3章 伝搬する救難信号
第23話 狼と冬の魔女
万屋は薬瓶を呷ると、薬が体を作り変える苦しさから薬瓶を取り落とした。飲みなれた魔法薬のはずだが、今はまるで劇薬のようだった。
彼は暗い部屋の中で、自分の吐息に狼の唸り声が混ざるのを聞いていた。灯りをともさずとも、洗面台の鏡に映るのが、人の顔でないことは分かっていた。
万屋の予想通り、鏡に映っている顔はガラスのようにひび割れ、口からは狼の牙が覗いている。
「クソッ変身薬の効キガ悪イ」
悪態にも唸り声が混ざってしまう。昼間は元の姿に変身していられるが、夜になると薬の効きが悪くなる。
この症状が出始めたのは、七尋幽霊の一件で悪魔の姿を晒した後だった。半分悪魔になりかけている万屋は、変身薬と変身魔法で人の姿を保っている為、どちらも効かなくなれば悪魔の姿に近づいてしまう。
薬に効果が無い訳ではない。薬はちゃんと効いている。ただし、正しく作用していないようだ。体の中を暴れ回る魔法が出鱈目に臓器を変身させるせいで激痛が走っている。「GRRRRRRR‼」と唸り声を上げてしまうのも無理はなかった。
万屋はのたうち回るようにして洗面台を離れた。自室に戻り、外の空気を吸う為に窓を開けようとして、窓に白い影が映ったことに気付いた。
万屋は咄嗟に毛布を頭からかぶって顔を隠すと、窓を開けた。
月光のように白い小さな影は、するりと窓の隙間から床に降り立つと、琥珀色と水色の双眸で万屋を見上げた。
「こんばんは。探偵さん」
そう言って、ニャアと一鳴きする銀の毛並みの猫を万屋は知っていた。今は猫の姿をしているが、彼女は万屋がよく足を運ぶ喫茶ひすがらの店員、ルナだった。
「ルナ、さん……悪いガ、また明日、デ直してクれナいか?」
万屋が平静を装って発した声は、ノイズがかかったように聞き取りづらいものだった。
自分への苛立ちからgrrrと唸り声が漏れた。しかし、ルナは慣れた様子で、万屋を気遣うようにニャオと鳴いた。
「ごめんなさい、探偵さん。でもご主人様が、どうしてもと仰いますの」
『ご主人様』と聞いた万屋が僅かに後退る。ルナの主人が誰なのかを、万屋は嫌という程知っていた。
「本当なら、ご主人様の騎士である父が来なければいけないのに、お店の仕込みが忙しいからと言って、私を使いに……」
「構わないガ。シ、師匠の用事トは?」
ルナは万屋に近づいて見上げた。色違いの目の片方、琥珀色が水色に染まり、瞳孔が細められた。
その途端、万屋の全身に燃えるような痛みが駆け抜けていった。だが、悲鳴を上げて蹲った瞬間、痛みは嘘のように引いた。浅く早い呼吸を繰り返しながら、自分の頬に触れる。ヒビも牙も消え、人の顔に戻っている。
「
凛とした女の声に名前を呼ばれ、万屋はその場で片膝を付いて頭を垂れた。
今彼の目の前にいるのはルナではなく、その体を借りた大いなる魔法使いだと気付いたからだ。
「……お、お久しぶりです。師匠」
平静を装おうとしたが、声は掠れてしまった。それほどまでに、目の前の相手は厄介だった。
ルナの中に彼女が宿ってから、部屋の温度が下がり始めている。初夏だというのに、まるで真冬のように万屋が吐く息は白い。木製の床には霜が降りていく。
何をするつもりなのか、と動揺を隠しきれない万屋を見て、ルナの中にいる師はフッと笑った。
「失態に気付いているなら結構。でも、人に戻れない理由は分かるかしら?」
何も答えず俯いたままの万屋を下から覗き込むようにして、彼女は続けた。
「ルナの目を通して見ていたわ。あなた、なかなか愉快にやっているようね。人間の助手を持ったり、とか」
万屋が青褪めるのを見て、彼の師は「咎めている訳じゃないのよ」と付け足した。
「私が心配しているのは、あなたの心の在り方よ。セージ、だったかしら。あの子に正体を隠そうとするあまり、ボロが出ているのよ」
彼女は万屋が目を逸らしたのを見て溜息を吐いた。
「悪魔と契約した理由をあの子に知られたくないのは分かるけれど、理由を隠す事が不誠実だと咎めるあなたの心が、あなたを悪魔に変えようとしている。だって自分にとって有利な契約を押し付けるのは、悪魔の常套手段だものね」
