第5話 詩神ミューズの加護なきところ

 生まれながらの間抜けを思索型の人間に作り替えることは出来ない。間抜けは間抜けのままで一生を終える。彼らは精神が貧弱且つ卑俗であり、牡蠣とシャンパンが人生のクライマックスであるとされている。

 上記の言葉が頭の中であって、私を救ってくれた。昔、あまりにも親と話が合わないので、軽はずみにも人生に絶望していた。家族の中で異端は私だ。でも自分が変わろうとは思えなかった。正しいのは私だ。

 私には親が、まるで豚のように見えた。ここで言う豚とは、世間で言う馬鹿にする意図での豚である。すなわち畜生である(本来の豚は野生動物の中でも賢い部類に入るらしいので、念のため)。何故そう見えたか? 私の親は、いわゆる俗物だからである。

 俗物とは、精神的欲求を持たぬ生き物のことである。いつまでも実生活に大真面目にかかずらう生き物のことである。現実的なものにしか興味を持てず、芸術に何らの価値も感じない生き物のことである。俗物は鈍感で無味乾燥で、畜生めいた一直線ぶりがつきものである。朝起きてはご飯を食べて、働いて寝て、ある時に自分に見合ったレベルの同じく俗物を見繕い、一緒になる。まさしく畜生である。

 畜生もとい俗物は、大抵群れることを望む。彼らの貧弱な魂はあまりにも空虚が過ぎて、自分一人ではたった刹那であるとも存在することすら耐えられないからである。卵型のチョコレートを思い出してほしい。誰もが小さい頃に、一度は食べたことがあるのではなかろうか? 中に安っぽい玩具が入っている知育菓子。俗物の魂はあんなものである。すなわち簡単に砕ける上に、中には大したものも無い。本物の卵ならばいくら力を加えようとも平気だが、彼らは脆弱極まりなく、見た目がなんとなく可愛らしいだけだ。その愛らしさも、見栄の一言で片付く。

 私は俗物を見ると、思わず眉根を寄せる。だが最初に述べたように、間抜けは間抜けとして生まれ、間抜けとして一生を終える。人は自らの本質だけは忘れることが出来ない。ならば彼らに向けるべきは、軽蔑でも蔑如でもなく、憐れみや同情なのでは?

 傲慢翻り博愛と為す。私はまだまだ考える必要がある。




 拓弥の作戦は酷く単純だが、だからこそ効果的であると言えた。それこそ、所属研究室全体での歓迎会である。メンバーは全部で四名。レノ、拓弥、修、そして鏡花という女子学生である。鏡花もまた拓弥と同じく、アグレッシブで居室にはほとんど来ない。拓弥よりは来るが、ほとんど授業の終わりに寄っただけとか、調査報告書を書くとか事務的な用事に限る。明るく社交的で、同性に好かれそうな純朴さだが、恋愛対象としては修は心惹かれなかった。拓弥と同じく少しずんぐりむっくりした体型と重そうな一重、それに色々な場面でルーズな側面が目立ち、まず人間として完全には好きになりきれない。友達としては全然楽しいが、やはり女性という枠組みには入ってこない。酒好きなので、その話はよくする。当然、今回の飲み会にもいの一番に来ると立候補した。拓弥、修、鏡花と研究室メンバーが一堂に会せば、レノは恐らく断らない。

「レノさん、集団の規律とかはウチで一番厳しいからな。約束とか絶対守る」

 拓弥がそう言った時、修もまた頷いた。レノは確かに興味の無い話に乗らないが、それはレノ以外に人がきちんと居た場合に限る。自分しか出来る人がいないとあれば、彼女はきちんと役割を遂行する。多分、この研究室で一番真面目なのが彼女だ。見た目が遊んでそうなので、大抵の人はそのギャップに驚くし、やられる。

 だが、そういう打算も、本当のところは必要無かったのかもしれない。

「え、歓迎会? 行く行くー」

「そこを何とか――え?」

「他の研究室みたいにパーティーとかやんないのかなって思ってたんだよね。全然行くよー」

「でも酒入るよ、絶対」

 いいと言われると逆に心配になる性か、修は思わず聞いてしまった。

 レノはいつもと変わらない、謎と無邪気を同時に含んだ顔で言う。

「そこはモーマンタイとしよう」


 こうして近所の飲み屋に、四名の学生が集ったわけだ。サシ飲みだと断られたのに歓迎会だと大歓迎なのは、修の好感度の低さゆえな気もしなくはなかったが、それこそモーマンタイとしておこう。嫌なことは考えないに尽きる。

