第4話
レノはゼミ仲間の中でも居室に居る率が高かったので、修もよく居室に行くようになった。もはや意味も無いのに通っている。居る間の快適度を上げるつもりで片付けをしたら、ゼミのメンバーから褒められてしまった始末だ。確かに、デスクの移動や床の掃除は一筋縄ではなかった。備え付けの冷蔵庫なんて賞味期限が六年前の調味料や謎の薬品(アルコールがどうたらと書いてある)が山のように出て来た。思わず顔を顰めつつ綺麗さっぱり取り除いた行動は、傍から見れば綺麗好きか真面目に見えたことだろう。だが如何せん、内心の動機が不純すぎる。
だがバレなければいいのだ。周囲には修がまるで聖人君主のように映ったとして、それはむしろ好都合である。不良がモテるのは中学までで勘弁願いたい。
そう思っていた。
途中でまずいと気づいたのは、修の恋愛経験の少なさゆえかもしれない。何を隠そう、修もレノを笑えない。この間、国の調査みたいなのをX(旧ツイッター)で見たのだけれど、現在の二十代男性のおよそ半分以上が、交際経験をもたないのだという。女性であれば確か、もっとだった。今は皆、そんなものなのである。レノや修はマジョリティにすぎない。誰もが草食系になった結果、生態系ごと崩れるなんてなんとも阿保らしいが、それが真理なのだろう。
冗長になったが、要するに修はようやっと気づいたのだ。
このままでは何にも進展しないと。
そもそもの話、修がレノのことを見誤っていたのが、道を見間違えた原因かもしれない。レノは見た目だけならギャルを卒業した大人みたいで普通に可愛いのだ。まさか誰にも手を付けられたことが無いなんて思わないだろう。それもまた時代か。
心の何処かで、修は思っていた。それっぽいアピールをしていたら、いずれレノの方から仕掛けてくるだろうと。修は自らが賢いを罠を仕掛けたつもりでいて、レノが引っかかると高を括っていた。
今となれば自惚れが過ぎて、笑える。レノは相変わらず修の雑談に笑ってくれるが、それは他の人にも変わりないように見えてきた。彼女は誰の話でも楽しそうにするのでは? 自分は別段、特別でもなんでもなかったのでは?
昔から、考え始めると妄念のように憑りつかれてしまう。頭にこびり付いた可能性に、心を焼かれてしまう。何しろ、放っておいても良いと思えない程度にはレノは魅力的だった。むしろ、どうしてまだ席が空いている?
修の頭は性急に案を考え始めた。だが悲しいかな。彼には恋愛経験がほとんどなかった。大学に入ってからをカウントするなら皆無である。
そして、修が頼ったのはゼミ仲間で友人の拓弥だった。
猪頭拓弥は、修と同じ年に入学した同級生である。とはいえそれが、修と拓弥の関係性を示しているとは到底言えない。
修の通う国立大学は普通に規模が大きいので、同学部同級生に絞ったとしても百名を軽く超える。たとえガイダンスに出席したとしての友達百人出来るかなでも実行しきれないのだ。というか、友達が百人も出来るはずないだろ。
修が拓弥と知り合いだったのは、単なる偶然と、拓弥の類まれなるコミュニケーション能力の高さゆえだ。空気に紛れるその他大勢凡人・修と違って、拓弥はその場に居れば自然と輪の中心になるタイプだった。その上、拓弥は様々なコミュニティに属する生粋の陽キャだ。確か所属サークルはテニスだった。それも全国大会などに出場するガチ勢のための健全極まりないサークルだ。
そんなんだから、拓弥には当たり前のように付き合っている恋人がいた。春休みには二人で、近隣の県に旅行に行ったと聞いている。高速バスの狭さや、スケジュールの過酷さも、愛する人が居ればむしろ望むべきということだろうか?
