第32話 万屋の責務 (第3章 終)

 狼の唸り声が煩い。

 人の姿を取り戻しても、ずっと唸り続けている。



 万屋はピンクメルトが鏡にかけた魔法の解析を進めていた。

 手帳を開くと、そこにかかれた文字を指でなぞり、

「やはり、新しいな」

 と、納得したように呟いた。


 ドアがノックされた事に気付き万屋は顔を上げた。ドアを開けると、ピクニックバスケットを持ったセージが立っていた。


「すみません。邪魔でした?」


 申し訳なさそうに首を竦める青年に、万屋は苦笑した。


「いや、ちょうど休憩しようと思っていたところだよ」


 万屋はセージを部屋に迎え入れると椅子を勧めた。セージは廃ホテルの祭壇に飾られていた鏡を見つけると「何か分かりましたか?」とバスケットを開けながら訊ねた。


「色々とね」

 万屋は鏡を手に取ると裏側を見せた。

「呪文が刻まれていたんだよ。呪文は魔法使いの流行を表すから、相手を知るには重要な手がかりになる」


 万屋は呪文をなぞると、「全て最近の流行で書かれている」と続けた。


「悪魔の文字や古い言葉がない。言葉選びのセンスと文字の並びの癖から、おそらく魔法を使えるようになって五十年も経っていない未熟な魔法使いだ」


「五十年が、最近……ですか?」


「そうだ。百にも満たない若造だ。思慮に欠けたような大胆な犯行を繰り返している事からも矛盾しない。ピンクメルトは力に溺れたクソガキだ」


「クソガキって……。いや、間違いじゃないんですけど。時間感覚のズレについては、ひとまず置いておくことにします」

 セージは疑問を飲み込み、一番の問題に集中することを選んだ。


「確かに、クソガキですね。力に溺れて、殺人をゲームのように楽しむなんて」


 セージが膝の上で拳を握り絞めたのを、万屋は見逃さなかった。本人は気付いていないようだが、セージは怒ると拳を握る癖がある。


「理解できないだろう。悪魔を崇拝する魔法使いはイカレているんだ」

「理解したくもありませんよ。そんな動機で誰かを傷付ける奴のことなんて」


 見ず知らずの人間と、グレムリンが受けた理不尽に対して、セージは心の底から怒っていた。


 種族分け隔てなく、皆を思って拳を握り絞めるセージの姿が、万屋の目には眩しく映った。


「そうだな。君は、理解すべきじゃない。……ピンクメルトなんて、あんなくだらないもの」

「万屋さんは……?」


「理解している。契約した動機は違えど、私はあいつと同じ、魔法使いだからな」


 そう口にすると、万屋はピンクメルトの動機を説明し始めた。


 ピンクメルトがカルトを作って全滅させたのは、契約した悪魔に贄を捧げる為。

 その方法にピンクメルトが得意とする魔法を選んだのは、力と残酷さを見せ付けて悪魔を喜ばせる為。魔法使いは悪魔に気に入られたら、自分自身も悪魔にしてもらえると信じているからだ。


 そして、目論見通り悪魔となり、より強力な力を得たピンクメルトは、今後も快楽殺人を続けるに違いない。


「早く捕まえないと」

「既に手は打ってある。ピンクメルトの被害者の為に、あわい横丁の入り口を開けておいた。近いうちに手掛かりはこの探偵局に転がり込んでくるだろう。それに、手掛かりと言えば君もいる」


「え?」


 セージが目を丸くするのを見て万屋は、しまったとでも言いたげに口を押えた。


「……すまない。今のは言い方が悪かった。どうも最近気が立ってしまって……紳士らしからぬ言動が多くなっている。自覚はあるんだが、衝動を抑えきれない。所詮は悪魔憑きの妄言だ。どうか気を悪くしないでくれ」


 セージが首を傾げたので、万屋は早口に続けた。


「君を生餌にしようとした訳じゃないんだ。そこまで堕ちちゃいないさ。ピンクメルトが君を殺す前に、私が奴を仕留めると約束する。だから安心してほしい」


「ピンクメルトが僕を殺す……? あっ。そ、そうでした! グレムリンは救出できたけど、僕はまだあいつの標的にされたままでした!」


「は? まさかとは思うが、忘れていたのか⁉」

「だ、だって、グレムリンと残留思念の事で一杯一杯だったので……」


 万屋が過去一大きな溜息を吐いた。


「……君は本当に、奇特な人間だな」

「怒ってます?」


「そうだよ。でも、説教するのはやめておく——」

 万屋は「それよりも」と、セージの握り拳を指差した。ずっと拳を握っていたセージは、サンドイッチを一口も食べていないし、スープにも手を付けていない。


「今は来るべき時に備えて、食事をとって休みたまえ。いざという時、寝不足で動けないんじゃ困るからね」


 慌てたようにサンドイッチに噛り付いたセージを見て、万屋はハーブティーの準備を始めた。


「よく眠れるのを淹れよう。君とジャックの分だ。飲んだらゲストルームを使って休むといい」


 セージはサンドイッチで口をいっぱいにしながら「ありがとうございます」ともごもご伝えた。そして、苦労して飲み込むと、着々とハーブを調合する万屋を少しの間観察していた。


