第3話 最も簡単で安易な自己否定とは憧れである
最も簡単で安易な自己否定とは、何かへの憧れである。尊敬、憧憬、すなわちそれは、現在の自分を卑下する行為に他ならない。自らに満足しないから、他の何かになろうとするのだ。尤も、それは存在の基本であり、進化の原則である。
五月のこと、桜がとうに散っても、修の心には一輪の花が咲いていた。あるいは桜が散ったからこそ、その他の花が草丈を伸ばし、若葉を茂らせ、花をつけるようになったのかもしれない。桜はどこか感傷的で、修は実のところ好きじゃなかった。一週間しか咲いていないなんて、進化の方向を間違っている。全ての花は、長く咲き続けるのが一番じゃないか。人も。
「修くん、コーヒー取って来てー」
雑に声を掛けられ、修は冷蔵庫を開けた。修の席が一番、冷蔵庫に近いのだ。修はドリンクホルダーの九〇〇ミリリットルのそれを手に取る。残り半分だ。
「飲みすぎだろ」
「活動報告書終わらないんだもん」
「因果関係ある?」
「おおあり」
そう言って、彼女は修の手からペットボトルをひったくった。ほんの三時間前に近くのドラッグストアで買ったばかりのコーヒーが、みるみる嵩を減らしていく。彼女はPCから顔を逸らさない。先週、取材に行った分が終わっていないのだ。社会学系研究室はほとんどマスコミみたく聞き取りが多い。
修は頬を緩めながら、隣の彼女を見ていた。蓋を開けてみればという言葉がある。あれはまさしく、そういうことだ。
研究室には今、修と彼女しか居ない。これも社会学系研究室の性だ。デスク作業よりかは外に行っていることが多く、研究室で出来ることと言えば、こうして活動報告書をワードファイルにまとめることくらいである。
修は彼女をぼんやりと横から見た。彼女は――今日のレノはカジュアルなグレーのワンピースに、この間と同じヒールの高い黒のブーツを履いている。座る時は基本的に右足を上にして足を組み、デスクに対し前のめりになっていることが多い。長い髪が、今日はストレートのままだ。最初の頃、修は彼女が天然のふわふわした髪なのだと思っていた。けれど違った。
修は密かに、レノのことが気になっていた。気にならない理由を探す方が難しい。外見、性格、人当たり、悪い所も見当たらないのに、一体何が障壁となるのだろう?
好意を覚え、あるいはそれに確信を抱くのに、大した時間は必要ない。ともすれば、それは憧憬に近しい感情だったかもしれないが、好感であるのに変わりは無い。
ちょろいと言われれば本当にそれまでだし、恋に飢えていたと言われれば頷くしかない。面食いだと罵られても、若干認めるところがある。だがレノは、嫌いになるには顔が良かったし、修の話によく笑ってくれた。居室に行けば大体会えたのも大きかったかもしれない。何度も会って雑談をするうちに打ち解けて、愛着を抱くのは生物学的にも正しい因果関係と言える。
いつかの日、修はレノと二人きりになった。というのも、他のメンバーが他の用事に行っていたというだけの話で、別段珍しいことじゃなかった。そのくせ修は、そんな他愛ないことに舞い上がれるくらいには、調子に乗っていた。
何故なら、この時点で修は少しの勝算を抱いていたからだ。勘違いではあり得ないと心の何処かで思える程度には、レノは修に対し他の同級生とは対応のニュアンスが異なっていた。仄かな熱を感じる……とでもいいだろうか? それは焚火の傍の火花のようにも思えたし、春の麗かな日差しにも感じた。要するによくわからないが、温かかった。そしてよく分からなくても、人は行動を起こすことがある。それは天命を待っていたかのように。
「レノさんってさ……彼氏いる?」
「えっ」
作業をしていたはずのレノが、驚いた様子で修を見る。それからすぐ、意外な程に照れた様子で顔ごと修から逸らした。
「えー……、やー、えー……」
どこか超然とした平時からは考えられない動揺っぷりだ。もしかして、あまり聞いちゃいけないことだったんだろうか? 修の予想では、サラリとかわしてくるはずだった。そのための言葉だって用意していたのに。
「あ、嫌なら別に言わなくていいけど」
「あー、あー、いや……まあ居ませんけど……」
死ぬほど照れた、ボソボソした声色でレノが答える。
「居ないけど、居ないけど……居ませんけど⁈」
何故かというか、多分恥ずかしいせいかキレ気味にレノが言う。キレた勢いでこちらに向いた顔は、頬が赤らんで紅潮していた。それが視界に入った瞬間、修の頭に勝ち確演出が流れ始める。思わずニヤニヤしながらレノを見てしまう。
