせいだったら。


 エアコンを本格的につけるようになった七月、去年までは家に居ること自体が珍しかったので安く済んでいた電気代が気になり始めた。厳密に言えば同棲ではないため、家賃の折半の話などしていないが、そろそろ現実的な話が必要かもしれない。修はレノの金回りの話を一切知らないが、彼女が経済的に困窮しているのは、見たことが無かった。もしかして自分に隠しているだけで、本当はもう小説家デビューしているのでは? なんて妄想が頭蓋の内側を駆け巡り、頬を緩めさす。

 難しい話に頭を切り替えようと、修は入学時に買った勉強机に腰掛けた。最近はほとんどレノ専用と化していた机だ。彼女の高さに合わせられたチェアを少し高く調整する。後で元に戻さなければ。

 レノは几帳面な性格なので、机上はいつも綺麗に整っている。直近使うものだけをカラーボックスに並べられた状態は、誰がどう見ても美しい。彼女は読み途中の本しか修の家には持ってこないし、積読という存在を作り出さない。本当に真面目な人だし、真面目過ぎて少し不安だ。きちんとしている人ほど、うつ病にかかりやすいと聞いたことがある。レノは……大丈夫だろうか。

 心配する修の目に、ふと、変なものが映りこんだ。

 いや、なんてことは無い。レノのメモ帳だ。

 変だと思ったのは、それがいつも使っている研究用のそれとは違うからだ。レノは研究用のメモ帳の拍子に、近年流行のミニキャラクターのシールを貼っている。昔「好きなの?」と尋ねた時、レノは「見分けられるように」と答えた。メモ帳自体は百円ショップで売っている没個性なそれだから、当時の修は「他人のと見分けられるように」だと考えたのだが。

 違ったのだろうか。修は何気なく、真っ黒な表紙をした質素極まりないメモ帳を手に取る。

 すると、何かが落ちて来た。

 カードだ。一見するとクレジットカードとか、どこかのポイントカードに見える。

 だが、修はその独特な刻印で、それが何か分かった。色は黄色で違うが、絶対にそうだ。

 それは恋人クラブの会員証だった。Bランクは黄色なのだ。ご丁寧にフルネームのアルファベットで、修のよく知る人物の名前が記載されている。

 修は以前、恋人と別れた時、クラブからどのように脱退させられるのか、拓弥に聞いたことがあった。すると彼は、すらすらとこう答えたのだ。

「ああ、会員証あるだろ。あれが言っちゃえばカードキーだからさ。恋人クラブじゃなくなった奴は認証システムから外されて、物理的に店内に入れなくなる。認証されなければ、こんなのただプラスチックの板だからな」

 拓弥はペラペラとうちわのように、Bランクの会員証を仰いだ。

 修は、取り上げられるわけじゃないんだなと、その時は思った。


 もはやただのプラスチックの板と化した、拓弥の会員証が、どうしてレノのメモ帳から出てくるのだろう? 修はやや考えた末、拓弥から預かったに違いないと結論付けた。恋人を失くした元恋人クラブ会員なんて、不名誉な称号である。ならばそれを示すアイテムごと視界に入らないようにしたいと思うのは、当然ではないだろうか。

 それが希望的観測なのを突き付けたのは、レノのメモ帳だった。

 ふと開きかかっていたメモ帳の、とあるページが目に飛び込んでくる。恐らくはレノが最近まで開いていたから、かたがついたのだ。だが、これは――。


 明るく陽気。ジョークを飛ばす。

 留学生相手にも臆さず話しかける。英語は下手。

 オンオフの切り替えが激しいと公言。

 無類のギャンブル好きで、国営はともかく地方競馬や競輪、パチンコにも手を出している。

 研究室に居る時は大体競馬。

 競馬豆知識を披露してくれる。

 撮影の前は鏡とスマホを要チェック(女子かな)。

 前髪の位置が気になる。

 田舎出身。港町とのこと。


 ――簡易的なプロフィールのメモだ。誰についてなのかは明白である。

 メモは続く。


 頭の回転が速く要領が良い(EQが高い)。

 その実繊細で、完璧主義。

 期待を裏切るのが怖い。

 オンにするのに、時間と気力を有する。

 素の自分を見せるのが怖い。


 昔、お笑い芸人を目指していた。

 笑いを取ろうとするのはその名残。


 地元の友達は大体漁業に従事していて、進学は稀。

 賢い扱いをされてきたのかな? 完璧主義等、節々でプライドが高いのはそのせいか。


 ――ここまでは、箇条書きで特徴が記されていた。だが、それより先、長い文章が綴られている。


【雑感と考察】

 この類の人間は、自分のことばかり考えている。要するに自意識過剰である。己の中に何らかの、漠然とした罪悪感を飼っていて、にもかかわらず、あるいはだからこそ、自己愛も一層強い。人間は得てして自分のことを考えている時、他人の事情を慮れないものだが、彼はその典型だ。しかしながら、それは責め立てるべきものでは無い。他への愛情は正当な自尊心から生み出されるもので、例えば自暴自棄な人間に相互性の原理を説くことほどナンセンスな行為は存在しない。生を肯定しえないものにとってあらゆる倫理は虚しいと言っただろうか。まさしくそれだ。


 ――文章はまだ続くが、修は一端、読むのを止める。

 これが一体何なのか、まだ分からない。だが、これが紛れもなくレノの字であることは、数か月の付き合いが証明してくれる。筆跡鑑定の必要も無く、これはレノが書いたものだ。まず間違いない。

 だがこれはなんなのだ。

 レノが帰って来る気配がまだないのが、せめてもの救いかもしれない。修はドキドキと嫌な緊張感に苛まれながらも、冷静に思考を回す。

 これが何を意図して書かれたものなのか――善なのか、悪なのか。

 何度も見返す。読み返す。こんなにも字を読んだのは久々だ。頭の中が文字でごった返しそうで、頭がクラクラしてきた。ちょっと読んで考えただけでこうなのに、レノはこれをも超える量の言葉日々駆使し、考えている。それ自体は本当にすごいことだ……すごいことだったのに。

 結論の出ない頭はグルグル回り、知恵熱でオーバーヒートし始める。修はメモ帳を元あった場所に戻し、床にへたり込んだ。

 この後、いつレノが来るか分からないが、今は会いたくない。会っても、良い顔が出来ない。

 逃げるように、修は自宅を後にした。

 すぐ後ろから、レノが現れそうで恐ろしかった。

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