一応述べると、顔で言うなら拓弥は特別な伊達男ではない。瞼は少し腫れぼったいくらいの一重だし、身長も平均より低く一七〇センチに到達しているか否か怪しいところである。顔自体も丸く、彼の体型を一言で表すならば、どんぐりころころである。それでも彼は楽しいし、愉快だからすごいのだ。全くもって参考し甲斐があって、感謝しきれない。
レノの前で話すわけには行かなかったので、レノが珍しく居室に来ていない日を狙って、拓弥に話しかけた。レノと逆で居室にはあまり来ない彼と二人きりになるのは、ほとんど奇跡みたいなものだ。それを体現するかのように、外はいい五月晴れで、窓を開けていても少し暑い。汗ばんだシャツを拓弥がパタパタと仰ぐ。この青空の下、テニスをしてきたんだろうか。
心の内をかいつまんで話す。拓弥は小さな瞳と瞳の眉間に精一杯の皴を寄せて、自分のことのように修の現状を悩み始めた。
「あー、レノさんね。めっちゃ可愛いよね。お洒落だしスタイルいいし。あとめっちゃ優しい」
「そ、そうなんだよ」
思っていたことを全て言われてしまって、気後れしなくもない。修が感じていることは、そりゃあ周りだって感じるだろうけれど。漠然としていた焦燥感が、輪郭を伴って脳裏のビジョンを形作っていく。白い靄の中心で、顔のない伊達男とレノが腕を組んで石畳の街を歩いて行った。男の背は高く、高そうなスーツと着て、高級腕時計をレノにプレゼントし、プロポーズまでしてしまう。彼女は喜んでそれに応える。ダメだダメだ。
「ていうか、レノさん彼氏いないんだ。教育学部とか……経済とかに居そうだと思ってた」
「ああ、あそこらへん洒落てるもんな。空気が違う」
「そうそう。あとは文学部も一部イケてる奴が居る。レノさん、小説とか好きらしいし」
「そうなん? 知らないんだけど」
「マジ? この間のオンラインゼミで、隠れてミステリー読んでたよ」
拓弥が思い出したようにくっくと笑い始める。レノは真面目な人間のはずだが、そんなことをしていたなんて意外だ。そんなに、そのミステリー小説とやらが読みたかったんだろうか? 修の経験では、そんなのにも小説の続きが気になったのは、それこそ小学生の時だけな気がする。懐かしいとさえ思えない、おぼろげで遠い記憶だ。あの本は、一体何だったろう?
「けど、ほんとに居ないのかな? さすがに居そうな気がする。じゃないと、あそこまで毎日お洒落してこなくね? メイクとか」
「タク……」
修が密かに不安に思っていたことを、拓弥は容赦なく言語化していく。少しは手心とか無いんだろうか。他人事だと思っているに違いない。
「……いや、逆に考えようよ。毎日お洒落してくるってことは、それを見せたい相手が居るってことだよ。すなわち、ここに。レノさん居室来たら、あとは真っ直ぐ家に帰ってるって言ってた。俺一緒に帰ったことあるから」
途中までだけど、というのは心の中に留めておく。言ってしまえば、懸念が現実化する気がして怖い。
「家に彼氏いるんじゃないの」
「だったらメイクする理由も無いだろうが」
「確かに」
「第一、俺たちに隠す理由がまず無い。お前みたいに恋人居るって公言すればいいだけなんだから。そうすれば悪い虫も近寄らないだろ?」
「修みたいな?」
「俺は良い虫」
果たして虫に良いも悪いもあるんだろうかと考えながら、修は言い切る。レノは虫そのものが嫌いそうだ……ああでも、一昨日つけていたシルバーのピアスは、珍しく蝶のもので、いつもとは違った。いつもは花のシンプルなやつなのに、結構凝ったデザインで、耳元で揺れているのが印象的だった。彼女が笑ったり、相槌を打つたびに、耳元で蝶が優しく羽ばたくかのようだった。どうしていつもとピアスが違うのか尋ねたかったけれど、なんとなく気恥ずしくて出来なかった。悲しいことを思い出してしまった。
「良い虫か。修が良い奴なのは否定しないけど……」
「けど、なんだよ」
意味深に言葉を切る拓弥に、修は思わず声を荒げた。拓弥が一瞬、存外にぎょっとした顔をした。
「いや、別に悪い意味じゃなくてね。別に修を悪く言うつもりは無いんだけど」
「分かったから早く言え」
「……いやぁ、なんて言うかさ。レノさんに彼氏がいないとして、そこに修がすっと収まる印象が無いって言うか……修とレノさんが一緒に居る光景が、あんまり予想できないって言うか……」
死ぬほど申し訳なさそうな声音だ。拓弥は良い奴だし、悪気があって行っているわけじゃないのは理解できる――だから余計に傷付く!
