第21話 揺蕩う糸

 鬼屋敷は風鈴が鳴る涼やかな風が靡いていた。今夜の屋敷は静かで誰ともすれ違わない。独りを除いて。

「ただいま帰りました、大旦那様」

 私室に入った途端、荒れた息と共に背後の気配に気づいた。

「飛脚伝言には買い出しのため遅くなると綴ってあったな。それが、あのざまか」

「大旦那様だって……もみじ様と散歩されていたではありませんか」

 どうしてだろう。考えるよりも先に声が出てしまう。

「それから四神様に向かってあのざまはとは無礼ではありませんか。青龍様はいつだって汚れた言葉は使われない。大旦那様も見習って下さい」

「門限を破っておきながら青龍を褒め上げ僕をコケ落とすとは。そうか、分かった。花純の見識は地に落ちておるらしいの。待っていた僕は愚かだったな」

「そこまで申すのであれば今一度下界へ戻って下さい。もみじ様と戯れる方が楽しかったのでは?」

「ああ、そうだよ。もみじと過ごしておれば、こんなにも忌々しくならずに済んだ。花純も青龍と戯る方が似合いだ」

「そうしたくございましたが門限に邪魔されたので帰ってきました」

 意味不明な言葉が声に出てしまう。吟と言い争いをしたい訳じゃないのに。そもそも吟がもみじ様と現れてから胸に閊えができてしまって、はああ……素直になりたいのに。

「僕が嫌いなのか?」

 荒げていた声を静めるかのように吟の声はか細くなった。私も心を落ち着かせて吟に向き合った。

「嫌いではありません。私が言いすぎました。申し訳ございません」

 過去に戻ってしまった不安を吟に八つ当たりしていた。

「先の花純は笑っておったな。屋敷では見せぬ笑みだ」

「いつもの浮世絵育ちが出ただけです。絵の世に入った感覚は、それはもう有頂天。笑みを隠しきれません。大旦那様も、とても表情が柔らかくございました。屋敷では張りつめた表情ばかりなので、少し驚きました」

「和らぐものか。今宵はな……花純と夜市に参る予定だった。僕が見せてやりたかったんだ。絵ではなく、本物を」

「私を待っていてくれたのですか?」

 吟は俯いたまま声を発さなくなった。妖都から零れる明かりを名残惜しそうに見たかと思えば不意に視線を合わせてきた。

「なあ花純に頼みがある……」

「はい」

「僕の側から離れるな」

 吟の声が擦れた。続きを遮るように鬼火丸さんが障子に影を作った。

「鬼頭、もみじ様がお待ちです」

「待たせればよい」

「裏あやかしの目星がついたと申しております」

「分かった。すぐにゆく」

 胸騒ぎがした。とても嫌な感覚。障子越しの反響に私は吟の裾を持った。

「行かれるのですか?」

「心配には及ばん。他愛ない件を片付けてくるだけだ」

 鬼頭は知らぬ間に敵を作ると知ってから吟の帰りが気になってしまう。

「必ず帰って来て下さい。夜は鬼の宴がありませんと屋敷は物騒だから」

「ああ。行って来る」

 障子に手を伸ばしたときだった、透かさず吟の手が私の手首を掴んだ。

「なんだこの痣は」

「痣ですか?」

 吟は鬼火を作って私の手を照らした。

「手袋を脱げ」

 手袋を外した。赤く刻まれた切り傷のような線が紅色に滲んでいた。心当たりがあるとしたら黒羽様に触れた時、度を越した燃えるような感覚を腕や手に感じた。

 私は吟の顔を覗き込んだ。吟の眼力が鋭くなっていた。

「これは……」

「花純」

「ですから、これは」

 声帯が拒んだ。私に影響が出ていただなんて、先に知っていれば隠せていた。なぜ確認をしなかったのよ。

「そうです、青龍様の宮中にて強打しました。地下牢は行燈だけでは足元しか見えません。私の注意不足でございます」

「鬼頭、そろそろ」

 鬼火丸さんが割って入った。吟は訝しげに分厚い衣を羽織った。

「訳は帰ってから聞く」

「ほんの些細な出来事でした。私の手は以前から変色もあり得るのです。普通にすぎません。ですから気に留めないで下さい」

「僕を甘く見るな」

「でも本当に」

「花純の治癒力を知っておる。強打ならば今頃、無かったかのように手は元に戻っておるはずだ。小さな嘘ほど大きな真実が潜んでおるらしいの。それから手首の温度が低いぞ」

 私の嘘を見破る時、吟は温度を測るように推測する。本屋へ出向いた際に言われた。

「……私は」

「もうよい。今はもみじが先だ」

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