 大学近郊に乱立している飲み屋だけれど、今回は男女比率一対一の四人ということで、四人用の個室が取れる店を選んだ。もちろん修ではなく、そこらの配慮が異性にモテるくらいには上手い拓弥さまの手腕である。彼はこういうところの気がよく利く。参考にしなければ。

 少しクラシックに傾いた空気はぬるい。部屋を区切るのは暖簾一枚だが、なかなかどうして、それだけで機密性が守られている気になるから不思議だ。店のチョイスが良かったのか、客層も落ち付いているようで、いつと同じトーンで話しても困ることは無い。オレンジ色のカンテラみたいな照明が、糸で宙吊りになっている。低彩度の店内は修にはかえって居心地が悪いが、女子受けは抜群だろう。イメージとしてはピアノでも嗜んでいそうなレノは、こういう場が良く似合う。

「わぁ! 良い感じだね」

 早速卓に着いたレノが嬉しそうな嘆声を上げた。拓弥がニッコリと笑ってから、すかさず修にだけニヤけた顔を覗かせた。ばっちりということだ。

 拓弥の計らいで、修はレノの隣に座らせてもらった。拳一つ分……心臓一個分だけ離れた左側。体のリズムの一挙手一投足が空気の揺らぎとして伝播してしまいそうな緊張感を覚える。

「月光の第二楽章が聞こえるね。なかなか趣味が良い」

 レノが優雅な微笑みを浮かべて、修に話しかけてきていた。その距離があまりにも近くて、心臓がはじけそうになる。

「え、月光?」

「ベートーヴェンだよ。知らない?」

「あ、コナンの奴」

「ああ、らしいね。私はそれ見たこと無いけど。ていうか多分第二楽章じゃないよねそれ。第一楽章じゃないかな」

「その第何楽章とかってなんなの?」

「おっと」

 レノが芝居がかった様子で目をぱちくりさせ、「ご存じなかったか」と妙な言い回しをした。照明の色と角度のせいか、いつもとは面持ちが違って別人のように見える。いつもはどこか幼くふわふわしているのに、今日は凛として、綺麗だ。その髪に触れたいと、一段と強く想う。

「ベートーヴェンの話はいいや。この席には相応しくない」

 レノがさらりと言って、話を変える。

「それより何食べる? 私ローストビーフ食べたいな。あとサラダでしょ。何サラダがいいかなあ? 修くんは何がいいと思う?」

「え、サラダ? サラダか。なんでもいいかも」

「そっか。あ、みんなは何がいいかな。とりあえず一人ずつ希望を出してみよう」

 レノが軽やかに提案し、拓弥と鏡花もそれに乗る。レノは厭味も無しに仕切るのが上手い。それは彼女に、仕切りたいという欲望が無いからだろう。レノがそうするのは、その場にその役割が必要だからだ。なんだか子供っぽいんだか大人なんだか分からない時がある。修はぼんやりと、彼女を眺めていた。見ていても分かりそうになかった。

 みんなで決めた料理の皿が一通りテーブルに並ぶ。お腹の虫が鳴ったので、箸をm撮ったが、ふと、ローストビーフもサラダも無いことに気が付いた。不思議に思ってれのにこっそり耳打ちをする。

「レノさん、ローストビーフとか食べたいって言って無かったっけ」

「修くん、何も聞いてなかったの? 高いからやめたんだよ。猪頭くんが金欠だって言うから」

「あ、そうだっけ」

「まったく……私ばっかり見てたらダメなんだよ?」

「え?」

「冗談でーす」

 レノがらしくもなく顔の近くでピースサインをしておどける。テーブルを見ると、レノのグラスは誰よりも大きく嵩を減らしていた。話を変えたくて、修は出来るだけ自然にグラスを指す。

「飲むの早くね? 苦手じゃないの?」

「早いの? ジュースと変わんないなあって思ったんだけど」

「まあカシオレはアルコール弱い方だと思うけど」

「だよね。まあ大丈夫でしょ」

 そう言って、レノが残っていた三分の一ほどを悠然と飲み切った。グラスを置いた手が、テーブル脇のオーダー用電子機器をいじくる。飲み放題プランなのだ。

「修くん、お酒好きなんだよね? オススメ教えてよ。私全然知らないんだ」

「いいけど……でも俺、変わった奴が好きなんだよね。地ビールとか」

「地ビール? ビールは苦手かなあ……甘いのが良いな」

「甘いのか……」

 甘いものとなると、誰でも知っているような無難なものしか教えられなかった。それこそ甘めのジンジャーエールとかだ。それでもレノは、鈴を転がすような声音でからから笑う。それを聞いて、見ているだけで、修も自然と笑ってしまう。