彼女は万屋に背を向けると窓辺に向かって歩き出した。
「あの子を助手として迎える事に、反対はしません。でも、あわい横丁に必要なのは、悪魔と契約した汚らわしい悪魔憑きじゃないわ。隣人達に敬意を払った、古き善き魔法使いよ」
「古き善き魔法使いですか……」
万屋が呟くと、師は「ええ。今はもう、魔法使いと言えば悪魔の影が付き纏ってしまうから」と苦笑した。
「だとすれば、師匠。やはりこの横丁を私に任せるのは間違っています。私は母の誇りを取り戻す為に、愚かな選択をしました」
「だからこの横丁をあなたに任せたのよ。あなた達親子も、私も、居場所を失くした古い魔法使いだから」
万屋が顔を上げると、師は猫の顔でフッと笑って窓枠に飛び移った。
「私はあなたに期待しているのよ。名誉挽回してみせなさい」
「しかし、師匠——」
万屋は続く言葉を飲み込んだ。
「ニャア?」
琥珀と水色の双眸の猫が、不思議そうに万屋を見つめ返したからだ。先ほどまでの圧はない。部屋の温度も元に戻っている。ルナの中から、師は消えたらしい。
ルナは申し訳なさそうに万屋を見つめ、「意地悪されませんでした?」と心配そうに尋ねた。
「いや。悪いのは私だ。師匠の気遣いを素直に受け取れないのだから」
万屋は自虐的な笑みを浮かべ、ドアへと足を向けた。
「こちらへ。もう遅い時間だ。喫茶店まで送ろう」
万屋は魔法で部屋のドアを喫茶店の入口に繋げると、ルナの為にドアを大きく開いた。
「無礼を働いたのは、私とご主人様ですのに……。探偵さんは紳士ですのね」
ルナは床の上に静かに着地すると、万屋の足に額を当てて感謝を示した。
「最初に会った時のこと、思い出しましたわ。あの時もドアを開けて、迷子になった私を横丁に帰してくださいましたね」
ふと万屋は、雪の降る暗い森の中で傷ついた白い子猫を抱き上げた時のことを思い出した。
「……あの時私がドアを開けられたのは、師匠がルナさんを迎え入れようとしたからだ」
ドアの向こうに消える白い影に、「助けられたのは私の方だよ」と万屋は小さく呟いた。
ドアを閉めたその時、部屋の中でカタッと乾いた音が響いた。
振り返れば、開けっ放しになっていた窓から吹き込んだ夜風が、壁にかけた額を揺らしていた。
万屋は窓を閉め、傾いた額を元に戻した。そこには、故郷の森が無くなると聞いて、急ぎ出向いて撮った写真が収められている。褪せたモノクロの風景でも、この写真を見れば透き通った緑の息吹を思い出せた。
この森で、万屋は母親からにハーブの知識を受け継いだ。薬草魔女の母は、森に住む見えない隣人達に目を向け、言葉を聞き、力を借りて厳かに生きる賢者としての誇りを説いた。
「薬草魔女。森の賢者、か。あの頃は私も、あの森で生涯を終えるのだと信じて疑わなかった」
万屋は視線を写真からベッドの方へ滑らせた。壁の上には、ドリームキャッチャーがかけられている。
「土地を捨て、信仰を捨て、海を渡って逃げても無駄だった。どんな
もう終わった事。どうしようもない事だと分かっている。それでも……身を焦がす復讐の火は今も燃え続けている。
狼が唸っている。
魔法使いの名を穢し、母達の誇りを踏みにじった奴らを許すなと、万屋の中で悪魔が囁き続けている。
契約を持ちかけた悪魔は闘争を好み、万屋が魔法使いの名を騙る悪魔憑きを殺すことを望んでいる。
悪魔を憎む万屋が、復讐を成し遂げて身も心も悪魔に変貌するのを、両手を広げて待っている。
悪魔は囁く。
悪魔憑きが古い魔法使いの敵であることを。かつて古い魔法使いに力を貸した隣人達が、悪魔を恐れていることを。
悪魔と契約した万屋は、多くの隣人達に嫌われている。
いくら姿形をあの頃のように繕っても、もう森の賢者には戻れない。
万屋が助けを求めて縋れるのは、契約した悪魔だけなのだと——。
悪魔は囁き続けている。
「悪魔でも賢者でもない。私は死ぬまで半人前だな」
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