第6回 漢字の使い分けも表現手法の一つですよ

第3回で助詞や送り仮名が一文字違うだけで、句の印象が変わるというお話をいたしました。

それと近しい内容ではあるんですが、漢字の使い分けも重要な表現手法の一つだと教えていただきました。


例えば、


ひぐらしの道のなかばに母と逢う 寺山修司


という句があります。

(そういえば5月4日は修司忌でしたね)


寺山修司は、「母恋」や「母殺し」がモチーフの作品が多いとされています。

この点を踏まえると下五の「あう」を、「会う」ではなく「逢う」としたところに、上記の句のこだわりがあるのかなと。

殺したいくらい愛おしい母と「あう」情景に、「逢瀬」の「逢」を持ってきたわけですからね~。


ひぐらしの道のなかばに母と会う


だと、「ひぐらしが鳴く道の途中で母親にただ出会った」という句になってしまいますかね。詠み手の母への想いも薄くなる気がします。


「会う」も「逢う」も音声は同じですが、どちらを使うかで作者の詠みたかったことの意味合いが違ってくる感じがします。

句は韻も重要である一方で、小説などと同様に俳句は視覚的な表現でもあるということですかね?

なんだか、とても面白いと感じてしまいます。


それでですね、私なんかは常用漢字をつい使ってしまい、漢字の使い分けがおろそかになりがちですね。

必ずしも間違いではないと思うんですが、「こっちの漢字の方がよいかも」と指摘を頂くこともありますね。使い分けを意識しないと、説明的な印象の句になってしまうのかもです。


漢字の話が出たついでに、漢字とひらがな・カタカナ、ひらがなとカタカナの使い分けについてもよく指摘されますね。


漢字が多い句を作ると、「ちょっと印象が重たいかな?」と言われることがあります。お経みたいってことなんですかね?そういう句もありますけどね。

なので句の印象を柔らかくしたい時、一部の漢字をひらがなにすることもあります。


また、ひらがなとカタカナのいずれでも表記可能な語(じゃんけんとジャンケンなど)について、どちらで詠むか使い分けに悩む時もあるのではないかなと。

(個人的にあまり気にしたことはないですが、スマートフォンとかインターネットといった、季語でないカタカナを句の中で使うのを好まない俳人の方もいらっしゃるらしいです)


なお、季語は「漢字」というのがセオリーらしいです(夏井いつき先生の本によれば)。なので、「カブトムシ」ではなく、「兜虫」ということになるんでしょうね。

正直、季語は漢字というのが曲者でですね、難読の漢字もあって読めないんすよ。

この字、なんて読むの?みたいな。「蚯蚓」って、読めます?

なので、句の内容云々の前に鑑賞ができない、正しく読んでもらえないというトホホなことになることもありますね…😂


さて、今回はこれくらいで終わります。

次回は何を書こうかな…🤔

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