 ふと、グラスを持つ指先の爪にネイルが施されていることに気が付いた。今まで気づかなかったのは、それが淡い色彩で謙虚に彩られているからだ。

「レノさん、ネイルとかしてたんだ……綺麗だね」

「そう? ありがとう」

 そつなくと言った風にレノが言う。少し悔しくて、修は気の利いた言葉を探す。

「……誰のためのネイルなの?」

 言いながら、顔が引きつってしまう。バレないように、グラスを持って酒を呷った。

「誰の……特にそういうのは無いけど。強いて言うなら、自分のためかな?」

「自分のため? ああ、可愛くなりたいからってこと?」

「そうだね。というか、身だしなみは人並みに整えておきたいって言うか……そんな感じかな」

 身だしなみ。女性のメイクがマナーであるか否かというネット上の討論が頭を過る。修としては「炎上って死ぬほどどうでもいいことで毎回燃えてるよな」という無味乾燥な意見を抱いたものだが、レノなら、マナーである方に票を入れるのかもしれない。

「じゃあそのメイクも、身だしなみ?」

「そう言われると恥ずかしいな。そうっちゃそうだけど……人の顔あんま見ないでよ」

 照れた仕草で、いつかの日のようにレノが顔を逸らす。顔が赤いのは、アルコールのせいだけじゃなさそうだ。

「でも見ちゃうんだよね、レノさんの顔……目とか、なんか見入っちゃう」

「……」

「なんか見つめちゃう。なんでだろう」

「……君は」

 レノがいつもよりワントーン低い声で言った。その表情が、一瞬恨みがましいものに見えた気がして、修は驚く。瞬き一つの間に、レノはいつも通りだ。気のせいだったんだろうか。酔っているから、変な風に見えた。


 三時間ほどはそうしていた。酔うと眠気が襲ってくる修の頭は、朦朧としながら目の前の景色を享受する。同じく酔っぱらっているらしい拓弥と鏡花は、二人で授業の話や今後の研究調査の話をしていたはずが、今はただへべれけになって、壁にもたれている。だらしがない有様だ。

「うーん、みんなお酒弱いんだなあ」

 呑気な声が隣で聞こえる。もちろん、声の主はレノだ。

「レノさん、強すぎじゃないっすか……」

「そうかな。みんなが弱いだけだと思う。弱すぎる」

 修の目には、そう言ったレノの顔さえよく見えていなかった。眠すぎる上に、つけているコンタクトが乾燥して白っぽく霞んでいる。これはもう外したほうがいいだろう。修は覚束ない指先で目を弄った。コンタクトレンズをはずしたら、眠気も少し飛んだ気がした。裸になった眼球の先に、レノが柔和に微笑んでいる。

「良かった。修くんはまだ話せそうだね。どうしようか悩んでたんだよ」

 レノは前方の二人をやんわりと指し示す。

「私一人でどうにかするには荷が重すぎる。修くん、手伝ってくれない?」

「……手伝うって、何を?」

「二人を家まで送り届けるんだよ。お店にずっと居たら迷惑になるし、かと言って道路に捨て置くことは出来ないでしょ?」

「そうだけど……二人の家知ってるの?」

「え」

「拓弥ん家なら分かるけど。鏡花さんのは俺知らないんだけど」

「あちゃあ……」

 レノが困ったように眉根を寄せ、目を瞑った。ネイルの綺麗な爪が顎に伸び、柔らかく摩る。ややあって、レノが何かを決意したような、少し硬い顔をした。不思議に思う間もなく、レノがとんでもないことを言いだす。

「よし、スマホを使おう。緊急事態だから仕方ない」

 レノが何を言っているのか、修には分からなかった。スマホを使って、どうして鏡花の自宅が分かるのだろうか?

