第6話 アンドロギュノスの半身

 不完全であればあるほど、補完しようと他存在を求める。それは同じく人間でも、それ以外の動物をペットにすることでも、宝石を買いあさることでも、綺麗に着飾ることでも、絵画を飾ることでも、たくさんの現れがある。

 時は流れ過ぎ去り戻らない、そう思っていたことが確かに私にもあった。けれど時とは、自らの内から溢れ出ていくものであることを、私は知った。つまるところ、私の変化が、時を示す。

 独断論のまどろみという言葉がある。ほとんどの私たちはまどろみの中に居る。夢を見ている。浅い夢を見ている。つまらない夢を見ている。まるで浅い波間の海辺に身を横たえるように、覚めそうで覚めないまま。

 私たちが本当の意味で目覚め、そして生きるのは、死んだ後だけだろうと私は思っている。この意識があるうちはまだ、私たちは個々の皮膚、硬い頭蓋に覆われ、ありもしない幻想にしがみついてしまう。迷妄……迷妄だ。

 ところでプラトンという哲学者が居る。ソクラテスの弟子で、アリストテレスの師匠だ。師匠と言うよりは、プラトンの建てたアカデメイアという学校(アカデミーの語源)にアリストテレスが通っていたという方が正しい。だがこの三者の関係は、哲学の継承という点で私にとって非常な羨望である。

 プラトンは古代ギリシャの人間である。彼の著書に饗宴というものがあり、その中の登場人物たちは競ってエロスという神を称え話している。

 その話の中で、アンドロギュノスという存在が出てくる。古代の人間だ。なんでも一人の人間に男女それぞれを特徴を有し、まさしく完全な人間であったのだという。

 その完璧さがゼウスの機嫌を損ねてしまった。ある時、完全な人間は傲慢とされ、半分ずつに分かたれた。以来、二つとなったアンドロギュノスは、互いに自らの半身を探し求めるようになったという。それが運命の人、ベター・ハーフである。

 私たちは欠陥を補うため、自らの半身を探し求めている。




 念願の恋人獲得だ。修は立役者たる拓弥に早速ありがとうメッセージを送った。すると拓弥から祝勝会をあげようと提案され、修は意気揚々と乗る。

 だが拓弥が指定した場所は何故か居室だった。嫌な予感とともに、金欠の字面が頭に浮かぶ。多分そう、てか絶対そう。

 そして机上に並んだ炭酸ジュースと紙コップ、ポテトチップスの袋に、一周まわって笑いが込み上げる。

「中学生の打ち上げか?」

 いや最近の中学生は早熟らしいから、普通に店でお好み焼きでもつついていそうだ。

「せめて酒を用意しろよ」

「ごめん俺断酒中だから」

「は? なんで」

「飲みすぎって彼女に怒られた」

 なるほど、それは修にはどうしようもない。友人より恋人の方が支配権は上だ。

「それだけ心配してくれてるってことか。羨ましいな。結婚待ったなしじゃね」

「言い過ぎだろ」

 口ではそう言いながら、拓弥は気持悪い笑みを顔中に広げている。満面の笑みとはこのことだ。元より小さな目なんて、盛り上がった頬の肉に埋もれて、新月を前日に控えた三日月のようになっている。いい人の笑い方だ。

 実際、この歳にもなれば夢物語でしかなかった結婚という概念も、かなり近い場所に悠然と鎮座し始める。大学を卒業してすぐに結婚ということだって無くは無い話だ。それだけ、修たちももう大人だった。

 ――だから、修の頭に、そういう空想妄想が過らないわけじゃなかった。例えばレノは――。

「それにしても、修もついにこっち側か」

「なんだよこっち側って」

 意味を分かっていながら、修はすっとぼけた。先程の拓弥と同じことをしていると、自分でも理解していた。だがせめて謙虚な振りでもしないと、感情がそのまま暴走して、ガードレールを突き破って崖下へ転落しそうなのだ。修は分かりやすく有頂天だった。

 だが昨日のそれは結局のところ始まりに過ぎない。これからどうするかが肝心だ。今日は人生と恋愛の大先輩として拓弥を頼るつもりでもいた。例えば初デートのプランとか。

「拓弥はさ、彼女との初めてのデート、どんなことしたん? 映画館とか?」

「え、それ聞いちゃう? 聞いちゃう?」

「やっぱいいや」

「うぉい!」

 拓弥に肩を叩かれて、修は思い切り上体を斜めらせた。崩れた体が椅子から転げ落ちるも、ふざけた笑いは止まらなかった。久々の青春を肌で感じる。人生に必要なのは、やはり恋と愛なんじゃあないか? 本気でそう思った。