「どうした?」

 万屋が首を傾げると、セージは思い切ったように口を開いた。


「薬草の知識を持つ人達のこと、今はハーバリストって言うんだと思います。恐ろしい魔法使いや魔女じゃないって、多くの人が知っています」


 万屋は、ああと目を細めた。


「魔女狩りの話をジャックに聞いたのか」

「すみません。でも、気になって」

「君が謝る事じゃない。話さない私が悪いんだ」

「……無理にとは言いませんよ。でも、代りに一つだけ言わせてください」


 セージは万屋の深緑の目を真っすぐに見据えた。


「僕は万屋さんの味方です」




 トレイにティーポッドとカップを乗せたセージの後ろ姿を、万屋は暫しの間見送った。


「そうだな。君は、とても奇特な人間だ。私にはもったいないくらいの、善い人間だ」


 ピンクメルトが殺しを楽しむ魔法使いである以上、この事件は今までとは比べ物にならないほど危険だ。

 グレムリンの救難信号をきっかけに、ピンクメルトは挑戦状を叩きつけてきたものの、おそらくピンクメルトはまだセージがどこの誰なのかも知らない。さらに、万屋がピンクメルトの魔法を解いた上で召喚を阻止したことで、ピンクメルトがセージを魔法使いだと誤解した可能性もある。悪魔の力を試す絶好の機会と考え、いよいよ本腰を入れて探し始めるだろう。


 セージが危険に首を突っ込んだのは、助手として使命を全うしようとしたからだ。

 以前なら万屋は、セージが事件に巻き込まれる理由を作った自分を責めたかもしれない。

 ふゑあり事件の時でさえ、万屋はセージを連れて行くべきではないと考えていた。でも、その時はふゑありを思う彼の気持ちと、自分の好奇心を優先してしまった。


 そして、あの事件でセージの人柄を知った。彼がふゑありの為に悲しみ怒るのを見て、万屋の中で何かが動いた。

 セージは権力者の圧力にも負けず、トラウマを植え付けた怪異を救うために命を懸けられる人間だった。疑心暗鬼と保身の為に魔女を作り出した民衆とは真逆の、勇気ある人間だと感じた。


 しかし、セージは自分自身の長所にも気付かないほど臆病で後ろ向きで、面倒臭い奴でもある。


 万屋にとって、セージはあまりにも面白い人間だった。だから彼の持つ第六感を理由に、才能があるからと助手に誘ってしまった。


 その時は、自分の正体を隠し通す自信があった。

 霊や残留思念に触れるセージの才能が、今回のように彼の身を危険に晒す可能性には気付いていたが、そういう場所には連れていかなければ良いと思っていた。


 しかし実際は、あまりにも浅はかな考えだった。


 そして、セージは万屋が思っていた以上に、万屋の事を信頼していた。その証拠に、万屋の正体を知ってもセージは万屋に対する態度を変えていない。


「なぜなら、セージ……君は、私が君と同じような善人だと、信じているからだ」


 万屋はドアを閉め、「残念だが、それは違う」と懺悔するように呟いた。


「私は、ピンクメルトのような魔法使いや悪魔を崇拝する人間を何百人と手にかけた。命乞いに耳を貸さず、何者であろうと残酷に殺す……その為の力が欲しくて、悪魔マルコキアスと契約したんだよ」


 万屋は独り自虐的に笑った。


「話せば、君は私に失望するんだろうな」


 万屋は溜息を吐くと、自分の為に紅茶を淹れた。

 椅子に座ってカップを口に運んだとき、壁にかけた故郷の写真が視界に入った。あの森も、今は街に変わったらしい。


「混乱の中で、多くの仲間が血を流した。心を許した友も、将来を誓った女性も、母も、皆死んだ……それなのに、私だけがまだ生きている」


 善い魔法使いも、悪い魔法使いも、最早現世では御伽噺だ。

 でも、ピンクメルトは確かに存在している。動画に映された予告状を見た時、マルコキアスが殺せと囁いた。そして今もまだ、狼の姿をした悪魔は唸り声を上げている。


「分かっている。その為にお前に魂を売った。なぜなら復讐は、生き残った者の責務だからだ。……それに、私はこの横丁の管理人だ」


 御伽噺に出てくる悪い魔法使いが暴れ続けたら、現世の住人は怪奇現象を当然と受け入れるようになるだろう。そうなれば幽世と現世の境界がなくなり、あわい横丁が消滅するのは時間の問題だ。


「これ以上奪わせてたまるものか」




 殺せ、殺せと狼が唸っている。

 唸り声に耳を傾ければ、万屋の目は血が滲んだように赤く染まった。

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