「え、レノさんハッカーとかじゃないよね。何だっけ、アノニマスとか……」

「はは、修くんは時々変なことを言うから面白いよね。想像力豊かだ。でも全然違う。そんなの無理だから」

 レノが立ち上がったので、修は邪魔しないように通路側にどいた。レノが鏡花の傍らに近づき、その懐から、鏡花のスマホを取り出す。

「鏡花さんのスマホ、結構昔のモデルなんだよね。指紋認証搭載の」

「……え?」

 まさか、と脳みそが結論を出す。

 答え合わせをするように、レノがするするとそのスマホに、鏡花の指先を合わせていた。右手の親指を合わせてから、ロックが解除されないことに気が付く。「あ、左利きだった」と呟いて、今度は左手の親指を合わせる。

 果たして、鏡花のスマホはあっさりと突破される。

「え、それ、いいん?」

「私だってこんなことはしたくないよ」

 そう言いつつ、レノは慣れたような手つきで、鏡花のスマホを弄っている。何か目当てのアプリでもあるのか、その指は何度もフリックし、画面を行ったり来たりする。ややあってレノが「あった」と呟く。画面上にはマップアプリが映っている。現在地を中心として、少し離れたところに、赤いピンが刺さっている。

「鏡花さんの家、坂の下の方かあ……」

「……でも、多分アパートとかだろ? 部屋番号もわかんないと」

「確かにね。でも今の時代、ネットショッピングをしない原始人なんてほとんど居ないから」

 スマホ内の機能検索から、ショッピングというカテゴリーをレノは見つけ出した。修もよく使う世界的企業のそれから、修は知らないニッチなそれまで数種類がヒットする。レノは一番有名なものを選ぶと、アプリの設定画面に行き、見事アパートの何号室かまで後生大事に書かれた住所を見つけた。

 これは良いことなんだろうか? 修は見ていることしか出来ない。

 ふと、レノが顔を上げ修を見る。

「修くん、証人だからね」

 アルコールに浸った後の脳みそは、その言葉の意味を全く図りかねた。

「……証人、って?」

「私がしたこと、鏡花ちゃんに聞かれたらちゃんと答えてね。悪いことをしてたわけじゃない。これは必要だからしただけ」

「……まあ、確かに」

「うん……」

 その時、レノが修の耳元にすっと顔を当てた。唇が触れていると錯覚するほど。

「共犯だからね」

 言葉と共に、生温かい吐息が耳朶をくすぐる。

 思考が追い付かない。修はショート寸前の頭とバクバクした心臓を胸に、修から離れたレノを見つめた。彼女はもう、悪戯っぽく笑っている。

「善は急げだ。私は会計してくるから、修くんはまず拓弥くんをお願い」

「え、連れ帰って来いってこと?」

「そう。拓弥くんが済んだら、またここに戻って来てね。私じゃ鏡花さんも運べないから」

「ああ、まあ……」

 相変わらずヒールの高い足元や足首が薄っすら透けたレーススカートを見るに、他人の運搬に向いていないのは確かだと思う。そんなレノに対し、修ときたらパーカーにジーンズというあまりにも動きやすい服装だ。適材適所という言葉が脳裏に浮かぶ。

 レノが会計をする横で、修は拓弥と肩を組み、苦心しながら彼の家へ歩いて行った。彼の自宅はここから五分ほどなんドア。ちゃっかり、自宅に近い店を選んだのかもしれない。こうして酔いつぶれてしまう可能性を考慮していたからだろうか。だが、拓弥が人に迷惑をかけるまで飲むのは、少し珍しい。何だかんだ気遣いの塊なのが拓弥なのだ。

 立夏を過ぎても夜は涼しく、肌の風は冷たい。まだ春の名残惜しさが感じられる日々に、拓弥も心が浮ついてしまったのかもしれない。そうでなくとも、いつもとは違うメンバーで、気まずさを紛らわすために酒が進んだ可能性もある。

 何はともあれ、人体というのは、しかも男の体というのは、引きずるにしても重苦しい。どうして深夜の十二字を過ぎた頃に、男と男で体を密着させているのかで哲学的知見を開けそうだ。そんな他愛のない妄想をしながら、修は拓弥を送り終えた。これが終わっても、今度は鏡花さんが残っている。しかもあっちは女性か。レノも居るし、別の意味で気を遣うのが面倒くさい。

 やや気を重くしながら、五分で戻った。深夜帯でも喧騒が時折聞こえてくる。遊園地のような熱気が奥から漂う通りの店先に、レノがすらりと立ってスマホを弄っていた。もちろん、レノ自身のスマホだ。その足元で、鏡花が顔を膝に埋めるように、体育座りをしている。