「へー、居ないんだ。意外」
「や、別に意外じゃないでしょ。揶揄ってる??」
「なんでだよ」
これは全くの本心で、修は揶揄う意図で尋ねたのではなかった。彼女に恋人がいないなら、一体誰に恋人が出来ると言うのだろう? 顔と性格以外に、他人に求めるものなどあっただろうか? ああ、金とかか。けれど大学生の交際に、それも女性に強く求めるものでは無い気がする。
強いて言うなら、レノは積極的な方じゃないように見える。今もこうして、彼氏の有無を尋ねただけで死ぬほど取り乱す程度には。
「そっかぁー……居ないのか」
思わず感慨深く呟いてしまう修の横で、レノが「悪かったですね」と愚痴っぽく言った。悪いものかと修は思う、悪いものか。
「ふぅーん……じゃあこれまでは?」
「これまで?」
宇宙猫みたいな意味不明顔でレノが修の言葉を繰り返した。そうも素朴にされると、悪いことをしている気持ちになって、むしろ修も取り乱しそうになる。まあ修は、最初から心臓バクバクなのに平静を装っているだけなのだが。
「や、これまでだよ。歴代の……彼氏の話」
「……えっ」
またレノの表情がフリーズし、すぐさま熟したリンゴのように赤らむ。
「え、や、えー! なんでそんなこと聞くかなぁ……! 恥ずかしい……!」
恥ずかしいのか。洒脱な風体からは想像もつかないほど、中身は純朴かもしれない。修は妙な安心感を覚えながら、にへらっと口角が上がるのを堪えられない。
「恥ずかしいならいいよ。無理しないで」
「や、まあ……別に恥ずかしくないけど……」
「恥ずかしいって言ってませんでしたっけ」
ツンデレのお手本みたいだ。レノは至極もっともな修のツッコミに、レノはうっと少し仰け反る。本当に、上品な見た目に反してノリがいいし、ちょっとポンコツだ。不思議ちゃんと言うには少し知的な印象もぬぐえない。なんとも神秘的な人である。
「……ちょっと引くかもしれないよ?」
レノが上目がちにモジモジと修を見た。
「引く?」
「うん……」
「めちゃくちゃたくさんの人と付き合ったとか?」
「は? ちょ――なわけないじゃん!」
本当にそんなわけなさそうなリアクションだ。素直な人だなあなんて思いつつ、修の胸は安堵と高鳴りを同時に覚えていた。こんな感覚は初めてだ。例えるならベートーヴェン作曲の超高難度ピアノソナタの旋律に似ている。
なわけ無いの先を言うのは、レノにとっては至極難しいことのようで、レノはそれっきり修から大きく顔を逸らした。斜め後ろの角度の頬が、その狭い面積をしても赤い。アカデミー主演女優賞波の演技力でもない限り、これを故意にやるのは不可能だ。
「……ていうかさ」
ふと、レノの方から口を開いた。いつの間にか修を捉えているその目は、修を甘やかに責め立てている。
「そう言う君は、どうなんですか」
「君? 俺?」
「そうだよ。私ばっか答えさせられてるじゃん。不公正だよ。ふこーへいっ!」
「なんかごめん」
別に相手にだけ答えさせて自分は免れようなんてことは考えていなかった。ただレノが、そのなんとも言えないポンコツ具合で勝手に追い詰められていただけだ。
だが彼女のいじりやすさが、修の中の隠れた嗜虐心を柔らかな筆先で鼻先に触れるようにくすぐる。平たく言えば、もっとからかいたい。
「でもレノさん、俺の恋バナ気になるわけ?」
「えっ、……いや、別に気になる訳ではなくて……」
初っ端から演奏を間違えたピアニストみたく、レノが居心地悪そうにする。面白い。
「じゃあ聞かなくて良くない? いや教えてもいいけど」
「え……うん、そうなのかな?」
「そうだよ」
「……うーん?」
さすがに誤魔化しきれないか、レノが精一杯の難しい顔をして天井を見上げる。悩む時、口元にスラリと指をやる仕草で、気品だけでなく扇情的なものを感じてしまう。
「私が答えたのは修くんに聞かれたからで……私が聞いたのは、えっと……不公平って――」
「よし、俺バイトあるから帰るわ」
「えっ? うん、そっか……」
「じゃあまた」
「あ、うん、ばいばい」
様々な答えと情念が、彼女の面持ちに終結する。レノはどこか寂しそうに、帰ろうとする修を見ていた。大人びた顔立ちの彼女だけれど、表情の作り方にはむしろ、子供っぽさが宿っている。
修はひとまず結果に満足して、一人ニヤニヤしながら廊下を歩いた。白い壁も床も、別室の騒がしい談笑も修の頭には入っていかない。修の目には、もっと別の景色が見えていた。
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