第2話 手のひらの春をそっと握り潰すように
手のひらの春をそっと握り潰すように。
君を思い出す時、私はいつもそうなのだ。
四年生になり、卒論のための研究室配属がされた。それが修には、酷く憂鬱なことだった。留年の心配とか、そういうことではない……ある意味ではそうなのだろうか?
修の配属研究室は、いわゆる落ちこぼれが行くところだった。GPAが低かったり、休学や留年を経験していたりする、脛に傷のある連中。修は休学も留年もしていないが、そのくせ成績自体は低かった。別に、そこまで遊んでいたわけじゃない。ただただ人生に対し、やる気や活力を持てなかった。自分の人生の当事者意識が低い、なんて社会学者の言葉を聞いた言葉がある。何らかの経済新聞のコラムか何かに書いてあった。反射的に自分だと思った。
その研究室だからと言って、誰かしらに馬鹿にされたことは無い。だから、これは修の被害妄想である。被害妄想の自覚があるから、言ってしまえばだの引け目だ。自らの落ち度を他人の悪意に変換している。
だが修の懸念は、そこに留まらない。休学者や留年者は、つまるところ引かれたレールに乗ることもできなかった人だ。何故そんなことになるのだろう……普通でないのは確かであり、ただの馬鹿ならまだしも、例えば不良とかが居たらどうしようか? これから一年仲良くしなければならないメンバーが、極彩色の柄シャツを着てタバコを勧めてくる可能性が頭をちらつく。
修は心配性な性格だったので、研究室に本格的に通う前に、どんな場所か下調べをしておきたかった。研究室にチラッと顔を出すだけだ。教授の話によれば片付けが必要らしいのだが、そういうことは学生同士で各々分担してくれとのことだった。お互いの連絡先すらまだ交換していないのに……知らない人との自由度の高い協力が多くて、なんとも憂鬱である。
修の所属研究室は四階にある。A419という場所らしい。エレベーターを使っても良いが、良い運動だと思って、階段を使った。四階分を上り切って、A棟の廊下に出る。A419の教室看板は廊下の最奥に見えた。なるほど、これが落ちこぼれに対する公式の対応なのか、はたまた偶然の為した業なのか気になるところである。
長くて白い廊下を歩く中、左右の教室もまた異なる研究室であり、学生居室であることに気が付いた。広い部屋の狭いドア窓から、幾多の学生たちの談笑が見える。先代の学生は既に去った後のはずだから、彼らは修と同じ学年、同級生たちだ。他の研究室はもう研究室に集って打ち解けているのか。一体いつ、そんな時間があったのだろう……急に焦りが芽生える。
今年は去年に引き続き酷暑が予想されるそうなので、四月初週にして、外気は桜を散らそうとしている。ぬるい廊下の風を切り、修はついに廊下の突き当たりまで辿り着いた。学生居室にはパスワード式の鍵がかかっている。それを開けようとした――その時だった。
内側から、扉が開いたのだ。
「うわっと、びっくり」
間の抜けた女の声だ。だがそれ以上に衝撃的だったのは、彼女の風体である。
ぱっちりとしたアーモンドアイ、くるんと上向いたまつ毛。セミロングの茶髪は毛先だけが軽く外側に巻かれていて、中からの窓から差した陽光を良く反射して艶やかだ。左耳だけに光る花の形のシルバーピアスに何故だか目が惹かれる。
――なんて、細かい情報は、修の頭には浮かばなかった。彼の頭にあったのは、女子が現れた、という成績不良者らしい酷く単純明快なものだったのだから。少し大人っぽい。
ヒールが五センチ以上はある彼女は、目線が修とさほど変わらない。どこか朴訥とした表情で、修をぼんやりと見ている。
「あ、ども」
淡々とした声色だ。彼女に先を越され、ようやく修は口を開けた。
「ああ……どうも」
「もしかしてここの研究室の人?」
「そう、ですね。同期だと思います」
「わお。よろしくお願いします……じゃあ」
そう言って、修とすれ違うように、彼女は出て行った。女性と距離が近いのは久々だったので、特に意味も無い緊張が走った気がした。
あの人は同期か。胸の中で何かがストンと落ちる。あの人が同期か。
これから一年過ごす研究室は、先代が片付けなかったのか、酷く散らかっている。若干十名用の部屋のはずで、デスクもそれぐらいなのだが、いかんせん何十本もの太くて黒ずんだコードが縦横無尽に絡み合ったり、妙な木彫り置物があったりして、隙間には埃も溜まっている。窓から差す陽光は、先ほどの髪の毛の艶やかさが嘘のようにどんよりと曇り始めていた。あるいは最初からそうだったのだろうか?
修は六畳間くらいの居室を、真ん中のデスクを回り込むように歩いてみた。これから一年過ごす部屋……あの人以外にもメンバーはまだ居る。確か他研究室と相部屋だ。デスクの数からして、この狭い部屋にこれから十名ほどで活動するのだ。
それが一体何を意味するのか、この時の修は分かっていなかった。
……ふと、あるはずのないものが目に入る。プラスチックで出来た板状の代物、誰もが持っている……スマホだ。しかも電源がついている。起動しているのは、カメラのようだ。
スマホというのは、それがプライバシーに直結するからだろう、存在が罪悪感を促すものだ。修は瞬きも出来ないで、手のひらサイズの物体を見つめる。カメラのせいか、それは電源も落ちない。
廊下から気配がした。修は素知らぬ振りで、数歩動いて背を向けた。暗証番号を解除している音が聞こえる。
「……あ、どうも」
気まずそうな声だ。彼女は苦笑いを浮かべて、修が先ほどまで見ていたスマホを手に取った。ヒールの高い革靴はいちいち存在感を放つ。二度目ともなれば修にも相手を観察する余裕が出来る。カジュアルながら襟の大きなブラウスは今の流行なのか、彼女以外にもキャンパス内で見かけることが多い。ふわりとしたシルエットのスカートは黒色で無難だが、腰の高い位置で履いているので、どこか妖艶さを醸し出している。ちょっとガチなファッションだななんて思った。大学に来るのに、修はTシャツ一枚に部屋着のズボンのままのことが多々ある。学校なんておしゃれをしに来る場所じゃないはずだ。
彼女は修に小さくを頭を下げて一礼すると、今度こそ出て行った。ひとりでに閉まった扉がオートロックをかける音がする。
修は扉の先をじっと見据えていた。
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