「そんなに似合わないかよ……」
「修は悪くないよ。ただレノさんって、なんか高嶺の花感あるじゃん。似合わないのは全人類共通――あ」
何かに気付いたように、拓弥が小さく声を上げた。
「そっか。逆に、高嶺の花過ぎて人が近寄らなかった可能性もあるか。レノさん、自分から声を掛けていくタイプではなさそうだし」
拓弥がニヤッと笑って、修を見る。そのニヤケ面には、なんだか面白がるようなものが多分に含まれている。
「修、やっぱチャンスあるかもよ」
「……マジ?」
「まじまじのまじ。俺が秘術を伝授するから」
そういうわけで(どういうわけだ)、修はレノを飲みに誘った。
そして、断られた。
「えっと……ごめんね。私、お酒とか全然好きじゃなくって」
「え」
「アルコール感って言うのかな、なんだか消毒液みたいで苦手なんだ。あ、修くんが好きな分には全然構わないし、とやかく言うつもりは無いけど。自分がマイノリティなのは自覚してるから」
ごめんね、ともう一度言って、レノが心配そうに修を見る。断り方まで優しすぎて、天使なのか悪魔なのか判然としない。いや天使だな。
「……ええと……じゃあ何なら好き?」
「何なら?」
破れかぶれに尋ねるも、レノの方がピンと来ていなさそうだ。そもそもレノは会話が苦手そうだし、口下手である。ゼミの討論会でも、一生懸命に言葉を考えて選んで質疑応答している場面が他メンバーと比べても目立つのだ。だがそれは、彼女がその小さくて丸っこい頭蓋の中で、一生懸命に人を傷つけない表現を練っている証拠だと、修は思っている。
とは言え、その優しさがノミの誘いを断る形で発揮されるのでは嬉しいわけが無い。それも自分が誘ったものなら尚更だ。
結局、修は上手い口実を考えられなかった。口下手なのはお互い様だ。これが拓弥なら、何とかいい方向に丸め込んだのかもしれない。彼はそういうのが得意だ。
ということで、修はもう一度拓弥に助けを求めた。そもそも、飲みに誘えばいちころだなんて拓弥の読みが甘すぎたのだ。
「うーん、レノさんお酒好きだと思ったんだけどな。外れたか」
「なんで酒好きだと思ったん?」
「え? 可愛い女って大体そうじゃん」
そんなことないだろと言いたいところだが、拓弥の方が圧倒的に女性経験豊富なので、こんなバカげた話でも否定できない。無念。
「しかし違ったか。そうか。意外とガード硬めかもな」
「……だから彼氏いないんじゃないの。理想高めとか」
言いながら、果たして自分はそれに見合うだろうかと思う。理性的な部分はノーを叩きつけて来る。そうですかそうですか。
「いや、俺的には、むしろ逆じゃねって思う。他人に興味無さそうって言うか。雑談とかも、めっちゃ話す時と、めっちゃ黙ってる時で二極端だし」
「確かに」
「興味あるのにしか興味無いって感じだよな」
言葉遊びみたいだが、拓弥のいいたいことは何となく分かる。興味の無いところにも話を合わせる人はいるけれど、レノはそうじゃない。
「恋愛自体に興味が無いのかもしれない」
ふと、拓弥が言った。それが妙に、修の胸に落ちる。すとんと、いわゆるシンデレラフィットみたいにぴったりと、パズルのピースが嵌まる。
「レノさん、なんというか自己完結してる感あるじゃん。雰囲気がだけど……」
「正直分かる」
「だろ? 恋人とかどうでもいいのかもしんない。たまに居るじゃん、そういう奴」
「奴って……」
恋人との愛を謳歌する彼には、一人を好む人間は理解できないのだろう。陽キャめ。
「じゃあ望み薄ってことかよ……最悪」
「いや、そんなことは無い」
拓弥が妙に言い切る。
「人間なら心の何処かで常に運命の人を探してるもんだ。表面上は要らないって言っても、自分を騙してるだけなんだよ。絶対そう」
「……そうか?」
「そう! こっちからアピールすれば案外ハナマル百点くれるかもしれない」
案外と言う言葉を抜けないところが、希望にしても低めというのを物語っている。だがゼロじゃないなら、今はそれでいい。
「良いこと思いついた」
拓弥が自信満々に言っても、修とて学ばないわけじゃない。胡乱な目を容赦もなく華麗向ける。それでいて心の真ん中で、すっかり期待してしまっているから、人間の愚かしさには限度が無いのかもしれない。
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