第5話 幸せな夢
「シェリル、シェリルっ!」
誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
その声はとても切羽詰まった様子で、必死に私を呼び続けているようだ。
「シェリル、お願いだ、目を開けて!返事をして!」
悲痛なほどのその叫びが、カミユ殿下のものだと気づいて、私はゆっくりと目を開けた。
「カミユ、殿下……?」
「シェリルっ!気がついたんだね、ああ、よかった……」
カミユ殿下が泣きそうな表情で、私を覗き込んでいる。
これは、いったいどういう状況だろう。
私は確かに屋上から身を投げたと思ったのに、今は屋上のど真ん中にいて、カミユ殿下に抱きかかえられるようにして横たわっている。
「間に合ってよかった……っ、もしもシェリルが死んでしまってたら、僕は……っ」
「殿下、どうか泣かないでください」
状況は全くわからないけれど、カミユ殿下が涙を流すのは、嫌だと思った。
「だったら、もう、絶対に、こんなことはしないでっ!見つけた時、どれだけ驚いたか……!!」
飛び降りるその瞬間、誰もいなかったのに、カミユ殿下はすぐ傍にいらっしゃったということなんだろうか。
そして、私が落ちてしまう前に、助けてくださったのだろうか。
「ああ、もう、身体もこんなに冷たくなってしまって」
雨に濡れて冷たくなった私の身体を温めてくれるように、カミユ殿下がぎゅっと抱きしめてくれる。
それだけで、身体中の体温が一気に上がりそうだと思った。
「こんなのでも、無いよりはましかな」
未だに雨は振り続けていて、カミユ殿下だって濡れてしまっている。
きっと殿下だって寒いはずなのに、殿下は濡れてしまっているジャケットを脱いで、私にかけてくれた。
「これでは、殿下が……」
「大丈夫だよ、これでも一応男だし」
この場合、性別って関係あっただろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ふわりと身体が浮いた。
「で、殿下……」
お姫様抱っこ、というものをされている。
それも、よりにもよって、この国の本物の皇子様に……
「身体冷たくなってるから、動きにくいでしょう?落としたりしないから、僕に身を任せて、ね?」
「は、はい……」
申し訳ないと思ったけれど、雨のせいで服が重くなり、どことなく身体も重く感じて、上手く動けないことは間違いなくて、私はその言葉に甘えさせてもらった。
「疲れているんだろう、寝てしまっても、大丈夫だよ」
触れた場所から感じる殿下の体温が、殿下が歩みを進めるたびに感じる振動が、とても心地よくてうとうとしてしまっている私に、殿下がそんな風に声をかけてくださる。
そんなことを言われてしまっては、本当に眠ってしまうではないか、そう思ったのが最後の記憶で、どうやら私の意識はそのまま、夢の中へ旅立ったようだった。
「ここは……えっ?ええっ!?」
目が覚めたのは、見知らぬベッドの上。
濡れた制服は脱がされ、着替えさせれている、この様子だと寝ている間にお風呂にも入れてもらっているのではないだろうか。
冷たかったはずの身体が、今はほかほかと温かくなっているような気がするし、とてもさっぱりとしているような気もする。
「あ、シェリル、起きたんだね」
「カミユ殿下、ここは……」
「僕の部屋だよ。でも安心して、着替えさせたのも、お風呂に入れたのも、うちのメイドだから」
とりあえずは、よかった、のだろうか、そう思ってハッとする。
ここがカミユ殿下のお部屋ということは、私が今いるベッドはカミユ殿下のベッドということになるはずだ。
私は慌てて飛び起きて、ベッドから抜け出た。
「まだ、寝ててよかったのに」
「いえ、そんな、殿下のベッドを使わせていただくなんて恐れ多い……」
「そんなこと、気にしなくてよかったのに」
そう言いながら、殿下はベッドから飛び出た私を、ソファの方へと誘導し座らせてくれる。
さすが皇子宮のソファということだろうか、びっくりするくらふわふわで、ふかふかだった。
「はい、これ。ホットミルクだよ。飲んだら、きっと落ち着くよ」
「あ、ありがとうございます」
ホカホカと湯気のたつマグカップをカミユ殿下から受け取り、一口飲んだ。
ほんのりとした甘味が、ミルクの温かさとともに口の中に広がって、ほっとする。
殿下の仰る通り、気持ちがとっても落ち着いた。
「それで、何であんなことしたのか、聞いてもいい?」
「それは、その……」
「僕には言えない?」
私は首を振った。
言えない、のではない。
正直なところ、どこから話せばいいのか、わからなかった。
きっかけは、先ほどのフランツ様の言葉であることに、間違いない。
でも、身を投げた理由は、それだけではない、この負のループを全て終わらせるためだった。
けれど、いきなりそんな信じられないようなことを言われたって、きっとカミユ殿下も困るだけだ。
「信じられないような話で、その……」
「信じるよ」
「えっ?」
気づけば、向かい合って座っていたはずのカミユ殿下は、私の隣に座っている。
殿下の手が、私の手をぎゅっと掴んだ。
「シェリルの話なら、どんなことでも信じる。だから、話してほしい」
きっと困らせるだけだ、そう思っていたのに、真っ直ぐなカミユ殿下の瞳に促されるように、私は全てを殿下に話した。
私は同じ人生を何度もループし、これが5度目であること。
1度目から4度目までの人生がどのようなもので、どのような終わりを迎えたかということ。
そして、そのいずれの人生でも、こうしてカミユ殿下を会話を交わしたことはなかったということ。