 その時、居室のロックを解除する音がぴっぴと響いた。

 拓弥と二人で扉を見つめる。拓弥の話では、今日は誰も来ないはずだった。レノは最近忙しそうで、家に籠っているらしかったし、鏡花は二日酔いだと聞いている。

 現れたのはレノだった。

「あれ、レノさん来ないんじゃなかったっけ」

 拓弥が声をかけた。レノは涼しげな顔で答える。

「忘れ物したんだよ。取りに来ただけ」

 それよりとレノが怪訝な表情で机上を見る。

「え、昨日の今日でまた歓迎会? もう懲りたのかと思ってた」

「それが今日は別のでね。酒も入ってないし、めちゃくちゃ健全だよ!」

 拓弥がちらっと修を一瞥してから「レノさんもどう?」と彼女を誘った。レノが微笑みながら首を横に振る。

「ごめんね。ちょっと忙しいんだ」

「忙しいって、バイト?」

「そうだね」

「へえ、レノさんってどんなバイトしてんの?」

 確かに、これまで彼女からそういう話を聞いたことが無い気がする。私生活若干謎だよな、と拓弥と話し合ったことさえあるのだ。

 レノは優雅な笑みを絶やさない。謎めいた仮面をつけたまま、答える。

「内緒」

「うわ出たぁ! レノさんいっつもそうなんだから」

「ごめんね。守秘義務があるから」

「え、それマジ?」

「冗談だよ――そんなことより、私は忘れ物を取りに来たんだってば」

 レノ特有のヒールの音がコツコツと響く。その音は、修の目の前で止まる。

 修を見つめたままレノが佇んでいる。

「え、どしたの」

「忘れ物」

「……え?」

「忘れ物は、修くんだよ」

 拓弥かピューっと口笛を吹いた。茶化されている。それに気づいた瞬間、修の顔は瞬間湯沸かし器みたく火照った。

「お、俺をご所望……?」

「うん」

 レノはこくんと頷く。拓弥が再度口を鳴らす。

「なんか暑いなぁ、いや熱いなぁ!」

「拓弥くんちょっと黙ろうか」

「ごめん! じゃあ俺帰るわ! 気が利くのが俺のいい所だから!!」

 どったんばったんと騒がしくしながら、拓弥が小走りで居室を出て行った。残されたのは、静かに微笑んで拓弥を見ていたレノと、胸の早鐘が鳴り止まない修の二人だけだ。

「昨日あれだけ飲んでいたのに、とっても元気だ。羨ましいバイタリティだね」

「ああ……」

 あれだけ飲んだというか、量で言えば多分レノの方が上なのだけれど。それを言ってはいけない気がする。

「それでレノさん、俺に用って?」

「うーん、特に無いけど」

 レノはあっけらかんと述べると、拓弥が座っていた位置に腰を下ろした。机に寄り掛かるように、彼女はリラックスした様子で修を見上げる。

「無いんだったら、どうして」

「顔を見に来たって感じですけど」

「……へえ」

「なんですかそのへえは」

 拗ねたのか、レノがむすっとして机の表面を睨んだ。

「私たち、お互いにあんまり積極的じゃなさそうだなって思って。恋はパドドゥに似てるでしょ? 頑張ってリードしなきゃ、つまらない」

「ごめんパドドゥって?」

「バレエの一種だよ。男女の二人一組で踊るの」

 なるほど、恋はパドドゥか。覚えておこう。

「ふーん、じゃあレノさん、リードしようと思って迎えに来てくれたんだ」

「そのつもりだったけど……必要無かった気がする」

「なんで?」

「修くんが頑張ってくれそうだから」

 レノが甘えた声を出す。甘えられていると分かった瞬間、体が別種の緊張を帯び始める。レノのコロコロと変わる表情が、まるで家猫のように修を手のひらもとい肉球で転がしている。それを憎く思うことすら、愛おしさの前では不問に付される。

 舌のもつれるようなままならなさと、己の頼りなさをひしひしと感じながら、修は口を開いた。

「そう言えば昨日、部屋の片づけ手伝ってくれるとか、言ったよね」

「言ったけど……え、もしかして」

「……良かったらだけど、これから俺ん家行かない?」

 大きな瞳、レノの満月のような瞳が、その瞬間ぱちくりと瞬いた。

「行く! 行く行くっ!」

「お、おう……え、あ、……マジか」

 我ながら情けなさが天元突破している返事だった。そう修は、心の中で回顧した。

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