 単純なことだが、修はレノの姿が視界に入った瞬間、心臓がまたハイテンポを刻みだした。もはやパブロフの犬もびっくりの条件反射だ。興奮しているのがバレないよう、足音を消してレノに歩み寄る。あと一歩というところまで近寄っても、レノは修に気付かなかった。

「レノさん。帰ったよ」

「あ、お帰り」

 レノがスマホから顔を上げる。スマホの画面をサッと隠した。

「何してたん?」

「……特には」

 レノは何故だか気まずそうに目を逸らすと、その視線を鏡花に注いだ。

「じゃあ今度は鏡花さんを送り届けようか。私も行くし」

「着いてくるの?」

 嬉しいが、必要性で言えば修だけで事足りる。レノにつき従ってもらう理由は無い。

「行くよ。私が言い出したことだもん。責任持たないと」

 だがレノはにっこり微笑んで、修の隣に並んだ。

「……優しいな」

 想いが口を突いて出る。いや、それだけじゃない。

「レノさん、すごくしっかりしてる。ちょっと意外」

「え、意外??」

「いつもはふわふわしてるから。天然気味って言うか」

「えー……」

 嬉しくなさそうに、レノは唇を尖らせる。眉唾だが、天然と言われて嬉しがるのが似非天然で、嫌がるのが本物らしい。レノは果たして。

「いつもだって、もっとしっかりしたいんだよ。でも、でしゃばりたくないって言うのもあるから……そうやって様子見してるうちに、全部過ぎていくんだ」

「ああ、分かる。俺も結構そう」

 控えめというと聞こえがいいけれど、どうしても積極的な人には功績も人望も負けてしまう。それを仕方なく思ってしまうのは正直悔しい。だがそれ以上に失敗が怖いから、いつまでも変わらないままだ。

「まあいつもは拓弥くんとか鏡花さんが前目に行くからね。私たちが頑張る必要はないのかもしれない」

「多様性ってやつか」

「そうだね。私たちが損をしたとしても、それで助かる人が居るんだ。ならそれでいいと思ってる」

「……やっぱり優しい」

「そんなことは無いよ。競争心に欠けてるだけかも。両親にもそうやって怒られるし」

「そうなんだ。意外」

 優等生然としたレノが、親に怒られているイメージがわかない。そもそもレノが、人に怒られている様が想像できない。レノは誰に対しても礼儀正しいから、例えば取材先の見知らぬ村民にも目に見えて可愛がられる方だ。

 修の言葉を受け流すように、レノが突然、ひっそりと黙りこくった。修は鏡花を抱き起こしながら、レノを見上げる。彼女は遠い目をして、夜空を見ていた。店の明かりや街灯の光で、星は見えない。そもそも晴れているのか曇っているのかすら判然としない。

「レノさん?」

「自分のことばかり話しちゃった。私の話なんかどうでもいいや」

「そんなこと無いでしょ。俺は聞きたい」

 鏡花をおんぶして、先に歩き出す。顔を見らると、僅かばかりの勇気すら動揺と羞恥に流されてしまうのが目に見えているからだ。

 アスファルトを踏む乾いた音。猫のように身軽に、レノが修の隣に辿り着く。

「修くん、たまにそういうこと言うよね」

「そういうことって?」

「そういうことだよ」

 レノの口調に、緊張のような堅いものが混じっている。なんだか自分たちは、途方も無く馬鹿なことをしているんじゃないかという気がした。自然と、よく分からない微笑みが漏れて行く。一体何をしているんだろう、自分は――自分たちは。

「レノさん」

「修くん」

 同時に互いの名前を呼んでしまって、修とレノは顔を見合った。なんとも言えない沈黙と、かち合う視線。一目惚れって何秒だっけ? という馬鹿な考えが心の中を過っては中心をちらつく。

 ややあって、レノの方が照れくさそうに明後日の方を見た。

「……鏡花さんを送り届けてからしよっか」

「そう、だね。そうしよう」

 何をどうするのかだけを器用に避けて、合意が打たれる。まるで花火の打ち上げをじっと待っている時みたいに、心がざわつく。

 鏡花の住んでいるアパートは、女性専用の物件みたいだった。自分は入って良いのか危惧するも、レノが仕方ないと言うので、泥棒のように抜き足差し足で忍び歩く。幸い、入り口に近い一階部分に、鏡花の部屋はあった。鏡花の持っていたエコバッグをレノが漁り、見事鍵を探し当てる。鍵を差し込み、回すと、ドアノブからかちゃりと小気味よい音が鳴った。