それから、先ほど、屋上でフランツ様に言われたことと、私が願っているのはただただこの辛い時間の繰り返しが、どんな形でもいいから終わりを迎えることだということを。
「ずっと、そんなに苦しんでいたの?そんなに、辛かったの?」
信じがたいこの話を、カミユ殿下が疑うことは全くなかった。そんな素振りさえ、お見せになることはなかった。
ただ、まるで自分のことのように辛そうな表情を浮かべ、私のことを強く抱きしめてくれた。
「でも、お願いだから、命を絶つ選択はしないで。きっと他に方法があるはずだから」
私だって、できるならばそうしたいと思う気持ちはある。
けれど、もう方法なんて何も浮かばないのだ。
「シェリルはどうしたいの?フランツ・エルドレッドととの婚約は継続したいの?それとも解消したいの?」
「私には、選ぶ権利は……」
「もし、選べるなら、どうしたいの?僕は、それが聞きたい」
そんなこと、叶うわけないと知っている。
私に、選ぶ権利などないと、嫌というほどわかっている。
でも、それでも、もし叶うなら、私は……
「解消、したいです……」
もう、フランツ様と関わりたくない。
フランツ様にこれ以上囚われることも、縛られることもなく、全て忘れて自由になりたい。
どれほど願っても、それは叶わない、そう思うと涙が溢れた。
「泣かないで、シェリル、大丈夫だから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
溢れる涙は止められなくて、むしろどんどんと溢れてきてしまって、私はただカミユ殿下に謝った。
カミユ殿下は謝罪なんて必要ないというように首を左右に振ると、優しく私の涙を拭いてくれる。
「シェリルの願いは、ちゃんと叶えるよ」
「え?」
「確かに侯爵家との婚約は、伯爵家から解消させるのは難しいかもしれない。けど、それならもっと高位なものとの婚約で上書きすればいいんだよ」
「えっと……」
あまりに突飛な発想に、涙が急激に引っ込んだ。
よかった、泣き止んだね、なんてカミユ殿下が笑っているけれど、今はそれどころではない。
カミユ殿下は簡単におっしゃるけれど、侯爵家よりもさらに高位な人と婚約するなんて、正直解消する以上に難易度が高いのではないだろうか。
「シェリル、忘れちゃった?僕、一応、この国の皇子なんだよ。僕と婚約することになれば、侯爵家は婚約解消に応じるしかなくなるはずだよ」
「いけません、そんなことっ!」
私とカミユ殿下では、身分が釣り合わない。
この国の皇子の婚約者は、余程の事がない限り、通常は公爵家、もしくは侯爵家から選ばれる。
伯爵令嬢なんかが、軽々しくおさまっていい場所ではない。
それに、婚約者がいる状態の私とカミユ殿下が新たに婚約を結べば、婚約者を無理矢理奪ったなどと、カミユ殿下が悪く言われてしまう可能性だってある。
私とフランツ様の婚約を解消させるためだけに、カミユ殿下にそんな危険なこと、させるわけにはいかない。
「お気持ちだけで、十分です。カミユ殿下が私のことをそこまで考えてくださった、その事実があれば、きっと耐えられます」
「僕は嫌だ。君が婚約者と幸せになれるなら、他でもない君がそうなることを望んでいるなら、喜んで身を引くつもりだった。君が、シェリルが幸せなら、それでいいと思ったからっ!でも、そうじゃないなら、君が辛い思いをするだけなら、これ以上黙って見ていることなんてできない」
「カミユ、殿下……?」
「君のことが、好きなんだ。ずっとひたむきに、婚約者を見つめ、努力を重ねる君に惹かれた。その瞳があいつじゃなくて、僕を見てくれたらいいと、何度も願った」
カミユ殿下が、きつくきつく私を抱きしめた。
私はただカミユ殿下の言葉に驚いて、信じられなくて、上手く言葉を紡ぐことができない。
カミユ殿下が私を好きだなんて、そんな夢みたいなこと、あるはずないのだもの……
「シェリル、お願いだ、僕を利用して。僕と婚約すれば、君の願いは叶う。その後、君が僕との婚約解消を望むなら、それも円満に解消できるように、ちゃんと考える。だから……っ」
「カミユ殿下を利用するなんて、そんなこと……」
「これは僕が、望んだことなんだ。だからシェリルが気にすることなんて、何もない。君はただ、頷いてくれるだけでいい。そうすれば僕が全て解決してみせる。僕は全く気にしないけれど、君がそう望んでくれるなら、僕の悪評が広まらないようにだってしてみせるから」
本当に、なんて幸せな夢なんだろう。
カミユ殿下が、本当に私を想ってくださっているというのを、全身で感じる。
この時、私は、何か大事なことを見落としているような気がしたけれど、幸せな夢に流されて、それに気づくことはできなかった。
「君が不安に思うことは、何も起こらないって約束するから。だから、頷いて、ね、シェリル」
本当にそうしたいとカミユ殿下が思うのであれば、私の意見を無視して進めることだって可能なのに。
殿下はあくまで、私の同意を得ようとしてくれている。
「カミユ殿下……どうか、フランツ様と婚約を解消するために、お力を貸してください」
「うん、うん、もちろんだよ。僕を頼ってくれて、ありがとうシェリル」
お願いしているのも、助けてもらうのも私なのに、カミユ殿下がお礼を言うなんて。
「そうと決まれば、善は急げだ!その服はちょっとラフすぎるかな……すぐに着替えを用意させてくるから、その間にシェリルは涙をしっかり拭いておいて!」
「え?えっ??」
カミユ殿下は私にふわふわのタオルを1枚握らせると、急いで部屋を飛び出してしまった。
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