「部屋のどこに置けばいいかな。置くっつーっとちょっとアレだけど」

「やっぱりベッドまで運ぶべきじゃない? 大丈夫大丈夫。仕方ないって」

「まあそうなんだけどさ」

 レノに促されるまま、修は鏡花の部屋に入った。暗がりの中、レノが後ろで電気を探して、つけてくれた。鏡花は締め切りや待ち合わせにも基本的に遅れるタイプの人間だから分かっていたことだが、あまり部屋は美しくない。玄関の脇に置かれたままの大きなゴミ袋に、危うくつまずきそうになって小声で悪態をつく。後ろに居るレノがクスリと笑った声がした。

「鏡花さん、片付けが苦手って言ってたなあ。修くんはどう?」

「俺もあんまりだけど……」

「へえ、これくらい?」

 実を言うと、もっとである。だが、それを白状するのは恥が過ぎる。

「……や、そうでもない」

「そうなんだ。今度片付けに行ってあげようか?」

「なんでそうなるんだよ」

 レノがまたおかしそうに声を上げた。部屋の汚さを見透かされているようだが、それが嫌われる要因になり得るか、修は何となくの安堵を覚える。もしレノが、本当にそうしてくれるならば。

「私、片付け得意なんだ。物捨てるのって楽しいよね」

「分かんねえ」

 もはや初夏が来ているというのに、鏡花の居間の中心にはコタツがあった。毛足の長い毛布だ。ルーズな人間というのは、これだから。

 それから、壁際のベッドを確認し、鏡花を寝かせる。ここに至るまでずっと、修の背中でぐうすか寝ていた鏡花だが、ここでも起きる様子はない。

「鏡花さん、ぐっすりだね。いい夢見てるのかな」

「酒飲む夢見てそう」

「寝る前に考えてたことが、夢にも出たりするしね。そうなのかもしれない」

 さて、とレノが修を見る。そして気が付く――ヒールの無いレノは、思いのほか小さい。たかだか五センチ程度の差が、やけに心を揺さぶって来る。

「出ようか。あんまり長居するのは良くない」

「……うん」

 ようやっと、それだけ言って頷く。

 待ち望んでいた花火が、打ち上がろうとしている。

 鏡花の部屋を出た時、鍵を開けたままにすることの不安をレノと話した。だが女性専用アパートだし、一日だけならそう心配する必要も無いということで落ち着いた。結論ありきの判定だ。何しろ二人とも、頭の中は別の観念でいっぱいいっぱいだったから。

 地面を一歩踏みしめる度に心臓が大きく鐘を打ち、ぐにゃりと世界が曲がる感覚がある。だが不思議と、怖くはない。空恐ろしいほどの興奮に苛まれていながら、その先へ踏み出そうとしている自分が欲しい。

 アパートの外の空を見上げても、相変わらず真っ暗で何も見えなかった。それがどうしてか、無性に心地よい。夏の海辺でさざ波を見ているみたいに。

「この間ね、修くんの夢を見た」

 レノがぽつりと言う。

「多分、寝る前に考えていたからだと思う」

「……俺を?」

「そう」

 レノの声が震えを帯びた。泣きそうなのだと分かった。

「……俺も、レノさんの夢を見たことあるよ」

「絶対嘘だ」

「なんで」

「君は夢なんて見なさそうだから」

 どうしてバレたんだろうか。不思議だが、その通りだった。修はどうしてか、ほとんど夢を見たことが無い。夢自体見ないのだから、どう頑張ってもレノを見ることも出来ない。悔しい。

「私は、自分が愛しているなら、それでいいと思う人間なんだ。独り善がりかもしれないけど、愛情に他人の承認は必要無いと思ってるから――だから、伝わらなくてもいいと、思ってた」

 でも、とレノが続ける。

「でも、もし伝えることで意味があるなら、伝えてみたい」

 レノが黙って、修を見つめた。瞳だけはいつも大人びて見えるレノのそれが、滲んで光を帯びている。魂を吸い取る魔力だ。初めてレノに会った時から、薄っすら知っていた彼女の。

「……俺も、伝えたい」

 レノに先導されたのが心苦しい。なら最後の一歩だけは自分が、と修は口を開く。

「レノさん」

「うん」

 レノの相槌は優しかった。今日の夜が真っ暗なのは、ここに月が居るからじゃないかと思えるほどに。

 果たして、修の言葉はありきたりで、月並みだ。

「好きです。付き合ってください」

 レノが笑い出す。

「こちらこそ」

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